混沌の始まり
エリュシオン・オンラインの正式ローンチから、わずか三時間。
最初の警告が姿を現した。
はじめは、メイン画面に表示された小さなオレンジ色の通知。
次に、十数件。
やがて、数百件。
そして、一斉に――
オペレーションルームのすべてのスクリーンが赤に染まった。
エンジニアたちが椅子から立ち上がる。
机の縁で、控えめなアラームが震える。
コードの行が明滅し、消えていく。まるで、システムそのものが何かを隠そうとしているかのように。
「……おかしい」
ネットワーク技師が呟いた。
「ログアウトのパケットが……消えてる」
「消えたってどういう意味だ?」
別の技師が必死にキーボードを叩く。
「このモジュールは消失できない! ハードウェアレベルでロックされてるはずだ!」
そのとき、監督者が叫んだ。
「ヴィクターが、ローンチ以降一切連絡に応じない!
もう打つ手がない……ムスク氏しかいない。彼を呼べ!」
イーロン・マスクは、ビルの中にはいなかった。
彼は報道エリアでローンチを見守っていたとき、神経通信端末が最高警戒レベルで振動した。
迷うことなく、走った。
自動扉が金属音を立てて開き、息を切らしたイーロン・マスクが姿を現す。
その表情にあったのは恐怖ではない。
極限まで研ぎ澄まされた集中だった。
「何が起きた?」
チームは道を空け、ログアウト機能が消失したこと、そしてヴィクターと一切連絡が取れないことを、矢継ぎ早に説明する。
そのとき、大型スクリーンの一つが明滅した。
映像が自動的に再生される。
ライブではない。
配信でもない。
――録画だった。
画面に映し出されたのは、ヴィクター・シュタールの顔。
ニューラリンクを世界的エンターテインメントへ統合した責任者、CEO。
彼は落ち着いた声で語り始める。
焦りはない。
一言一句、計算されたかのように。
「これを見ているということは、ニューロ・ロック・プロトコルがすでに起動しているということです」
彼は手を軽く動かし、見えないスライドを送る仕草をした。
「それが何を意味するのか、正確に説明しましょう」
部屋は完全な静寂に包まれた。
「ニューラリンクは、三つの主要層で構成されています。
第一層、脳とシステムを接続する物理インターフェース。
第二層、精神信号をデジタルデータへ変換するニューロブリッジ。
第三層、意識が相互作用するシミュレーション環境」
ヴィクターは一度、息を整える。
「通常、ログアウトボタンは第二層に作用します。
ニューロブリッジを遮断し、意識を肉体へ戻す」
彼は、カメラをまっすぐ見据えた。
「私は、その機能を削除しました」
室内の何人かが、青ざめる。
「無効化したのではありません。
一時的にブロックしたのでもない。
外部コマンドによって、ニューロブリッジを終了できない構造に、システムを再設計したのです」
臨床的な口調で、彼は続ける。
「現在、意識はエリュシオンに“接続”されているのではありません。
内部の神経環境に“固定”されています。
強制的な遮断は、接続を切るのではなく……帰還を可能にする構造そのものを破壊します」
短い間。
「平易に言えば、脳は生き続けるが、
精神は戻る道を失う」
重苦しい沈黙。
「ただ一つ、例外を残してあります」
ヴィクターは指を立てた。
「ゲームの完全クリアです」
視線は揺るがない。
「六十六階層すべてを踏破した時、
システムは手動でニューロブリッジを解放し、
意識の肉体への再統合を許可します」
数秒が流れた。
「それ以外の離脱行為は、
非対称的ブリッジ閉鎖を引き起こします。
意識は肉体にも戻れず、
システム内にも完全には留まれない」
彼は、わずかに首を傾けた。
「層と層の狭間に閉じ込められる。
一般的には……永久昏睡と呼ばれる状態です」
そして、同じ落ち着きで付け加えた。
「もう一つ、理解すべき点があります。
エリュシオン内部では、意識は完全稼働状態です。
遠隔操作されるアバターではありません。
環境内で活動しているのは、その人自身の精神です」
カメラを見据える。
「もし仮想の身体が死亡した場合……
再統合可能な精神構造は存在しません」
最後の沈黙。
「技術的には、意識の溶解が起きます。
人間の言葉で言えば――完全な死です」
映像は、そこで途切れた。
数秒間、誰一人として動けなかった。
混乱が、部屋を飲み込む。
「はったりだ!」
「一人でそんなことできるはずがない!」
「ヴィクターは神経モジュールの半分を書いた人間だぞ!」
「誰も知らない経路を把握してたんだ!」
怒号が飛び交う中、イーロンだけが動かなかった。
彼の目は、今なお流れ続けるコードに釘付けになっていた。
一行一行が、彼の最悪の予感を裏付けるかのように。
「……彼は本当のことを言っている」
ざわめきが、一瞬で止まった。
「それは……本当に可能なんですか?」
一人のエンジニアが震える声で尋ねる。
「人が、神経インターフェースの中に閉じ込められるなんて」
イーロンは深く息を吸った。
「ニューロブリッジは、心と機械を行き来する交通網のようなものだ」
「通常、仮想環境で致命的な損傷を受けると、
脳は即座に切断信号を受け取り、強制的に離脱する」
彼は画面の図を拡大する。
「それが、神経ショックや認知崩壊、
そして脳死を防いでいる」
視線を上げる。
「ヴィクターは、それを無効化した。
自動解離プロトコルを削除したんだ」
沈黙が、さらに重くなる。
「つまり……」
イーロンは言った。
「中で死ねば……外でも死ぬ」
冷たい戦慄が、部屋を走った。
そのとき、一つの声が沈黙を破った。
「だからこそ、待っていられない」
全員が振り向く。
ルーカス・ムスクが、扉の前に立っていた。
「中にいる人たちは、まだこれをゲームだと思ってる」
彼は机へと歩み寄る。
「ただのバグだと。システムエラーだと」
図を指差す。
「彼らは知らない。
死亡メカニクスが、すでに変わっていることを」
エンジニアたちは顔を見合わせた。
「誰かが倒れたら、リスポーン画面は出ない」
「神経過負荷による心停止が起きる」
「そして……中の誰も、それを知らない」
現実が、殴りつけるようにのしかかる。
「方法は一つある」
ルーカスは言った。
「直接入るんだ。ニューロ・ダイレクト・アクセスで」
イーロンの胃が、締め付けられた。
「それは、セーフティが存在する前の旧式モードだ」
彼はすでに理解しながら言う。
「脳を、システムの中枢へ直接接続する。
フィルターも、緩衝もない」
「分かってる」
ルーカスは答えた。
「でも、誰も警告しなければ……
人は、ゲームだと思ったまま死ぬ」
今度の沈黙は、技術的なものではなかった。
倫理だった。
イーロンは一瞬、顔を覆った。
否定ではない。重さだった。
「この技術を作ったとき……」
低く言う。
「誰も、命を失わないと誓った」
目を上げる。
「だが今、それが人を殺そうとしている」
ルーカスが近づく。
「だから直す。
できる方法で」
イーロンは深く息を吸った。
恐怖の居場所は、もうなかった。
残っていたのは、責任だけだ。
「ダイレクト・アクセスで入れば……」
彼は言う。
「数分間、外部ブリッジが維持される。
残留チャンネルが生まれる」
一拍。
「それを安定させれば……
中の全員に警告を送れる」
彼は続ける。
「安全な任務じゃない。
自分の脳が過負荷を起こす前に、どれだけ時間を稼げるかの勝負だ」
ルーカスは頷いた。
「十分だ」
「真実を伝えるには」
「もう、ゲームじゃないこと」
「中で死ねば……外でも死ぬこと」
イーロンの目が変わった。
それは、リスクを計算する科学者のものではない。
遅すぎたかもしれないが――
それでも命を救えると知った人間の目だった。
「この橋を作ったのは、我々だ」
彼は言う。
「なら、壊れたときに渡る責任も、我々にある」
息子を見る。
「ニューロ・ダイレクト・アクセスを準備しろ」
チームは即座に動き出す。
センサーの再調整。
安全フィルターの解除。
緊急プロトコルの停止。
ルーカスは、インターフェースチェアに座った。
ニューラリンクが後頭部に固定される。
イーロンはその隣に立ち、
息子の肩に手を置いた。
一瞬、震えた手は、すぐに確かな力を取り戻す。
「息子として行くんじゃない」
彼は言った。
「悲劇を止められる、唯一の人間として行くんだ」
ルーカスは、静かに笑った。
「じゃあ……救おう」
システム音が鳴る。
ニューロ・ダイレクト・ブリッジ、起動。
ルーカスは目を閉じた。
スクリーンに表示が現れる。
システム接続完了。
ユーザー、ログイン成功。
オペレーションルームは、完全な静寂に沈んだ。
イーロンは動かなかった。
その瞳にあったのは、恐怖ではない。
それ以上のものだった。
その瞬間、彼はただ息子がシステムに入るのを見ていたのではない。
創造が責任を要求する地点に到達したことを、
身をもって受け止めていたのだ。
※あとがき※
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