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そんな期待をする前に、もっと考えるべきことがあったということを拓磨が悟ったのは、あらかた生徒が新しい席に着席した頃、教室の扉が開き、教頭が1人の小柄な女子生徒を連れて、教室に入ってきた時であった。
金色の長い髪の毛。
整いすぎている無表情の顔。
高校生にしては、低すぎる背。
春日高校の夏服を着ている事を除けば、拓磨はこの世で1人だけ、知り合いに心当たりがあった。
「エリス?」
思わず立ち上がる拓磨。
数人の生徒が、何事かとこちらを向く。
しかし、エリスはこちらを一瞥しただけで、無表情で正面を向いた。
「エリスって何だ?」
「また、櫻井ワールドか?」
ひそひそ声が聞こえる。
「櫻井、どうした? 座らないか」
教師の声に我に返り、拓磨は再び腰を下ろす。
当たり前だ。
こんな時期に転校生など、どう考えても不自然すぎたのだ。
そして、昨日の今日だ。
拓磨を解放しつつ、もっとも確実に逃がさない方法。
まさにこういう場合での定石中の定石。
気づいて然るべきだったのに。
拓磨が悶々としている中、黒板に『桜庭かなみ』と書かれ、教師が判で押したような紹介をしていた。
両親が急な仕事の都合で、海外赴任となり、親戚の家に住むことになった等、漫画にありがちな、造られた『桜庭かなみ』の経歴を。
教師の紹介が終わり、エリスが促されるままに拓磨の方に近づいてくる。
……と言っても、隣の席に向かっているだけだが。
途中、数人の男子がエリスにアピールするが、冷たい目で一瞥され、ばつの悪そうな顔をして下を向く。
エリスは何事もなかったかのように、拓磨の隣に着席し、黒板の方を見た。
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拓磨の隣の席で、エリスが前を向いている。
その様子を横目で見ながら、拓磨は思考を巡らせる。
――作戦とやらはどうなっているんだろう
――まさか、タケトもどこかのクラスに入ってるんじゃないだろうな
何故か、エリスの机は拓磨の机とくっついている。
教科書を持っていないエリスは、『櫻井に見せてもらうように』と教師に言われたためである。
拓磨は教科書を机と机の間に置き、エリスに見えるように広げている。
しかし、エリスは教科書を見ることなく、教室内を興味深げに観察している。
特に暴れるわけでもなく、極めて物静かに教室にとけ込んでいる。
賭けても良いが、授業内容はさっぱりのはずだ。
拓磨が考えていると、トンと軽い衝撃があり、我に返る。
感覚のあった方を見ると、エリスが肘で拓磨を小突いていた。
何事かとエリスの方を見ようとしたが、すぐに教科書に走り書きされている文字を発見する。
『今日の、天気は快晴か?』
――?
拓磨は首を傾げる。
念のために外を見るが、あいにくの曇り空だ。もしかしたら、雨が降るかもしれない。
『いいや、曇りだ』
拓磨がペンを走らせると、エリスは少し息を呑み、再び教科書に書き込む。
『じゃあ、歌はまだ続くのか?』
――??
意味不明である。
拓磨はエリスの顔を見て、再びペンを握る。
『今は数学なんだけど、歌は関係あるの?』
「お前! まさかっ!」
突然エリスが、がたがたと音をさせながら立ち上がり、拓磨を睨む。
次にエリスが口を開こうとした瞬間、
「桜庭~、何か質問か?」
教師の声に、はっと我に返り、黒板の方に視線を移す。
気づけば、黒板に円を描きかけの状態で、チョークを持つ手を止めている数学教師が、こちらを見ている。
当然のごとく、教室の全員が、何事かとエリスを注目している。
「すみません、何でもありません」
エリスは、少し高い声でそう言うと、腰を下ろした。
数人が興味深げにエリスを見ていたが、教師が再び喋り出すと、前に視線を戻す。
(何故、コードを覚えていない?)
エリスが、小声で拓磨に聞く。
(コード?)
拓磨は首を傾げた。
(タケト大佐から聞いているはずだ)
ここで、拓磨はああと思い出す。
昨日、あの後、エリスの指示を受け、タケトが紺色のファイルを持って訪れた。
『通常通信手段』
『科学系戦術手段』
と書かれており、タケトは『拓磨の国の言葉に翻訳してある』と説明した。
その本を読んで覚えるように言われていたのだ。
(いや、とても覚えきれるものじゃなくって……)
拓磨の言い訳に取り合わず、エリスは冷たい声で囁いた。
(少尉、言い訳は良い。命令だ、今日中に全て覚えろ。さもないと処分する)
(……)
(聞こえているのか? 少尉、命令復唱)
(あ、ああ、……今日中にコードを覚えます)
拓磨は、曖昧に呟く。
エリスは拓磨を一瞬ちらりと見たが、再び前を向いたまま、以後口を開かなかった。




