出会いと別れ
今は昔、世間から忘れられた、あまり知名されていない村のはずれにある暗い森。そこは薄暗くてじめじめした印象があって、村人たちは誰もそこに近づこうとしませんでした。さらに、その森には人を惑わすそれはそれは怖い魔女がいると噂されていて、踏み入れて迷い込んだ人は、二度とそこから帰ってくることはないという話でした。
実際、人はここに迷いこんだら方角も時間もわからなくて頭がおかしくなって錯乱して、結果的に底なし沼に足を入れてしまって死んでしまうこともありました。
ちなみに、森に魔女はいます。それはわたしが証明できます。だってそれは、わたしの母でしたから。でも、恐ろしくともなんともない人でした。どこにでもいるような普通の――普通と呼ばれる類の母がどのような人柄かは知る由もないのですが――母性愛を持ってわたしを時に愛し、時に叱りつけてくれる存在でした。それはわたしが行ったことに対する正しい接し方であり、決して理不尽に怒り狂っていたわけではありません。
そしてわたしは母を尊敬していました。気の弱いわたしと対照に、いつもおおらかな立ち振る舞いをしていた母はとても勇ましくて羨ましかったので、見習う点が多々ありました。見習ったとしても、効率の悪いわたしでは上手くいきませんでしたけれど。
話が逸れてしまいました。とにかく、母は怖い人ではなかったのです。
また話は変わってあくる日。わたしは母に食べられるキノコを採るよう言われたので、野山に出かけました。木漏れ日となって降り注ぐ光が宝石のようにきらきら輝いていて、外に出る絶好の日でした。
数刻ほど時間を費やして食べられるキノコと毒を保持しているキノコを選別しつつ、採集に勤しんでいると、遠くから反射してきた光が視界に飛び込んできました。それは一瞬のことで、一定の位置にいるとその光が何度も視界に飛び込んでくるようです。
時折眩しさに目を細めながらその光源に近寄っていくと、やがて新緑の苔や草木や土色の中に混じって人の姿が浮かび上がってきました。男の子でした。反射する光源は右手の人差指にはめられた、銀細工の施された指輪だったようです。
体調が優れないらしく地面に倒れて荒い呼吸を繰り返していました。唇の色は紫に変色して、断続的に苦痛の表情を浮かべています。わたしは状況に困惑しながらも母を呼んで、男の子を助けたいという思いに直結してその対処を求めました。母はそんな私の願いを汲み、魔法の力を用いて少年の治療に尽力しました。
病気の原因は知りません。変なものを食べたのか、持病か風土病なのかな、と思うだけに留まって聞くことはしませんでした。どうせ病名を告げられてもわかりませんし、聞いたところでわたしにできることは母を呼んで彼を助けてもらった時点で終わっていたからです。幼いながらに変なところで好奇心の薄い子だったのでしょう。さらに言うなら、母の魔法は万能なもので、わたしが心配しても杞憂なものでした。
日が沈むころには男の子の顔色が正常なものへと戻り、目を覚ますまではさらに数日かかりました。男の子は起きると慌てふためいて、わたしたちが――母が主になんですが――助けた経緯を伝えると、全身で精いっぱいの感謝の意を表現しました。
「なにかおれいをさせてください」
自身をベーメルと名乗った男の子は母に強く言い放つと、母は遠慮して、
「その代わりと言っては何だけど、アリスと遊んでくれないかしら?」
とベーメルに頼みごとをしました。アリスはわたしの名前です。ベーメルはわたしの方をまっすぐ見つめます。わたしは、住んでいるところが誰も寄り付かない場所だったせいで、母以外の人と接した試しがありません。そのせいで赤の他人に対して酷く臆病になってしまう性格でした。そしてベーメルの視線に耐えかねたわたしは母の背中に隠れて背中をまるめて、怯えた表情になってしまいました。でも、ベーメルは母に向き直ると元気よく、
「わかりましたっ!」
と頷き、わたしの下に駆け寄って素早く右手を掴みました。
「いこう!」
ベーメルはわたしが戸惑っていることに目にもくれず、強い力で外へと引っ張り出しました。わたしの方はと言うと、確かに赤の他人に触れ合うことへの恐怖はありましたが、それよりも知らない人とつながりを求める心のほうが勝ったようでした。ベーメルを拒絶しなかったということです。初めはつんのめっていたけれど、やがてベーメルと同じ歩調になって口元から笑みがこぼれていきました。
ベーメルからはいろいろな遊びを教わりました。ベーメルが夫役でわたし妻の役のおままごと。お母さんは確か――姑の役柄でしたっけ。あと草笛や鬼ごっこ、水切りをしたり、シロツメグサで髪飾りを作ってあげたり、活発な遊びからお淑やかなものまでを網羅して、ほとんど毎日遊んでいました。
子供のイノシシがこちらに向かって敵意をむき出しにしてきた時も、ベーメルはわたしの前に出て護ってくれました。何分もの威嚇だけの牽制が続くと、イノシシはそっぽを向いて草むらの中へと去っていったのでなんの被害もなかったのが幸いでした。その時のベーメルは物語の中だけで見るカッコいい騎士様のように思えました。
ちなみに、魔女の娘であるわたしは当然魔法が使えます。しかし体内で貯蔵されている力量があまりに大きく、子供のわたしでは扱えない代物でした。それゆえに母から魔法を使ってはダメ、という言いつけを受けていました。微弱な魔法でさえ、自らの体を蝕む毒でしかないようです。さらに言えば、蓄積した魔力はどこかで放出しなければいけなくて、そのたびにわたしは自分の体に鞭を打って魔力を放出しないといけませんでした。母がいつも傍にいてくれたので、暴発して身を滅ぼすことはなかったですけど。
日が経つにつれてベーメルとわたしはとても仲良くなり、親友と呼んでもいいほどの関係になりました。本当のことを言えば、ベーメルのことを好いていたんだと思います。始めて見た男の人ということもあったのでしょうが、それでも恋愛感情があったのでしょう。乙女心が芽生え始めたのだと思います。
「ね、ねえベーメル。わたしのこと、好き?」
「うん、好きだよ」
友達感覚での好きという意味だったのかもしれませんが、その言葉だけでわたしは舞いあがっていました。
「ほ、ほんとに?」
「うん」
「ずっといっしょにいてくれる?」
「もちろん」
その言葉はわたしを幸せでいっぱいにしてくれました。
「わたし、ベーメルのためにごはんもおせんたくもおそうじもできるようになる! だからずっと好きでいてね?」
子供どうしで交わされたささやかな約束事。ベーメルのおかげで毎日が楽しくなったわたしは、ベーメルと永遠に日常を過ごせることが当然だと思っていました。
ベーメルと出会ってから数カ月経って、空に暗雲がたちこめていた日。不穏な気配が森を浸食し始めて、それを察知した母はわたしたちを家内へと呼びこみました。昼下がりに武装した集団が小屋を取り囲んでいるのが窓越しに見えました。大きな体躯。鈍い輝きを放つ黒塗りの大きい鞘は幼いわたしでも恐ろしいものだと理解できました。盗賊かしら……ざっとみて三十人ね、と母が呟くのが聞こえます。
一人だけ赤いバンダナを腕に巻いた、リーダー格らしき男が声を張り上げました。
「ここに魔女がいると聞いた! 出てきてもらおう!」
すぐに母は窓から顔を出し、声を張ります。
「うるさい人たちね! いきなりそんな大勢で押しかけて迷惑だと思わないのかしら!」
「これは失礼。この森には人を惑わす魔女がいると噂されていたので、こちらとしても警戒せざるを得ないのだよ」
野蛮な風格だったのに口調は昔話に出てくる騎士様のようだったので、子供ながらそこに違和感を覚えて母にそのことを尋ねようかと思案しました――が、母が口元に指を当てていたので口をつぐむことに決めました。母がゆっくり外に出て会話が始まりました。
「心外ね。ええと、あなたたちは村に雇われた武装集団かしら?」
「いや、そうじゃない。魔女と戦ってしまってはこっちにも被害が酷いからな。頼まれたが断わってしまった。これは念のため、武装してきただけだ。――ベーメル! いるんだろう、出てこい!」
再び男が声を張り上げると、ベーメルは何かを覚悟したような表情で立ち上がり、母の後を追いました。わたしも後に続きます。
「あら、結局みんな来ちゃったのね」
「すみません。――なぜここに来たという言葉はぐ問でしょうね、お父様」
おとうさま?
赤いバンダナを頭に巻いたお父様と呼ばれた男が答えます。
「お前を連れ戻すため、ここに来たに決まっているだろう」
「ぼくはもどりたくありません」
「魔女に魅了されたのか」
「ちがいます。ぼくがここにのこりたいりゆうは、ここに好きな人がいるからです」
「惚れた女――?」
「はい、ぼくはアリスが好きです」
ベーメルがわたしのほうを一瞬見て、また正面に向き直ります。
「だから――故に帰りたくないと、そう言いたいのか」
ベーメルは首を縦に振ります。
「魔女ではなく、魔女の子に籠絡されたのか……」
「――そうですね」
「お前と言うやつは!」
ベーメルは男の言葉に割り行って会話を続けた。
「でも、まじょの力によって好きにさせられたわけではありません。ぼくはアリスのすがたにひかれました」
その時のわたしはこんな切羽詰まった状況でありながらも、心の中は嬉しさの渦でいっぱいになっていて、今すぐにでも赤くなったほっぺを隠して布団に転がりこみたかったです。もちろんそんな状況じゃないというのは子供のわたしで察することができましたから、母の後ろで大人しくしてました。
「理由は知らん。何にせよお前はこちらに戻る気はないというわけだ」
ベーメルの父は苦い物を噛み潰したような顔で仲間に言い放ちました。
「連れてこい。こうなっては荒療治でなんとかする他ない」
「お父様!」
「待ちなさい」
二人の会話を断ち切った母はベーメルの父に指先を突き付けて、
「あなた、まずわたしに言うことがあるんじゃなくて?」
堂々と言いました。
「は?」
「道に倒れていたベーメルを小屋まで運んで治療して、目が覚めるまで看病していたわたしになにか言うことがあるんじゃなくて?」
いきなり会話に横やりを入れられたベーメルの父は一度素っ頓狂な表情になった後、一度咳払いをして言いました。
「……まあ、その件には感謝しているぞ。貴方がいなければベーメルとこうして再会することはなかったからな」
「じゃあ、ベーメルは私が預かります」
木の葉の揺れや虫たちの囁き、風の流れなどの一切が凍りついた気がしました。
「わ、わけがわからん。ベーメルはわたしの跡継ぎとなる男なのだ。だから私達と共に行かねばならない。それを――」
「恩人の言うことくらい訊いたらどうなのよ」
母は相手の言い分にまったく物ともしないで、鋭い視線をベーメルの父にぶつけます。
「恩人だからと言って譲れるわけがないだろう! これは私達の未来に関わる問題なのだ!」
「嫌よ。だってあなたたちまともな集団だとは思えないもの」
「もし受け入れられないなら、こちらは強行手段に及ぶ」
「あら、魔女に勝てると思い上がってるのかしら」
「自分の身を守れるだろうが、その子たちの身は守れないだろう。この数だ」
ベーメルの父が言う主張を多少は聞き入れたのか、母は少し悩むような仕草をしました。
「譲る気はないのね」
「毛ほどもない」
「仕方ないわね……ベーメル。ちょっとこっちへ来なさい」
指先をちょいちょいと動かしてベーメルを招き寄せると、その首筋に血で濡れた指を這わせて血印を描きました。わたしにはそれが何を示すのかよくわかりません。
「な、なにをしているか! 全員、ベーメルの救出にかかれ!」
雄々しい叫びが森じゅうに響き渡って、男達は雑多に生えた草を踏みつぶして走り出します。
「――静まれ! 騎士崩れどもが!」
魔法で声量を大きくした母の言葉が、女性の叫び一つで止まるわけのない男達の足を止めました。まるで針のような、一瞬の動きも許さないような空気が全身を硬直させます。盗賊たちの動きが止んだことを確認すると、母はとても良く透った声で言い放ちます。
「交渉をしないかしら」
「……話だけなら聞こう」
「さっきから思ってたけど、物分かりのいい方ね」
「早急に用件を言え!」
「でも、騎士様ってせっかちだから嫌だわ。――さて、ベーメルの首の裏に描かれたこの血印。これのおかげで私はベーメルの視界を借りれるわ。ああ、間違っても私を殺そうとか考えないようにね。ついでに命まで繋げておいたから、私が死んだらベーメルを殺すことになるわよ?」
そのまま続けて、
「だからむさ苦しい野郎たちを下げてくれないかしら」
「くっ……!」
ベーメルの父は左の手を上げて、部下を自分より後ろに下がらせました。
「それで我々にどうしろと言うんだ」
「義賊になりなさい」
ぎぞく?
その言葉はここにいた全ての人の目を丸くしました。ちなみにわたしは意味が良くわかないのできょとんとしていました。
「義賊ってわかるわよね? 民のためになるような行動をとる集団のことよ。権力者から貴金属をかっぱらったり、領主や富豪人の行動を正したりするの」
「そ、そんなことはわかっている! しかしどうして、我々がそんなことをしなければならないのだ!」
「どうしてとか、なんでとかそんなことは考える必要はないわ。あなた方はとにかく、人のために尽くして尽くして尽くしまくりなさい。もしあなたがまだ人から略奪行為を続けるようなら、わたしは自らの命を絶ってベーメルを殺すわよ?」
ベーメルを殺す、という言葉を聞いたわたしは気が動転して、母の服の端を掴んで泣きそうになりながらも問いかけました。
「殺しちゃ、ヤダっ」
母はわたしにしか聞こえないように耳打ちします。
「……大丈夫。本当に殺す気はないわよ」
「ほんと?」
「もちろん」
嬉しい回答に満足して、わたしは服の端から手を離してまた話に聞き入る側へと回ります。
「それで、要求を呑んでもらえるかしら? そしたらベーメルはあなたに帰してあげるわ」
「悪魔に魂を売り渡した魔女風情が――!」
「ふふ、いくらでも言いなさい」
小さな砂時計の中身が落ちきるほどの静かな時間が流れた後、ベーメルの父は口を開きました。
「くそ……条件を呑もう。そうすればベーメルは返してもらえるのだろう?」
「ええ、もちろんよ。帰すのは明日の朝でいいかしら?」
「……ああ。脱走しないように貴方の家を外から見張らせてもらうぞ」
「ええ。まあ逃げる気なんてさらさらないんだけどね」
こうして約束が成り立ち、わたしとベーメルは次の朝に別れることになりました。
彼らが去って母はすぐに、
「ああ、上手くいかなかったわ。結果的に二人を別れさせることになってしまって本当にごめんなさい」
と言いました。わたしは子供のように泣きわめいて、母を困らせてしまいましたが、どうにもならないことを知ると、二人で最後の日をできるかぎり遊んで過ごしました。
ちなみに後で聞いたのですが、ベーメルに結ばれた血の印が及ぼす影響は全てハッタリだったそうです。もし母が魔女の力を用いて対抗すると言ってハッタリを効かせたら、あの盗賊が背水の陣の思いでこちらに挑んでくるかもしれない。そうなったら、もうわたしたちの命はこの世から消えていたことでしょう。だから母はいつかの再会を義務付けるために妥協していったんわたしたちを離ればなれにさせたんだと――そう自分なりの理解をしました。
そして次の日。
別れ際にベーメルは銀の装飾がついた指輪をわたしの左手、その薬指にはめました。
「これはぼくらがいつか出会うための目印だよ。またぼくはここにもどってくる。そのときまでちょっとだけ、さよならなんだ。いいかい?」
「……うんっ」
わたしは、わがままを言うことでベーメルを困らせたくありませんでした。だから、できる限り悲しみを悟られないように笑顔で別れようと努力しました。
「ぜったいもどってきてね。わたし、十年でも二十年でも待ってるからっ」
「うん、かならずもどってくる。だから、だからまたね」
そしてベーメルはわたしの目尻に溜まっていた涙を拭きとり、笑顔で腕を大きく振ってさよならをしました。ベーメルは、向こうの集団へと歩いて行く途中、振り返ってわたしの下へと駆けてきました。なんだろうと思った次の瞬間には、わたしの頬に軽いキスを交わしてくれました。なんだか唇の裏から耳の先まですごく熱くなってしまって、声を出そうと思ってもどこかでつっかえて、出せませんでした。
「じゃあねっ!」
声を返す間もなく、すぐにベーメルは向こうへと行ってしまいます。
その時、少し見えたベーメルの涙をわたしは忘れないでしょう。