ニューラリンクの新時代
この巻では、
美しくも容赦のない仮想現実に囚われた若き開発者、イーサン・コールの最初の一歩を描く。
ゲームと現実を隔てていた境界線は崩れ去り、すべての戦いは生存を賭けた闘争となり、一つひとつの階層を攻略するたびに、それは命を繋ぎ止める一息となる。
彼は急速に成長しなければならない。仲間と出会い、同盟を築き、胸の奥で燃え続ける“炎”を制御する必要がある。
すべては、ただ一つの目的のために。
家へ帰る
「世界が檻に変わるとき……勇気だけが、唯一の鍵となる。」.
あなたの新しい人生へようこそ。
生き延びられることを願っている。
注意書き(免責事項)
本作品はフィクションです。作中に登場する人物、企業、技術、出来事はすべて物語上の演出であり、実在の人物・団体・技術・事件とは一切関係ありません。
また、実在の出来事や人物を忠実に描写する意図、あるいは特定の個人、組織、企業、ブランドを誹謗中傷する意図はありません。
© 2025 Kousei Zion
無断転載・複製を禁じます。
肉体が機能しなくなっても、心はなお歩き続けることができる。
我々がしたのは、ただ扉を開いただけだ。」
―― ニューラリンクに関する最後の公開講演にて
イーロン・マスク
西暦2042年。
世界は、イーロン・マスクが若き日に知っていた姿とは、もはや別物になっていた。摩天楼は有機的な曲線を描くように湾曲し、ドローンは金属の群れのように空を切り裂き、巨大なホログラム広告が空中庭園や太陽光パネルと空間を奪い合っていた。
だが、本当の革命は街にはなかった。
それは、人々の頭の中にあった。
かつては麻痺患者に再び身体の動きを取り戻させるための、危険な実験にすぎなかったニューラリンクは、いつしか新時代の中枢へと変貌していた。新聞はそれを「第二の人類ルネサンス」と呼んだ。
だがイーロンにとって、それはただ一つの周期の終わりに過ぎなかった。
彼はテキサス州ボカ・チカ近郊にある自宅のガラス張りのバルコニーから、そのすべてを眺めていた。そこはかつて、スターシップの最初の試作機が飛び立った場所でもある。今では、発射台、サイロ、着陸滑走路が連なる巨大な複合施設が広がり、軌道を行き来する宇宙船が、まるで旧時代の旅客機のように発着していた。
ガラスに映るのは、白髪を湛え、歳月の刻まれた一人の老人。
だが、その瞳だけは変わらない。鋭く、好奇心に満ち、落ち着きなく揺れていた。
正面の大型スクリーンでは、音声を伴わないニュースが次々と切り替わっていく。
「最新型視覚ニューロプロテーゼにより、失明患者が視力を回復」
「四肢麻痺患者、永続型仮想世界でデジタル自立を実現」
「聴覚ニューラルインターフェースにより、聴覚障害者が初めて音楽を体験」
「ニューラリンク新プロトコル、治療抵抗性重度うつ病を安定化」
イーロンは音量を上げた。
最初の特集は、三十代前半と思われる女性を映していた。開け放たれた窓辺に座り、風が黒髪をやさしく揺らしている。隣には、タブレットを手にした医師が微笑んでいた。
「どう見えますか?」
医師が問いかける。
女性の目は、病ではなく感情によって、わずかに赤く潤んでいた。こめかみには小さな金属製インプラントが点在し、細いセンサーが後頭部の基部へと伸びている。そこではニューラリンクのモジュールが、ほとんど痕跡を残さず骨と一体化していた。
彼女は深く息を吸った。
「……光」
そう呟く。
「どこにでも、光がある」
一筋の涙が頬を伝った。
「空が……青い。想像でしか知らなかった青。木々も……緑って、こんなに色があるなんて」
カメラは彼女の顔に寄り、震え、崩れた笑顔のすべてを逃さず捉える。
「二十七年間、闇の中にいました」
彼女は続けた。
「今は……世界そのものが、頭の中に読み込まれたみたいです」
ナレーターは説明する。ニューラル義眼は本物の目ではなく、光と奥行きを感知するセンサーであり、それらを脳へ直接信号として送っているのだと。
自然な視界とは違う。
だが彼女にとって、それは奇跡と呼ぶに十分だった。
イーロンは腕を背中で組み、黙って見つめていた。狂人と呼ばれた会議の数々。人間の頭蓋骨を開き、チップを埋め込もうとする無責任な男だと非難された見出しの数々。
今、世界はそれを「治療」と呼んでいる。
次の映像は病院だった。
いや、かつて病院だった場所だ。
ベッドが並んでいた部屋は、静かで整然とした空間へと変わり、患者たちは完全補助型のベッドに横たわっている。使われなくなった身体は萎縮し、筋肉は細く、動かない。
だが、カメラの焦点は動かない脚ではなかった。
閉じた目の穏やかな表情と、その背後にあるインターフェースだった。
すべての患者の後頭部にはニューラリンクのモジュールが埋め込まれ、心拍、呼吸、血圧を監視するシステムと接続されている。ベッド脇のパネルには、かつてはSFだった光景が映し出されていた。リアルタイムの神経活動が、仮想世界の投影として可視化されている。
映像が切り替わる。
そこには広大なデジタルホールが広がっていた。机、オフィス、装飾用の植物。アバターたちは会話し、歩き、笑っている。スーツ姿の男が会議でネクタイを直し、女性が仮想教室で授業を行っていた。
ナレーターが語る。
「歩くことができない人々にとって、身体はもはや檻ではありません。
これらの治療環境の中で、彼らは働き、学び、交流します。
給与は現実世界から支払われ、人生は両方の世界で続いていくのです」
若い女性がインタビューに答える。
「現実の私を見れば、首から下が動かない人間に見えるでしょう。でも、ここでは……」
彼女は自分のアバターを回転させ、腕を上げた。
「私は物流企業のオペレーションマネージャーです。働いて、支払いをして、家族を支える。私は……ちゃんと存在してるんです」
イーロンは一瞬、視線を逸らした。遠くでスターシップが炎の軌跡を描きながら空へと昇っていく。
彼は人生をかけて、人類を地球の外へ連れ出そうとしてきた。
その一方で、知らぬ間に、人類に身体から逃げる手段を与えていた。
画面が再び切り替わる。
今度は子どもだった。
十歳ほどの少年が、実際のピアノの前に座っている。指はまだおぼつかないが、笑顔がすべてを満たしていた。両親が隣で、涙を浮かべながら見守っている。
「ちゃんと聞こえてる?」
母親が尋ねる。
少年は鍵盤から目を離さず、うなずいた。
剃られた髪の下、聴神経に沿って小さなインプラントが光っている。ヘッドホンも、スピーカーもない。
レポーターは説明する。ニューラル受信機が音の周波数を捉え、それを直接脳の聴覚領域へと変換しているのだと。
音楽が流れ始めた。
最初の音が空間を満たす。
少年は目を閉じた。
「前は……全部、無音でした」
後のインタビューで彼は語る。
「人が口を動かしてるのを見るだけで、“おはよう”がどんな音か知らなかった。今は……」
彼は笑った。
「今は、ママの声が一番きれいな音だって分かります」
映像は見出しへと切り替わる。
「ニューラル聴覚技術、重度症例で従来補聴器を代替」
「新神経療法、重症患者の情動パターンを安定化」
「予測型ニューラルネットワーク、不安発作をリアルタイムで低減」
臨床例は積み重なり、研究は加速し、政府は法律と医療制度を更新していった。
ニューラリンクは、もはや億万長者の危険なチップではない。
人類の基盤インフラとなっていた。
放送はスタジオへ戻る。
「これが、イーロン・マスク最大の遺産と言えるでしょうか?」
記者の問いとともに、過去の映像が流れる。
垂直着陸するファルコン。電気自動車が走る高速道路。月を回る宇宙船。赤い砂漠に広がる、火星最初のコロニー。
若き日のイーロンが、古い試作機の横で微笑む静止画。
そして現在。
簡素なスタジオで、年齢の重みを背負ったイーロンが座っている。皺は深くなったが、声には変わらぬ抑えた情熱があった。
「私は遺産なんて考えたことはありません」
彼は言う。
「問題を解決することだけを考えてきました」
一拍置く。
「ニューラリンクは、そのために生まれた。世界を面白くするためじゃない。身体が奪ってしまったものを、人に返すために。動き。視覚。聴覚。感情の均衡。もう一度、チャンスを与えるために」
記者は食い下がる。
「今や医療からリモートワーク、治療から宇宙開発まで使われています。それでも、満足されていますか?」
イーロンは小さく笑った。
「満足、という言葉は正しくないですね。人間の精神ほど根源的なものを扱う以上、“完成”なんて言えません」
身を乗り出す。
「我々がしたのは、扉を開いただけだ。その先で人類が何をするか……それは、もう私一人の問題じゃない」
インタビューは夜空の映像で締めくくられた。
小さな光が、闇を裂いて火星へと向かっていく。
公式には引退していたイーロンは、いくつかの計画で助言的な役割だけを続けていた。朝は火星コロニーの中継を見守り、午後はニューラリンクを用いた臨床報告に目を通す。
彼は理解していた。
この二つは、根底で繋がっている。
身体を別の惑星へ運ぶこと。
精神を別の世界へ接続すること。
それは同じ問いの、異なる形だった。
人類は、どこまで行けるのか。
やがて、避けられない変化が起きる。
医療の道具として始まった技術は、他分野の関心を集めた。教育機関は没入型教室を作り、建築家は神経シミュレーション内で都市を設計し、宇宙機関は極限環境を安全に再現した訓練を行った。
そして、囁きが広がっていく。
「治療用の世界を作れるなら……
丸ごと一つ、娯楽の世界を作れないか?」
ゲーマー、映画スタジオ、開発者たちが、ニューラリンクを新たな目で見始めた。
もはや、癒やしだけではない。
感じることだ。
存在しない山の風。
鍛えられたことのない剣の重み。
魔法の熱。
拳の衝撃。
何千ものアバターに届けられる音楽の震え。
最初の試みは控えめだった。単純なゲーム。ソーシャル空間。仮想テーマパーク。
だが、どれも完全ではなかった。
没入には、まだ限界があった。
インターフェースは体験を濾過していた。
そのとき、一つの企業が一線を越える。
野心を宿した眼差しと、感情を隠した笑みを持つ男――ヴィクター・シュタール。
彼は、ニューラリンクを使うだけの計画では満足しなかった。
地球の外に、人類初の完全な世界を作ろうとしたのだ。
名前は、まだ発表されていなかった。
イーロンは距離を保ちながら、その動きを追っていた。医療段階はすでに完成し、プロトコルも徹底的に検証されている。
彼は知っていた。
いつか誰かが、この技術を娯楽という最終領域へ押し進めることを。
バルコニーから、また一機のスターシップが天へ昇るのを見届ける。
同じ頃、世界中の数十のスタジオで、アーティスト、プログラマー、デザイナーたちが神経コンソールに接続し、光る森、結晶の都市、データのドラゴン、コードの砂漠を創り上げていた。
新しい世界が、生まれつつあった。
そして間もなく、それは名を持つ。
だが、その物語が始まるのは、別の場所だった。
無数のLEDパネル、ホログラム、ドローンに囲まれた都市。
群衆の前で。
サンフランシスコ。
※あとがき※
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