(5)逃亡
かなり長い時間に感じる沈黙の後、エリスは、机の引き出しから何かを取り出した。
拓磨が知っているタブレットに似た、厚さ1mm程度のA4大の板。
青白い背景の中央に大きな文字でタイトルが書いてあるが、あいにく拓磨には読めない。
「やはり、時間が無くても予習しておくべきであったな」
エリスは、小さくため息をついた後、無造作に板の表面を指でなぞり、ある場所で止めると、内容を黙読し始めた。
軽く頷くと、再び指を動かす。
時間にして1分足らず、それを数回繰り返した後、エリスは再び拓磨を見た。
「少し、質問したい」
頷く拓磨。
「我々の国では、何かを決めるとき、……それは、個人の自由より、大儀の方を優先せざるを得ないときだが、それぞれのケースで、様々な決め方がある。例えば、作戦行動中は部隊の責任者に絶対権限がある。これは、先ほど説明した通りだ」
「うん」
「では、お前の国では、どのようにしているのか? 教えてはもらえないか?」
なるほど、エリスは、この国のことを学ぼうとしているのだ、あのタブレットには、恐らく、この国の情報が載っているのだろう、と拓磨はエリスの質問を好意的に解釈した。
「そうだね。確かに、僕達の国でも最大多数の最大幸福って思想があって、つまり、個人個人の主張が異なる場合などには、多数決とかで最終決定することもあるね」
拓磨のその言葉に、エリスは顔を上げた。
「なるほど、……多数決ね」
エリスの無表情な顔の口の端が、ほんの僅かに上がり、瞳に妖しい光が宿った事を、拓磨は気づかない。
「カイ中佐! エミリ少佐 ! すまない、ちょっと来てほしい」
焚き火の前のカイとエミリが、何事かとエリスの所に駆け寄る。
「エリス中将、どうしました? もう出発するのですか?」
エミリがエリスに聞いた。
エリスは首を振り、エミリの方を向く。
「いや、出来ない。ちょっとトラブルだ」
「中将の作戦でトラブルなんて、私は歴史の重大な珍事に直面しているのかしら?」
エミリは、おどけた様子で首をすくめる。
タケトやエミリの言葉で、エリスが顔に似合わず、中将の位にふさわしいキャリアを持っているのだろう、と言うことは、拓磨も薄々感じた。
エリスは集まったメンバーを見渡すと、おもむろに立ち上がり、深呼吸した。
「では、ここにいる『櫻井』の姓を持つ陽界人入隊の件について……」
――まさか、ついに実力行使か?
拓磨は身構えるが、あいにく囲まれている。
いざとなれば、やけくそで逃げ出すしかない。
拓磨は、横目で焚き火の脇に転がっている自転車の位置を確認する。
しかし、エリスの考えは、拓磨の想像を遙かに超えていた。
「多数決を執り行う」
「え?」
エリスの次の言葉で、拓磨は立場が逆転したことを悟る。
「お前の国の方式だ。依存あるまい?」
拓磨を見るエリス。
無表情ではあるが、余裕が戻っている。
「いや、……そうだけど、ちょっと待って!」
「何だ」
「僕の自由な権利は、まずもって、保証されるべきなんだけど」
エリスは目を細める。
「確かにお前の国の憲法では、個人の自由が保障されているが、条件付きのはずだ。それも、『公共の福祉に反しない限り』という限定化においてだ。残念ながら、我々の今回の作戦行動は、お前の国の国益にも大きな関わりがある」
「?」
生半可な知識を披露すべきでない、と拓磨は悟った。
恥ずかしい話であるが、エリスの言うことが正しいのか間違っているのか、判断出来るほど、実は憲法を知らない。
「確か、『最大多数の最大幸福』だったな?」
「あ……」
――はめられた!
後ろでぷっと吹き出すタケト。
「やはり、中将に勝てる人間はいないと言うことだな」
エリスは、最初から拓磨の国の事情など知っていたのだろう。
その上で、拓磨がそれを根拠に反論してきたので、同様の根拠で拓磨に対し反撃したにすぎない。
しかも、恐らく、あの僅かな間でそれを考え、拓磨を誘導尋問にかけたと言うことだ。
見かけに騙されてはいけない。
拓磨は、じいちゃんが言っていた、基本中の基本を忘れていた自分に腹が立った。
拓磨の様子をしばし見ていたエリスは、少し息を吐き、再び口を開いた。
「特に何も無いようなら……、移送するに当たり、彼を第十三科学系戦術師団に入隊させても良いと思う者、手を挙げて」
拓磨の周りで、すっと手が上がる。
エリスは、すました顔で数を数え、紙に書き込む。
「では、入隊させるべきでないと思う者、手を挙げて」
泣きそうな顔で、手を挙げる拓磨。
拓磨をちらりと見、机の紙に書き込むエリス。
その後、重々しく紙を目の高さに掲げる。
「多数決の結果、賛成3、反対1で賛成多数により、彼の入隊を決定する」
「そんな!」
――そもそも、最初からこうするべきだった
――何を僕は、律儀に馬鹿馬鹿しい多数決なんかに付き合っていたんだ?
拓磨は、少しずつ後ずさる。
「どこに行くのだ?」
エリスは拓磨に問いかける。
「いや、……別に」
言いながら、拓磨は、再び横目で自転車の位置を確認する。
同時に、頭の中でシミュレーションする。
――よし、いける
心の中でかけ声をかけると、拓磨は、そのまま自転車の所までダッシュし、途中鞄をひっつかみ、自転車を起こし、飛び乗り、思いっきりペダルに体重をかける。
「止まれ! 無理だ!」
がたがたと音をさせ、エリスが机を飛び越えた。
エリスの声を背中に受け、何かの恐怖から逃れるかのように、思いっきり自転車をこぐ。
まるで、エリスに襲われるかのような想像をし、全身の毛が逆立ち、その恐怖が拓磨に普段以上の力を与える。
「待てっ! 危ない!」
草色の服を翻して走るエリス。
「うわあああああああーーーーーーーーーーっ!」
後ろから迫ってくるエリスの足音に、拓磨の恐怖は頂点に達する。
拓磨は進行方向一点に集中し、闇雲にペダルをこいだ。
「総員! 待避っ! 接近車両に気をつけろ!」
タケトとカイが同時に叫ぶ。
進行方向にたむろしていた兵士達が、びっくりして両脇に飛び退く。
ぐんぐん加速する自転車。
「くそっ!」
エリスは腰から紙を数枚取り出した。
「間に合うか?」
エリスの手の中で形を変えた紙を、思いっきり拓磨に向かって投げる。
放物線を描いた数枚の紙が、軌道を変え、青白い光を発しながら、拓磨の方に向かっていく。
エリスも、さらに走る。
途中、赤い物体が姿を現し、エリスが飛び乗る。
エリスが、『無駄だ』ではなく、『無理だ』と言った、その僅かなニュアンスの違いを拓磨が心の中で反芻したのは、突然地面が無くなり、拓磨の身体が自転車と共に勢いよく宙に浮いた瞬間であった。
――ここは、山の上だった!
自分の愚かさを呪う拓磨を、あざ笑うかのように、地球の重力は、宙に浮いた拓磨と自転車を、今度は物理法則に従い地面にたたきつけようと、毎秒9.8メートルの加速度で落下させ始めた。
崖の底へ。
徐々に落下スピードが上がっていく。
人間が本能的に感じる恐怖――落下の恐怖――を感じ、背筋が寒くなる思いで、地面へ激突する瞬間を待ちかまえる拓磨。
――夢なら、覚めてほしい!
拓磨は、目をつぶった。
走馬燈のように過去の場面が流れる、とどこかの本で読んだことがある。
それは、落下という人間が恐らく一生に一度しか経験しないことに対し、本能的に過去の経験を総動員で検索し、落下に対する対応を考えるプロセスから起こる現象だという。
しかし、今の拓磨の頭の中は真っ白だ。
エリスの叫び声を聞いたような気がした。
それを最後に、拓磨は、そのまま意識を放棄した。




