記憶
*記憶喪失
瞼を通して光を感じた。
あぁ朝かと思い、目を開けるのは当たり前だと思う。
開いたその先、知らない奴がそこにいた。
「だ、れ?」
何やら感じる些細な違和感。
何故か、かれた声で尋ねてみれば、そいつは顔をぐしゃりと歪めて眉を吊り上げる。
向けられる、潤んだ瞳はけれど冷たい色を宿していた。
「っせよ、」
溢れすぎた感情によって掠れた言葉。あたしを睨みつけて体面も気にせずにぶつけられた怒り。
「返せよっ!! 返せ! 俺の、っ、俺の明日架をっ!!」
――明日架。
それはあたしの名前。
明日へと架かる橋渡し、みたいな事を両親に聞いた覚えがあるような、ないような。
まぁとにかくあたしは明日架で、明日架はあたしなのだけど、こいつの事などまったく知らない。
ありんこの足のさきっぽ程もこいつの事など全く知らない。
断言していい。
わたしは、こいつを、まったく、知らない。
なので返せといわれて何を返せばいいのか。
まったくもっての濡れ衣という奴で、従って、目覚めた途端にぶつけられた身に覚えのない怒声は少々、いやかなりの不愉快だ。
「は、あ?」
機嫌が悪くなるのは極々普通な反応だと思う。
いくら周りから短気といわれる私じゃなくても、極々当たり前の反応なのだと思う。
知らない奴に、目覚めの一発メンチ切られて、怒声を浴びせられ、がっしりと肩を掴まれ揺すられて。
覚醒しきっていない頭では、結果こいつのすきにされていたが、しかし。
がっしりとあたしの肩を掴んでいた手を、がっつりと握り返してやればあたしの握力にか、顔を更に歪ませた。
はっ、涼ちゃんに言わしめた怪力女の握力舐めんなよ。そんな細っこい体してそれでも男かっつの。
醒めた目で見やれば、そいつの瞳はまた揺れる。
「誰だかしらないけど、覚えのない喧嘩でもあたしは買うよ」
低く、低くなった声を掛ければ、びくりと震えた知らない誰か。それでもまるでこの世の敵と、両親の仇と言わんばかりに睨み続けるそいつに、何だよこいつとますますの混乱があたしの中で巻き起こる。
こうなりゃ一発、教育的指導として右拳を唸らせるかと軽く手を握ったところに新たなる声がかかった。
「あぁ。起きたの」
ゆったりめいた声がした。聞き覚えのありすぎる声。嫌になるほど聞いた声。そのゆったり感があたしの短気を生成して、あたしを短気にした原因だと思われる。
「……母さん」
掛かった声のほうを向けば、思ったとおりに母が居た。
持った声にふさわしい、ふわふわしている見た目を持った母は私に近づいて来る。
けれど母よ。一体どうしたのか。その年でまぁ見た目溢れる若さには似合っているけれど、年齢的にエクステに手を出すのはどうかと思う。
いや、まぁ個人の嗜好をとやかく言うのもアレだけれど。
ついこの前までショートカットにしていた母が、今見たら長髪なのだ。偽物だと思っても当然だろう。
あたしの視線であたしの思考を読み取って母はおっとり笑う。
「あらぁ。明日架ちゃん、これは本物よ」
髪を一房持ってあたしに見せ付けるように近づけた。
差し出されたそれを思わず触ってしまうが、本物の髪質。母のこの外的若さの一つの要素。つやつやさらさら滑らかの髪質は到底真似できるものではないだろう。
混乱要素がまた増えた。
「どうなってんの?」
眉間に皺を寄せて母へと尋ねれば、母はあたしが知らない誰かに視線を一度ちらりと向けて、両手を握って顔を下げているそいつに、眉を下げてからあたしに向き直った。
あのね、
「あのね、明日架ちゃん、記憶喪失だったの」
記憶、喪失。
母の言い分はこうだ。
ある日突然ぶっ倒れたあたしはなんとまぁ記憶をなくして、全生活史健忘とやらになっていて、普段の通常運転のあたしを知る周りの人々がそのあまりの性格の違い具合に気持ち悪がり、慄き、腫れ物や、笑いもの、ある種の同情、などなどといった反応の数々をして、あー、……あたし(仮)はそのあたしに似つかない思考で持って周囲の反応やら色々に落ち込んだり、本家本物のあたしに対して怯えたり? まぁ怖がったりしていた所にこの場に今現在居るあたし、にとってはまるでさっぱり知らないこの人……母さん曰く、しょう君と出会って恋に落ちてデートでもして同居したりして一年過ごして、ある日突然あたし(仮)がぶっ倒れて、あたしがまた浮上、みたい、な?
あぁ。えっと、全生活史健忘ってやつの多くは心因性で、時たま頭部外傷がきっかけでもなったりするらしい。
んー……心因性ねぇ。あたしストレスなんて溜め込まない派なんだけど、まぁ無くはなくて、頭部外傷ねぇ。
…………あった、気がする。
なんかが、あった気がする。確かあたしにとっての昨日はへべれけになるほど酔って、色んなとこぼこぼこぶつけながら実家へと帰って、玄関先で頭から……考えに耽って目が細くなって怠った回りの気配。
でこにでこぴんくらった。
「何時も言ってるでしょう? 明日架ちゃんは女の子なんだからそんな顔しちゃだめって」
愛らしい顔立ちにめっ、ときつげな表情を浮かべて怒る? 母。
あぁ、主にこの人からあたしのストレスは生まれる。それほどに、あたしにとって短気と気長はあまり相性がよくない。
いや、はっきりいって悪い。
嫌いではない、嫌いでは。でもあたしにとって母は良くいって、苦手な人なのだ。
普通女子にとっては大きくなるにつれ父よりも母の方と行動を共にしたり派閥に与するが、あたしの場合は断然に父であって、更に言うならば父の祖父派だ。父派になれば祖母も好ましい。
母の性格は、はまればそれはそれは大層愛しい人となるだろう。溺愛傾向が強くなる。
反対に、あたしの様に合わなければ申し訳は無いのだがうっとうしくて、まどろっこしく感じたりとことんその性質が駄目になり、両極端に別れてしまう。
父は出会ったその日から母にぞっこんの愛妻家。
けれど私は大きくなるにつれ、とことん駄目になっていった。
だから、無邪気な顔をしてそんな事をいわれてもいらっと来るだけだった。
そしてその苛立ちから倒れた原因などどうでもいいし、あたしじゃないあたしの事だってどうでもよくなった。
だってあたし(仮)は消えてしまったのだし、もともと言っちゃ悪いがあたしにはなんら関係ない人だったのだ。
聞いた話によるとあたし(仮)は大人しくどちらかといえば母よりの性格だったためになんら罪悪感が湧きもしない。
とことん愛され女子という物には拒絶反応が出てしまう。
そんなんだからむしろあたし(仮)はあたしにとって良いものではなかった。
だからそんな過去の事など忘れてしまえと、その他いろいろきっちり忘れて若干外見の変化した友人達と会ったりしながら日々過ごしていたのだが。
あたし(仮)はとんでもない副産物を置いていきやがった。
具体的に言うと目覚め一発メンチ切らしてくれた名も知らぬ人。
あいつは現在あたしに対して付きまとい、付きまとい、半ストーカーと化していた。
「それでぇ? どうなのよあの人」
「……あの人?」
「ほら、しょう君とか言う人」
「あぁ」
あたしが記憶喪失になっていた時、回されてきた連絡網に記憶喪失? あっは! なんてさんざん爆笑して見舞いにも来なかったという一番の親友がふとした様子で聞いてきた。
眉をひそめて向けられた言葉をそっくりそのまま使ってみれば、詳しく名前を出してくれる。
けれど、出てきた名前にまた更にあたしの表情は歪む。
「相変わらずのストーカー状態よ。うざったいたっら、ないっつの!」
苛立ち混ざりに声を荒げれば、親友の涼ちゃんはふふんなんて意味ありげに笑って見せた。
あぁ、何時見ても麗しいですね。涼子様。
どぎつい性格に似合った妖艶さを兼ね備えた涼ちゃんは男の視線をことごと奪っていく。
思わず女のあたしも女の道を外しそうになることも時にはあるけれど。
「何よ、その反応」
向けられた笑いに怪訝に問いかければ、ますます増した艶でもって、別にぃと魅力溢れる唇が弧を描く。
ジト目を向け続けば涼ちゃんは文字通り噴出し笑い、いやぁね、言葉を置いてから口を開いた。
「明日架は案外流されるっていうか、絆されやすいっていうか」
「何が言いたいの?」
顔に似合わない爽やか笑顔。にっこりと笑って涼ちゃんはあたしにとっての爆弾発言を投下してくれた。
「ゴールイン、しちゃうかもね」
ごーるいん。
「って、はぁああぁぁ?」
寝耳に水、青天の霹靂。えにかいたもち? それは微妙に違うのか?
混乱する頭と、拒絶する心。
「あり得ないって! あいつとどうこうなるつもりないし! あいつが好きだった彼女の言わばにっくき敵ってやつだよ? あたしが有り得ないのもそうだけど、あいつだって有り得ないでしょうが!!」
嫌なこと聞いたと鳥肌の立つ腕をさすりさすり、している傍で涼ちゃんは言葉を撤回する様子は無く、なおかつにやりとした顔に似合った笑顔を浮かべていた。
いや、有り得ないって。