(ミステリー)歪んだ天秤の顛末
その事件が起きたのは、うだるような暑さがようやく影を潜め始めた九月の半ば、ちょうど今のような季節の、ひどく湿気を含んだ木曜日の夜だった。
私、浅野は、しがない文芸雑誌の編集者である。仕事柄、奇妙な人間や風変わりな事件にはある程度、免疫があるつもりだった。小説家たちの歪んだこだわりや、机上の空論じみた完全犯罪のプロットを日常的に見ているからだ。
しかし、現実という名の怪物は、時に人間の貧困な想像力を遥かに凌駕する。
その日、私のもとに転がり込んできたのは、大学時代からの悪友であり、現在は警視庁捜査一課で刑事をしている御子柴からの、ひどく狼狽した電話だった。
「浅野か。頼む、今すぐ来てくれ。いや、仕事中なのは分かっている。だが、お前のその無駄にひねくれた脳味噌が必要なんだ。……事件が起きた。いや、事件が起きたこと自体は普通なんだが、その、何と言えばいい。……もう『解けて』しまったんだ」
「解けた?」
私は受話器を耳に当てたまま、校正刷りに向けていた赤ペンを止めた。
「解けたならいいじゃないか。お前の手柄だろう。私はこれから締切直前の作家を追い込みに行かなきゃならんのだ」
「違うんだ」
御子柴の声は、受話器越しでもはっきりと分かるほど震えていた。
「犯人も分かった。証拠も揃った。動機も判明した。犯人も罪を認めている。すべてが完璧に解決したんだ。……なのに、俺たち捜査一課の人間は全員、どうしてこの事件が解決したのか、さっぱり分からないんだよ」
何を馬鹿なことを言っているんだ、と笑い飛ばそうとしたが、彼の声に宿る本物の恐怖がそれを遮った。
私は結局、編集長に「急病人の看病」と言い訳をして、御子柴が指定した都内の一等地にある高級マンションへと向かうことになった。
現場となったマンションの最上階、十四階のワンフロアを丸ごと使った贅沢な部屋の前に着くと、すでに警察の黄色い規制線が張られていた。中に入ると、冷房が異常に強く効いており、肌寒さを覚えるほどだった。
「遅かったじゃないか、浅野」
やつれた顔の御子柴が近づいてきた。三十代半ばの彼は、普段なら精悍な顔立ちをしているのだが、今はまるで一晩中幽霊に追いかけ回されたかのような、生気のない目をしている。
「待たせたな。で、何があったんだ? 解決した不可解な事件、というのは」
御子柴は部屋の奥、広いリビングルームへと私を促した。
そこには、一人の老人が椅子に座ったまま、不自然な角度で首をうなだれ、息絶えていた。
「被害者は、織部正源、七十八歳。このマンションのオーナーであり、複数の不動産会社を経営する資産家だ。死因は、背後から鋭利な刃物で心臓をひと突き。即死状態だったとみられる。死亡推定時刻は、昨夜の午後九時から十時の間だ」
「なるほど、痛ましいが、よくある殺人事件のようにも思える。それで、犯人は?」
「犯人は、この男だ」
御子柴が提示したのは、警察の手によってすでに身柄を確保されている、一人の若い男の写真だった。
「名前は、須藤彰、二十四歳。この織部氏の会社で働く若手の社員だ。彼は今日の午前中、自ら警察署に出頭してきた。『私が織部社長を殺しました』とな」
「自首か。なら、なおさら話は早いじゃないか」
「話はそこからなんだ」
御子柴は頭を抱えた。
「彼が自首してきた時、彼は犯行のすべてを詳細に供述した。凶器の包丁を捨てた場所、被害者の血液が付着した衣服の隠し場所、さらには、被害者から盗み出した金庫の鍵のありかまでな。俺たちがその供述通りに捜索したところ、すべて指定された場所から、完璧な形で証拠品が発見された。衣服についた血液のDNAも被害者のものと一致。凶器の指紋も須藤のものだった」
「完璧じゃないか。何が不満なんだ?」
「問題は、彼が『どうやってそれを実行したか』、そして『俺たちがなぜそれを知ることができたか』のプロセスが、完全に物理法則と論理を無視しているということなんだ」
御子柴は私を、リビングの隣にある書斎へと連れて行った。そこには、映画のセットのような重厚な机と、壁一面の本棚があった。
「須藤は、昨夜の午後九時半にこの部屋に忍び込み、織部氏を殺害したと言っている。だがな、浅野。このマンションのセキュリティは万全だ。コンシェルジュは二十四時間常駐。エレベーターには防犯カメラがあり、各階の廊下にもカメラがある。そして、事件のあった午後九時から十時の間、防犯カメラの映像には、須藤彰の姿どころか、不審者は誰一人として映っていなかった。それだけじゃない。この部屋は中から完全に鍵がかかっていた。いわゆる『密室』だったんだ」
「密室……。だが、彼は自首して、証拠も出ているんだろう?」
「そうだ。そして、もっと恐ろしいのはここからだ。彼が自首してくる一時間前、つまり今日の午前八時。我が捜査一課のデスクに、一本の『匿名通報』が入った。その通報はこう言ったんだ。『今日、午前九時に、須藤彰という男が織部正源殺害の件で自首してくる。彼は凶器を〇〇のゴミ箱に捨て、服を〇〇のコインロッカーに隠している。動機は、会社の金を横領したことを被害者に咎められたからだ。すべてその通りになるから、すぐに準備をしろ』とな」
「その通報の通りに、男が現れ、証拠が見つかったわけか。通報者が真犯人で、須藤という男を嵌めた、とか?」
「俺たちもそう思った。だが、須藤の衣服に付いた返り血の飛び散り方は、彼自身が刺したものでなければ絶対にあり得ない角度だった。さらに、須藤の爪の間からは被害者の皮膚片が検出されている。揉み合った形跡だ。須藤が犯人であることは、科学的に100%間違いない」
私は腕を組み、冷え切った部屋を見渡した。
「つまり、こういうことか。犯人は、絶対に侵入不可能な密室で人を殺した。そして、なぜかその犯行のすべてを完璧に知っている第三者が、警察に予告通報をした。その後、犯人自身もなぜか素直に自首し、証拠もすべて揃った。事件は完全に解決しているのに、誰も『どうやってそれが可能だったのか』を説明できない」
「その通りだ」
御子柴は青ざめた顔で頷いた。
「これは、解決しているのに、何も分からない事件なんだ」
私は御子柴の計らいで、特別に須藤彰の取調べに立ち会うことを許された。もちろん、一般人である私はマジックミラー越しの見学に過ぎないが、その奇妙な男の姿をこの目で確かめたかった。
取調べ室に座る須藤彰は、どこにでもいる平凡な、少し気弱そうな青年だった。怯えている様子はなく、むしろ憑き物が落ちたかのような、奇妙に穏やかな表情をしている。
ベテランの取調官が、厳しい口調で問いかける。
「須藤。もう一度確認する。お前は昨夜、午後九時半に織部さんの部屋に入ったんだな?」
「はい。間違いありません」
「どうやって入った?」
「……分かりません」
取調官が机を叩いた。
「ふざけるな! 自分で入って殺したんだろうが! 鍵を開けたのか、窓から入ったのか、それくらい覚えているだろう!」
「本当に、分からないんです」
須藤は困ったように眉を下げた。
「私は、織部社長に横領がバレて、明日にも警察に通報すると言われていました。頭が真っ白になって、夜、気がついたら、私は織部社長の書斎に立っていました。手には包丁を握っていました。そして、目の前で社長が血を流して倒れていたんです。私は恐ろしくなって、夢中で部屋を飛び出しました」
「飛び出した? 廊下のカメラにはお前の姿は映っていないんだぞ! どうやって帰ったんだ?」
「それも、覚えていないんです。気がついたら、自分のアパートのベッドの上にいました。服には血がついていて、ポケットには社長の金庫の鍵が入っていました。だから、私は大変なことをしてしまったと思って、言われた通りに……」
「言われた通りに、とは誰にだ?」
取調官の目が鋭くなった。
「頭の中の声、としか言いようがありません」
須藤は淡々と答えた。
「アパートで震えていると、頭の中で、はっきりと声が聞こえたんです。『服は駅前のロッカーに入れろ。包丁は公園のゴミ箱に捨てろ。そして午前九時に自首しろ』と。私はその声に従うのが一番正しいような気がして、その通りにしました」
マジックミラーのこちら側で、御子柴が私に耳打ちした。
「精神鑑定を視野に入れているが、彼の精神状態は極めて正常だという初期診断が出ている。多重人格でもないし、薬物の形跡もない。ただ、犯行の瞬間の『移動プロセス』だけが、彼の記憶から完全に抜け落ちているんだ」
「記憶喪失か、あるいは巧妙な演技か……」
私は呟いた。
「だが、演技だとしたら、防犯カメラに映らずにあのマンションを出入りしたトリックの説明がつかない。彼は超能力者か何かか?」
「もしそうなら、科学捜査の敗北だな」
御子柴は自嘲気味に笑った。
私は取調べ室の須藤をじっと見つめた。彼の言葉には、嘘をついている人間の特有の「揺らぎ」がなかった。彼は本当に、自分がどうやってその場所に辿り着き、どうやって去ったのかを知らないのだ。
しかし、事件のパズルはすでに完成している。
凶器、動機、死体、自白、証拠。
これだけ揃っていれば、裁判になれば100%有罪判決が出る。動かぬ証拠がある以上、弁護側が「どうやって部屋に入ったか分からないから無罪だ」と主張したところで、裁判所は「被告人が詳細を秘匿しているか、記憶を失っているだけ」と判断するだろう。
つまり、法的にはこの事件は「終わった」も同然なのだ。
にもかかわらず、この喉に刺さった魚の小骨のような違和感は何だろうか。
私は御子柴に頼み、もう一つの謎である「匿名通報」の録音を聞かせてもらうことにした。
通信指令室のシステムから再生された音声は、ひどく奇妙なものだった。
『今日、午前九時に、須藤彰という男が織部正源殺害の件で自首してくる……』
声は、機械によって完全に変調されていた。男か女か、若いのか老いているのかすら判別できない。ただ、その口調は極めて機械的で、感情の起伏が一切なかった。まるで、あらかじめ決められたテキストを読み上げているかのようだった。
「この通報の暗号化された発信元を追跡したんだが」
御子柴が技術班からのレポートを私に見せた。
「驚くなよ。発信元は、被害者である織部正源自身のスマートフォンだったんだ」
「何だって?」
私は目を見開いた。
「被害者が、自分が殺された後に、犯人の自首を予告する通報をしたというのか?」
「物理的には不可能だ。織部氏のスマホは、事件当時、彼の書斎の机の上に置かれていた。そして、通報があった午前八時の時点で、織部氏はすでに死体となって警察に発見される前だ。部屋は密室。誰もそのスマホに触れることはできないはずだった。だが、ログを調べると、確かに午前八時ちょうどに、そのスマホから警察への通報が発信されている。しかも、自動送信プログラムのようなものが仕込まれていた形跡は一切ない。何者かが直接画面を操作して、通報ボタンを押したとしか思えないデータが残っているんだ」
「死体がスマホを操作したとでも言うのか? あるいは、透明人間が?」
「笑えない冗談だ」
御子柴は頭を掻きむしった。
私はもう一度、事件のタイムラインを整理してみた。昨夜 午後9時半頃:須藤彰がどういうわけか密室の部屋に現れ、織部社長を殺害。その後どういうわけか誰にも見られずに逃走。今日 午前8時頃:死んだ織部社長のスマホからどういうわけか自動プログラムなしで、犯人の自首と証拠の場所を完璧に予言する通報が入る。今日 午前9時頃:須藤彰が頭の中の声に従って警察署に出頭。今日 午前10時以降:通報通りの場所からすべての証拠が発見される。
「ねえ、御子柴。この事件、何かに似ていないか?」
私はふと思ったことを口にした。
「何にだよ?」
「まるで、『あらかじめ書かれた脚本』の通りに、世界が動かされたような感覚だ。あるいは、誰かがチェス盤の上で、駒を強制的に移動させたかのような。駒自身はなぜそこに移動したか分からないが、盤の上では確かにチェックメイトが成立している」
「お前は小説の読みすぎだ、浅野。俺たちが必要としているのは、オカルトな比喩じゃない。論理的な説明だ」
「じゃあ、論理的に説明してくれよ。どうして証拠がこんなに完璧に揃っているのに、そのプロセスだけが物理的に不可能なんだ? 論理が破綻しているのは、現実の方じゃないか」
御子柴は反論できなかった。
私たちはもう一度、すべての謎の出発点である、あの高級マンションの密室へと戻ることにした。そこには、まだ私たちが気づいていない「何か」があるはずだった。
再び訪れた織部正源の部屋は、相変わらず冷え切っていた。
私は、警察の鑑識班が引き上げた後の書斎に入り、じっくりと周囲を観察した。
被害者が座っていた椅子。その背後にある本棚。机の上の文房具。
すべてが整然としており、激しい格闘の跡はなかった。須藤の爪に皮膚片があったことから、一瞬の抵抗はあったのだろうが、部屋の家具がひっくり返るようなことはなかったようだ。 私は壁際にある大きな金庫に目を留めた。
「この金庫の中身は?」
「織部氏の個人資産の重要書類や、いくらかの現金だ」
御子柴が答えた。
「須藤が盗み出した鍵で開けてみたが、中身は手つかずだった。須藤自身も、『鍵は盗んだが、中を開ける前に恐ろしくなって逃げた』と言っている」
「ふむ……」
私は金庫の表面を撫でてみた。冷たい金属の感触。
その時、私の視線は金庫の脇、本棚との隙間に落ちている小さなものに引き寄せられた。
それは、一枚の古びた紙切れだった。
鑑識が見落としたのだろうか? いや、見落とすはずがない。あまりにも小さく、ただのゴミのように見えたから、重要視されなかったのかもしれない。
私はポケットからハンカチを取り出し、その紙切れを拾い上げた。
そこには、手書きでいくつかの数字と文字が書かれていた。
『1402 — 0930 — 0800 — OK』
「御子柴、これを見てくれ」
御子柴が覗き込んできた。
「なんだこれは? 暗号か?」
「いや、あまりにもストレートだ。1402はこの部屋の番号。0930は昨夜の事件発生時刻。0800は今朝の匿名通報の時刻。そして『OK』。……これは、事件の予定表だ」
「予定表? 誰の?」
「さあね。だが、これがここに落ちていたということは、犯人、あるいはあの通報者が残したものと考えて間違いないだろう。問題は、この文字の筆跡だ」
御子柴はすぐにその紙切れを鑑識に回した。
数時間後、驚くべき鑑定結果が帰ってきた。
「筆跡は、被害者である織部正源本人のものだった」
私たちは署の会議室で、その結果を前にして言葉を失った。
被害者自身が、自分が殺される時間と、その後に警察に通報が入る時間を、事前に「予定表」として書き残していた?
「自殺……なのか?」
御子柴がぽつりと言った。
「織部氏は、須藤に自分を殺させるように仕向けたのか? 横領をネタに脅して、自分を殺さなければ警察に突き出すと言って、あえて刺させた?」
「仮にそうだとしても、密室の謎も、カメラに映らない移動方法も、死んだ後のスマホからの通報も、何一つ解決しないぞ」
私は首を振った。
「それに、自殺したいなら自分で死ねばいい。なぜわざわざ須藤を巻き込んで、こんな複雑なキャスティングをする必要がある?」
「キャスティング……」
御子柴がその言葉を繰り返した。
「そう、まるで演劇だ」
私は席から立ち上がり、ホワイトボードに事件の要素を書き出していった。被害者(織部):脚本家兼演出家?(予定表を執筆)犯人(須藤):主演男優(記憶がないまま犯行を実行、自首)通報者(織部のスマホ):舞台監督(予定通りの時間に進行をチェック)
「おいおい、浅野。じゃあ何かい? 織部氏は自分が死ぬ舞台を演出するために、須藤に魔法でもかけて自分を殺させたって言うのか? そんなファンタジーが警察で通用すると思うか?」
「通用しない。だから困っているんだ。だが、事実として、すべての証拠はこの通りに動いている」
私はホワイトボードの文字をじっと見つめた。
何かが根本的に間違っている。私たちは「どうやって事件が起きたか」を考えているが、本当に考えるべきなのは「なぜこの事件は、これほどまでに『解決したがっている』のか」ではないか? 普通の犯人は、事件を隠蔽しようとする。
だが、この事件は違う。事件が起きた瞬間から、すべてのベクトルが「解決」へと向かって全力で走っている。証拠はわざわざ見つかりやすい場所に置かれ、通報は完璧なタイミングで行われ、犯人は迷わず自首した。
まるで、「事件を迷宮入りさせないこと」自体が、この犯行の最大の目的であるかのように。
翌日、私は独自に被害者である織部正源の周辺を調べることにした。御子柴から提供された関係者リストを元に、彼の過去のビジネスパートナーや、確執のあった人物を洗っていく。
そこで浮上したのが、一人の風変わりな男の存在だった。
名前は、神崎伊織。かつて織部正源の会社の取締役を務めていたが、三年前にある日突然、すべての資産を放棄して失踪したという男だ。
神崎について調べていくうちに、彼が「確率論」や「行動心理学」の異端的な研究者であったことが分かった。彼は生前(あるいは失踪前)、知人にこんな奇妙な言葉を残していたという。
『人間の行動は、完全に予測可能だ。適切な初期条件と、適切な刺激を与えれば、人間は自分の意志で動いていると錯覚しながら、こちらの意図した通りのレールを歩く。それは、物理法則でリンゴが木から落ちるのと同じくらい、絶対的なものだ』
私は胸騒ぎを覚えた。
もし、この神崎という男が、今回の事件の「真の演出家」だとしたら? 私は御子柴に連絡し、神崎伊織の足取りを追うよう頼んだ。しかし、御子柴からの返答は冷酷なものだった。
「神崎伊織なら、半年前になくなっているよ」
「亡くなっている? 病気か何かでか?」
「いや、海外での不慮の事故だ。遺体の身元も確認されている。彼が今回の事件に関与することは物理的に不可能だ」
またしても「不可能」という壁にぶち当たった。
死んだはずの男、死んだはずの被害者。
この事件に関わる重要人物たちは、皆、時間の檻の外から現行犯を操っているかのような、奇妙な非存在感に包まれていた。
その日の夕方、私は再び須藤彰の面会を求めた。今度は御子柴を介さず、一人の人間として彼と対峙した。
「須藤さん」
アクリル板越しに、私は彼に語りかけた。
「あなたに一つだけ聞きたいことがあります。あなたが横領を指摘されたのは、事件の何日前ですか?」
須藤は少し考えてから答えた。
「三日前です。社長に呼び出されて、計理データの不正を突きつけられました」
「その時、社長はあなたに何と言いましたか?」
「『お前の人生を終わらせることもできるが、チャンスをやる』と言われました」
「チャンス?」
「はい。『私がこれから言う指示に、何があっても従え。そうすれば、横領の件は不問にし、お前に大金を与えよう』と」
私は身を乗り出した。
「その指示とは?」
「『木曜日の夜、九時に、この鍵を持って私の部屋に来い。そして、私が机に置いておくお茶を飲め』……それだけでした」
私は息を呑んだ。
「お茶を、飲め?」
「はい。私は指示通りに部屋に行きました。あの日、なぜかマンションのコンシェルジュはいなくて、エレベーターもメンテナンス中で使えなかったので、非常階段を登って部屋に入りました。社長は不在でしたが、鍵は開いていました。机の上にお茶が置いてあったので、私はそれを飲みました。……そこからの記憶が、ないんです」
脳裏の霧が一気に晴れていくような感覚がした。
密室の謎、防犯カメラの謎、すべてがつながり始めた。
「御子柴!」
私は面会室を飛び出し、廊下にいた彼を捕まえた。
「分かったぞ! 密室のトリックも、カメラに映らなかった理由も!」
「本当か、浅野!?」
「ああ。須藤は非常階段を使ったと言った。だが、非常階段にもカメラはあるはずだ。なぜ映らなかったか。理由は簡単だ。『彼が部屋に行ったのは、木曜日の夜ではなかった』んだよ」
「どういうことだ?」
御子柴は怪訝な顔をした。
「織部正源が須藤を呼び出したのは、実際には事件の『数日前』、あるいはカメラのメンテナンスが行われていた別の時間帯だったんだ。織部氏は須藤に『木曜日の夜に来い』と心理的に暗示をかけ、実際にはそれより前に彼を部屋に呼び出し、ある薬物を飲ませた」
「薬物?」
「強力な催眠効果と、記憶逆行性の健忘を引き起こす薬物だ。あるいは、特定の合図によって行動を開始するような、長期的な催眠暗示。織部氏は須藤に『木曜日の夜九時半に自分を刺し、証拠を捨てて自首する』という一連の行動を、完全に脳に刷り込んだんだ。須藤が『木曜日の夜に部屋に行った』と思い込んでいるのは、催眠によって植え付けられた偽の記憶、あるいは彼が別の日に部屋で行った行動の記憶が、木曜日のものとすり替えられていたからだ」
御子柴は目を見開いた。
「待て。じゃあ、実際の木曜日の夜九時半に、須藤はどこにいたんだ?」
「彼のアパートで眠っていた、あるいはアリバイのない場所を彷徨っていたんだろう。彼の体は動いていなかった。動いていたのは、彼の『暗示』だけだ」
「しかし、浅野。それなら誰が織部氏を殺したんだ? 須藤の衣服には被害者の血がついていたし、凶器には指紋があった。爪の間には皮膚片もあったんだぞ!」
「そこが、この計画の最も悪魔的な部分だ」
私は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「織部氏は、自分自身でそれらの証拠を作ったんだよ。事前に眠らせた須藤の指に包丁を握らせて自分の指紋をつけ、須藤の爪で自分の皮膚を掻き切り、須藤の衣服に自分の血液をあらかじめ付着させておいた。そして、それを須藤のアパートのクローゼットに隠させた。……すべては、『木曜日以降に、須藤が完璧な犯人として仕上がる』ように」
「じゃあ……織部正源は本当に自殺だったというのか? 自分で自分の胸を刺した?」
「そうだ。背後から刺されたように見せるために、特殊な仕掛けを使ったか、あるいは無理な体勢で自分で突き刺した。彼は死の間際、あるいは死ぬ直前の水曜日の夜などに、すでにその行為を終えていたのかもしれない。死亡推定時刻は、部屋の冷房を異常に強く効かせることで、いくらでも偽装できる。医学的な死亡推定時刻は、室温によって数日単位で狂うことがあるからね」
御子柴は呆然と立ち尽くした。
「そんな……。じゃあ、今朝の匿名通報は?」
「織部氏が死ぬ前に、木曜日の午前八時に発信されるように、何らかの物理的なタイマーを仕掛けておいたか、あるいは彼が信頼していた別の共犯者がボタンを押した。スマホのデータ上、自動プログラムがないように見えたのは、極めて原始的な、例えば『決まった時間にスマホの画面を物理的に叩くおもちゃのクレーン』のような仕掛けを部屋に置いておき、通報後にそれを回収した人間がいたか……いや、部屋は密室だった。なら、仕掛けはまだ部屋の中にあるはずだ。例えば、エアコンの風で動く振り子が、特定の時間にスマホの画面に触れるような、そんな単純な仕掛けが」
御子柴はすぐに部下に連絡し、織部の部屋の徹底的な再捜索を命じた。
数時間後、彼のスマホが置かれていた机のすぐ上にある、天井の加湿器のノズルから、奇妙な細い糸と、その先につけられた導電性シリコンの小さな球が発見された。それは、加湿器が特定の時間にタイマーで起動し、蒸気の重みで糸が伸びることで、スマホの「発信」ボタンを正確に一度だけ押し、その後、蒸気が乾くと同時にバネの力で天井の隙間へと巻き上げられるように設計された、驚くほどアナログで完璧な仕掛けだった。
「解けた……」
御子柴は疲れ切った声で呟いた。
「密室も、通報も、すべて織部正源自身が仕組んだ自作自演の『自殺』。彼は須藤に罪を擦り付けるために、自分の命すら投げ打った。これで、すべての謎が論理的に説明できる」
確かに、説明はついた。
物理的なトリックはすべて暴かれた。
事件は、今度こそ完全に「解決」したはずだった。
しかし。
私の胸の中の違和感は、消えるどころか、さらに巨大な質量を持って膨れ上がっていた。
「何かおかしい」
私は署の屋上で、夜風に吹かれながら煙草に火をつけた。御子柴も隣で、煙を吐き出している。
「何がおかしいんだよ、浅野。トリックは解明された。織部が狂った老人で、お気に入りの社員に裏切られた復讐のために、命を賭けた壮大な嫌がらせをした。それで終わりじゃないか」
「本当にそうか?」
私は夜空を見上げた。
「織部正源という男のプロファイルを見てみろ。彼は冷徹で、極めて合理的な実業家だ。損得勘定だけで生きてきた男が、いくら横領されたからといって、自分の命を捨ててまで、こんな打算の合わない復讐をするか? それに、あの筆跡の残された紙切れは何だ? 『1402 — 0930 — 0800 — OK』。あれは復讐者のノートじゃない。まるで、『業務報告書』だ」
「業務報告書?」
「ああ。彼は、誰かに対して『指示通りに事件を演出しました、OKです』と報告するために、あの紙を残したんじゃないか? だとしたら、彼は演出家ではなく、ただの『役者』だったことになる」
「馬鹿な。自分の命を捧げる役者なんてどこにいる」
「いるさ。もし、自分の命よりも大切なものを人質に取られているか、あるいは……『そうすることが、世界の絶対的なルールだ』と信じ込まされていたとしたら」
私は思い出す。失踪した男、神崎伊織の言葉を。
『人間は、適切な初期条件と刺激を与えれば、こちらの意図した通りのレールを歩く』
もし、織部正源もまた、誰かによって完璧にコントロールされた「駒」に過ぎなかったとしたら?
そして、そのコントロールの目的が「須藤に罪を着せること」ではなく、「警察にこの完璧なパズルを解かせること」そのものだったとしたら?
「御子柴。この事件、最終的にどうなる?」
「どうなるって……。織部が自殺で、須藤を嵌めたことが証明されたんだ。須藤の殺人罪は成立しない。横領罪については追及されるだろうが、殺人については無罪、釈放だ。事件は『被疑者死亡のまま不起訴』、あるいは『事件性なし』として処理される」
「そうだ。須藤は助かる。織部は死ぬ。そして警察は、驚異的な執念でこの複雑なトリックを見破り、真実に辿り着いた。……誰も、不幸になっていない。須藤にとっては、横領の罪は残るが、殺人の濡れ衣からは救われたわけだからな」
私は煙草の吸殻を灰皿に押し付けた。
「完璧すぎるんだよ」
「何がだよ?」
「まるで、『最初からこの結末・・・警察がトリックを見破って須藤が無罪になる・・・になるように、すべてが計算されていた』みたいじゃないか。もし織部が本当に須藤を破滅させたいなら、もっと簡単な方法があったはずだ。こんな見破られる前提の、アナログなタイマー仕掛けなんて使わずに、本物の凶器を須藤の部屋に埋めればよかった。だが、彼はあえて、警察が調べれば必ず見つかるような『不自然な痕跡』をいくつも残した」
わざわざ部屋に落ちていた、織部本人の筆跡の予定表。わざわざ調べればわかる、加湿器のタイマー仕掛け。わざわざ須藤の爪に残された、都合のいい皮膚片。
これらはすべて、織部が残した「ヒント」だったのだ。警察という名の探偵に、この謎を解かせるための。
「つまり……」
御子柴の声が、再び震え始めた。
「俺たちは、犯人が仕掛けた謎解きゲームに、まんまと乗せられていただけだって言うのか?」
「それだけならまだいい」
私は自分の腕をさすった。悪寒が止まらなかった。
「本当に恐ろしいのは、『なぜ織部がそんなゲームをしなければならなかったのか』の理由が、私たちの論理の遥か外側にあるということだ。彼は自分の意志でこのゲームを始めたんじゃない。始めさせられたんだ。もっと巨大な、不可視の『意志』によって」
一ヶ月後。
事件は御子柴が言った通りの結末を迎えた。
織部正源の死亡は「自殺」と断定され、須藤彰は殺人容疑については不起訴処分となった。彼はその後、横領した金を返済する手続きを進めながら、静かに街を去っていった。
警察の記録上、この事件は「解決済み」のファイルに収められた。
見事な科学捜査と、刑事たちの執念深い捜索によって、複雑怪奇な密室殺人の謎は完全に暴かれた――そういうことになっている。
しかし、私と御子柴の二人は、今でもあの事件の話になると、奇妙な沈黙に陥ってしまう。
都内の小さな居酒屋で、私たちは向かい合って酒を飲んでいた。
「なぁ、浅野」
御子柴がグラスを弄びながら言った。
「俺はあれから、ずっと考えているんだ。あの事件で、一番得をしたのは誰だと思う?」
「さあね。須藤は命拾いしたし、警察は面目を保った。誰も損はしていないな。織部という、元から長くない命の老人を除けば」
「そうだ。誰も損をしていない。まるで、世界全体の幸福度の総量が、あの事件によって一ミリだけ増えたかのような、奇妙な調和を感じるんだ。……だが、それが一番気持ち悪い」
御子柴は酒を煽った。
「事件の本質はな、浅野。『どうして解けたか分からない』ってことじゃないんだ。『どうしてあんな事件が、この世界に存在しなければならなかったのか、その理由が誰にも分からない』ってことなんだよ」
私は彼の言葉に深く頷いた。
私たちは、事件の「 How」を解き明かした。
織部がどうやって密室を作り、どうやって通報したか。
しかし、事件の「 Why」は、永遠に闇の中だ。
織部正源にあの予定表を書かせたのは誰か。
須藤彰の頭の中に響いた「声」の正体は何だったのか。
そして、なぜ世界は、これほどまでに完璧な「解決」を要求したのか。
もしかしたら、私たちの暮らすこの現実は、誰かが執筆している巨大なミステリ小説の一ページに過ぎないのかもしれない。
その小説の著者は、読者を退屈させないために、定期的に「完璧に解決する奇妙な事件」を現実という原稿用紙に書き込んでいく。
登場人物である私たちは、与えられた論理と証拠を使って、著者が用意した通りの「解答」に辿り着き、そして満足して事件簿を閉じる。
「どうして解決できたか分からない」のではない。「解決されるようにあらかじめ歪められていた」のだ。
「もう一杯頼むか」
私はメニューを開いた。
「ああ、そうしよう」
御子柴は答え、それ以上事件について語るのをやめた。
店の外では、十月の冷たい雨が降り始めていた。
世界は何事もなかったかのように、完璧な秩序を保ったまま、次の「予定」へと向かって静かに回転を続けている。私たちはその精巧な歯車の一部として、ただ目の前の酒を飲むことしかできなかった。




