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第3話 屋上の弦楽とふんわりミルクプリン

 志高零は、廊下を歩いていた。放課後の人通りがまだ少し残る時間帯で、夕陽が窓から差し込み、長い影を落としている。昨夜の出来事が、まだ体に残っていた。甘利みるの柔らかい胸の感触、熱い吐息、溶けそうな甘い香り。そして、最後の瞬間に聞こえた弦楽の旋律。雲海の上に浮かぶ階段の幻視。


 あれは、夢ではなかった。メモの言葉通り、誘惑に抗った瞬間に現れたものだ。


 零はポケットからメモを取り出し、広げた。丁寧な女性的な筆跡が、夕陽に照らされて優しく浮かぶ。


「一段登るごとに、遠くで弦楽の旋律が微かに聞こえるだろう。」


 昨夜の旋律は、まさにそれだった。優しいアルペジオと切ないメロディが、零の心を静かに震わせた。あの音が、零を支えてくれた。


 図書室へ向かおうと歩いていると、突然甘い香りが鼻を突いた。ミルクキャラメル。零の体が、反射的に緊張する。


「れいくん、待ってたよ〜」


 甘利みるが、廊下の壁に寄りかかって立っていた。黒髪のストレートが肩まで流れ、色白の肌が夕陽に透け、スレンダーな体型が制服を優雅に纏う。巨乳の曲線がシャツを張らせ、ピンクの瞳が零をまっすぐ見つめる。


 零は足を止め、警戒した。


「甘利……またか」


 みるはくすくす笑いながら近づき、体を密着させた。胸の柔らかい重みが零の腕に沈み込み、熱い吐息が首筋にかかる。


「え〜、図書室に行くの? そんな難しい本読んで疲れちゃうよ。なくない? 私と一緒に、のんびりしちゃおうよ」


 廊下にはまだ人通りがあった。下校中の生徒が数人通り過ぎるが、誰も二人の行為に気づかない。まるで、周囲の視線がぼやけているように。零は不思議に思ったが、理由はわからなかった。


 みるは大胆に零の腕を絡め、胸を強く押しつけた。谷間が深く、香りが脳を麻痺させる。


「れいくん、私の体、触ってみて。こんなに柔らかくて、温かくて、甘いのに……」


 零の理性が溶けかける。下腹が疼き、劣情が胸の奥から爆発しそうになる。廊下で、こんなところで——。


「やめ……ろ……」


 その瞬間、遠くからヴァイオリンの音色が聞こえてきた。


 優しいアルペジオ。切ないメロディが、風に乗って廊下を満たす。音は穏やかだが、みるの香りを少しずつ押し返すように響く。


 甘利みるが、顔をしかめた。


「この音……キラーイ」


 みるの声が、少し苛立ったように震える。ピンクの輪が揺らぎ、香りが薄れる。みるは零から体を離し、廊下の先を睨む。


「ハァ……じゃあね、れいくん。また今度」


 みるは零を振り返り、甘く微笑んで去っていった。零は息を吐き、壁に寄りかかった。心臓が激しく鳴り、下腹の疼きがまだ残っている。


 あの音色は……どこから?


 零は音を辿った。ヴァイオリンのメロディが、学校の屋上から聞こえてくるようだ。階段を上がり、屋上のドアを開ける。


 夕陽が屋上をオレンジに染め、風が軽く吹いていた。そこに、ヴァイオリンを弾く女性がいた。学生服でもスーツでもない、清楚系の服を纏っている。白のブラウスに淡いベージュのロングスカート、肩に軽くカーディガンを羽織った姿。黒髪のセミロングが風に揺れ、細い銀のヘアピンが光る。華奢な体型で、ヴァイオリンを肩に当て、弓を優しく引いている。


 零は息を飲んだ。美しい。演奏の姿が、まるで絵画のように完璧だった。零は思わず立ち止まり、見惚れた。


 演奏が終わると、零は自然に拍手をおくった。女性は弓を下ろし、零の方を振り返った。細いシルバーフレームのハーフリム眼鏡が夕陽に輝き、瞳は深い灰色からラベンダー色に変わる。二人は顔を見合わせた。


 女性は少し驚いた表情を浮かべ、ヴァイオリンをケースにしまいながら近づいてきた。


「…あの、ありがとうございます。拍手なんて、久しぶりで」


 志高零は、彼女の顔をまじまじと見た。見覚えがない。卒業生? それとも外部の人?


「すみません……あなたは?」


 女性は微笑んだ。えくぼがひとつ浮かび、零の心を少し温かくする。


「霧島悠羽です。去年までこの学校にいて、図書室のお手伝いをボランティアで続けているの。あなたは……志高零くんよね?」


 零は驚いた。初対面のはずなのに、彼女は零を知っているような言い方をする。


「どうして俺の名前を……」


 悠羽はヴァイオリンケースを抱え、零の隣に座った。スカートが少し捲れ、むっちりとした太もものラインが零の視線を少し奪う。悠羽は気づかず、髪を耳にかける仕草をした。


「図書室に毎日通ってるあなたのこと、ずっと見てたの。本に夢中で、周りが見えてないみたいだったけど……」


 零は図書室にほぼ毎日通っていたが、本に集中しすぎて人の顔を覚えていなかった。去年、図書委員長だった先輩がいたはずだが、記憶がぼんやりしている。もしかすると、何か不自然な力が働いていたのかもしれない。


「先輩……さっきの演奏、ありがとう。助かりました」


 悠羽は微笑み、ヴァイオリンをケースから少し出して、弦を軽く弾いた。


「この音は、私の支えだったわ。あなたも、きっと……」


 そのとき、屋上のドアが開く音がした。


 甘利みるが、怪訝な表情で入ってきた。香りが少し広がる。


「やっぱり悠羽ちゃんじゃん。卒業してからもときどき学校に来てるなとは思ったけど……また私と遊ぶ?」


 みるは悠羽を見た後、隣の零に気づき、驚いた顔をする。


「何でここにれいくんが?!」


 悠羽は立ち上がり、ヴァイオリンを構えた。表情は静かだが、毅然とした態度でみるに向き合う。背筋を伸ばし、ヴァイオリンを盾のように持ち、零を背後に守るような姿勢を取った。風にスカートが揺れ、むっちりとした太ももが夕陽に照らされ、頼もしくも美しいシルエットを浮かび上がらせる。


「みる、あなたもしかして、零くんのことを狙ってるの?」


 みるはくすくす笑ったが、目が少し冷たい。


「卒業生には関係ないでしょ。帰りなよ」


 悠羽は一歩も引かず、ヴァイオリンを構えたまま、静かに弓を置く。声は穏やかだが、決して揺るがない強さがあった。


「甘利みる。あなたの能力——周囲の認識を甘く歪め、視線を逸らす力……去年、私にも使っていたわね。あなたが図書室で本を読んでいるとき、私もそばにいたのに、気づかなかったでしょ? それは、みるが認識を阻害していたからだから、零くんは私のことを覚えていないのよ」


 零は驚いて悠羽を見た。悠羽は零に視線を向け、優しく説明した。


 みるは舌打ちし、香りを少し強めたが、悠羽は動じない。


「私はもう迷わない。あなたにも惑わされない」


 悠羽はヴァイオリンを肩に当て、弓を引いた。決意のメロディーが強く響く。優しいアルペジオと切ないメロディが、屋上を満たし、みるの香りを完全に押し返す。


 みるは顔をしかめ、後ろに下がった。香りが揺らぎ、ピンクの輪が乱れる。


「この音……!嫌なこと思い出すんだけど。ホント不快!」


 みるは零を一瞥し、屋上のドアから逃げるように去っていった。


 零は悠羽を見て、息を吐いた。悠羽の姿は、まるで七つ階段を遥か上まで上り詰めた人間のように頼もしく、強く見えた。


 悠羽はヴァイオリンを下ろし、零に微笑んだ。


「…何から話そうかしら」


 悠羽の声は柔らかく、零の心を優しく包んだ。屋上の夕陽が、二人の影を長く伸ばした。


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