Australiaへ旅立ちの日
この日記は塾講師をしながら学生生活を送り、卒業旅行資金を貯めてオーストラリアに行ったときの体験を書きました。
一日目:Australiaへ旅立ちの日
1997年3月5日、今日はいよいよ初めての海外旅行てあり、卒業旅行の出発の日である。相変わらず遅くに目を覚まし、しばらく布団の中で考えていた。塾講師をしている僕は生徒の合否が気になり、自分の携帯の番号を塾のホワイトボードに書いておき、更に連絡を午後5:15までにほしいと書いておいた。今日は、実は公立高校の合格発表の日でもあったのた。成田空港には午後6:30までに着いていなければならないのだが、京成大和田午後5:28発の電車にのれば間に合うので、それまでは携帯の電源を入れておこうかと思ったのである。
一通り準備も終わり、後は電話を待つのみである。こういうときに電話を待つというのは、とても切ないものに感じた。さぁ、もうそろそろ5:15になるが、一向に電話がかかってこない。やっぱり塾に来て合格の報告に来てくれる生徒は、あまりいないのかな、と思った。1対1で面倒をみた生徒Yのことが気になる。他の生徒の合否も明日になれば新聞に載るが、その時には自分はもう日本にはいないのだ。結局電話がかかってこないまま、旅行用スーツケースを持ち、駅へ向かって歩いていった。
電車に乗って、いよいよ成田空港へ。初めての海外を卒業旅行で。友達や知っている他の大学生は、狂ったように海外旅行に出かけたり、学生時代に、一度以上海外を経験している人の方が多い。自分のように卒業旅行で初めての海外旅行だという人はどの位いるのだろう。もっとも、まだ海外経験のない人、卒業旅行自体行けない人もいた。自分はとても幸せ者だと思った。と、そんなことを考えていたら、一つやり忘れてきたことがあった。携帯の電源を切っていなかった。京成大和田の次の勝田台の駅で家に電話したが、誰も出ない。成田空港に着いてからでいいや、と思った。
京成の成田空港第二ターミナルビルの駅に着いた。上の階に着いたところで家に電話し、つながって、やっと携帯電話の電源を切ってもらうように健(我が家の三男の弟、自分は長男)に頼む事ができた。一緒に行く友達三人はもう来ていた。カウンターで、航空券やホテル、オプション類のチケットを受け取り、荷物を預け、まだ時間があったので、とりあえず空港内のマックで時間を潰すことにした。
午後8:30成田発のカンタス航空局60便に乗る予定なのだが、まだ7:00をまわってちょっと経ったくらいである。そうだ、塾に電話しておこう。「ちょっと電話してくる」と、三人に告げ、電話をかけた。「○○学院でございます。」「講師の大沼です。」「おっ、ちょうどいいタイミングで電話してきた。ついさっき生徒Yのお父さんから電話が有ったんだよ。合格したって。」合格していた。やった。良かった。本当に良かった。それしかいえなかった。他の人も皆さん良い結果だった。良い結果を聞く度、良かった、良かった、それしかいえなかった。Yなんかは、私立高校は全て残念な結果で終わっていて、残るは公立高校のみとなっていて、正直言って、もうだめかと内心思っていただけに、ただただ、良かった、としかいえなかった。「旅行楽しんできてください」と、室長に言われて、電話を切り、またマックへ。三人に生徒が合格したんだ、良かった。本当に良かった。そう伝えた。落ち着いてから思った。これですっきりして思いっきり楽しんで来ることができる。
飛行機に乗り込んだ。以前乗ったときの記憶がもう薄れてはっきりしないため、飛行機での出発に際し、新鮮にドキドキした。飛び立つまでに飛行機が結構地上を長い間移動したので、ジラされたような気がする。地上の移動がすんだ後、結局、「これから離陸します」との連絡が放送で入った。放送するならするって言えよ、と思ったが、地上移動中の外の眺めは、赤や青の飛行機を誘導するランプの光でとても綺麗だった。
直線の滑走路でいよいよ離陸だ。スピードが一気に上がっていくのが感じられる。シートの後ろに押さえつけられる独特の感触を味わいながら、飛行機が空中に浮くのを待ったが、気がついたときにはもう地面は下の方に見えた。
さて、飛び立ってから少しして、ラジオを聴こうとした。その時、僕が幼い頃に、同じようにしてラジオを聴こうとした際、イヤホンを鼻の穴に入れてしまったらしいことを親から聞いたのを思い出し、一人で苦笑いした。高度、速度が上がっていくのは前方にあるスクリーンに映し出されてわかったが、景色の方は、暗くて全くわからなかった。次第にうとうとして眠っていた。
夜に一回目が覚めた。乱気流でガタガタ飛行機が揺れたからだ。隣の沖亜も目を覚ました。すぐさまシートベルトを締めていた。シートベルト着用するランプがついている。少し話したが、すぐに再び眠りについた。




