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第4話 川辺の月夜とワインの誘惑

 放課後の屋上での出来事から、志高零は霧島悠羽の言葉を胸に、学校の図書室で「天国への七つの階段」のメモを何度も読み返していた。悠羽のヴァイオリンがもたらす旋律は、確かに零の覚悟を支えてくれていた。だが、甘利みるの甘い香りと柔らかな感触は、夜ごと夢に現れ、零の心を乱す。抗うたび、階段の幻視が鮮やかになるのに、誘惑の疼きは消えない。


 今日も放課後、零は学校の裏門から帰路についた。夕陽が沈みかけ、街灯がぼんやりと灯り始める時間帯。歩きながら、みるのピンクの瞳を思い浮かべ、悶々とする。胸の柔らかさ、吐息の熱さ——。下腹が熱くなり、足取りが重くなる。


「高みを極める覚悟……本当に俺は、そんなものを持ってるのか?」


 自問自答が頭を巡り、気づけばいつもの道を外れていた。


 周囲は見慣れない路地。古い街並みが続き、川の音が微かに聞こえてくる。零はスマホの地図を確認しようとしたが、なぜか電波が入らない。迷ったか? いや、そんなはずはない。学校から家までは、毎日同じ道だのに。


 川辺に差し掛かると、水面に夕暮れの空が映り、ゆらゆらと揺れている。橋の欄干に寄りかかる女性の姿が目に入った。長い黒髪が風に流れ、深い紫がかった青の瞳が水面を眺めている。赤ワインのグラスを片手に、体にぴったりと沿うシルクのドレスを纏った彼女は、零の存在に気づき、ゆっくり振り返った。ドレスの襟元が少し開き、白い肌が夕陽に妖しく輝く。


 女性は唇を湿らせ、艶やかな声で囁いた。


「ここはみるきーいんへるの。甘い甘ーい地獄へようこそ。私はエレナ・ヴィオレルント」


 零は息を飲む。見知らぬ美女だが、どこか懐かしい気配。彼女の周りには、ワインの芳醇な香りと夜咲く花のような甘さが混じり、みるのミルクキャラメルとは違う、大人びた誘惑が漂う。エレナの視線が零の体を優しく這い、まるで触れているかのように熱を伝える。


「ここは……どこですか? 俺、学校から帰ってるはずなのに」


 エレナはグラスを傾け、水面の夕陽を指さした。


「境界の川辺よ。追いかけるものを諦めた人々が、時々迷い込む場所。あなたは、そうね、何かの誘惑に負けそうになって悶々としてるんでしょう?……可愛い。 甘い匂いがついてるけど……これがあなたを惑わしているのね。でも、浅い。私なら、もっと深く、あなたを溶かしてあげられるのに」


 零は驚いて後ずさる。


「どうして知ってるんですか? あなたは……」


 エレナは橋の手すりに肘を乗せ、零に近づいた。瞳が月光のように輝き、吐息が零の頰を撫でる。彼女の指が零のシャツの襟に軽く触れ、ゆっくりと引き寄せる。


「最近どうもこのあたりで熱心に(さと)りの旋律を奏でる人間がいるみたいね。あの子が、あなたの覚悟を支えてるんでしょう? 可愛いこと。でも……」


 彼女は零の耳元に唇を寄せ、熱い息を吹きかけた。


「私も、昔はあなたみたいに高みを求めた人間だったの。階段を登ろうとして、何度も落ちて……結局、こちら側を選んだ。ここでは、誰も追わない。ただ、美しさを独り占めするだけ……あなたも、一緒に」


 エレナの体が零に寄り添い、柔らかな曲線が密着する。ワインの香りが混じり、彼女の指が零の背中を滑り、首筋を優しく撫でる。


「一口、飲んでみて。覚悟なんて、溶かしてしまえば楽になるわよ。みるの誘惑が可愛らしいお菓子なら、私のはワイン。深く、酔わせて、忘れさせてあげる……あなたの体を、全部」


 零の理性が揺らぐ。ワインの香りが脳を溶かし、下腹の疼きが激しく再燃する。階段の幻視が遠くでぼやけ、弦楽の旋律が聞こえなくなった。零の体が熱くなり、彼女の魅力に飲み込まれそうになる。


 その瞬間、遠くからヴァイオリンの音が響いた。悠羽のメロディだ。零はハッとしてグラスを落とした。ワインが川に落ち、水面を赤く染める。


 エレナはため息をつき、唇を尖らせて妖しく微笑んだ。


「まだ、迷ってるのね。またいつか、疲れたら戻っておいで。あなたの体、待ってるわ」


 零は後ろを振り返り、路地を駆け出した。いつの間にか、いつもの帰り道に戻っていた。息を切らし、額の汗を拭う。エレナの言葉と触れ合いが、心と体に残る。「甘い甘ーい地獄……」


 家に着いた零は、メモを握りしめた。自分は階段を登っているのか、それとも降りているのか、足元が揺らいだ気がした。



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