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第2話 弦楽が聴こえる夜のマシュマロキス

 志高零は帰宅後、自室のドアを閉めた瞬間、膝が震えた。


 制服の上着を脱ぎ、シャツのボタンを外しながら、指先に残る感触が蘇る。甘利みるの温かく柔らかい手。教室の廊下で振り払ったはずの、あの指先が、まだ皮膚にへばりついているようだった。


 ベッドに腰を下ろし、額を押さえた。心臓が速く鳴っている。夕暮れの教室での出来事が、頭の中で何度もリプレイされる。


 肩が密着したときの柔らかさ。胸の重みが腕に沈み込んだ瞬間。耳元で熱い吐息が吹きかけられた瞬間。濡れた唇が近づき、甘い香りが鼻腔を満たした瞬間。


 シャワーを浴びなければ。


 零は立ち上がり、バスルームへ向かった。熱い湯を頭からかぶる。体を強く洗う。石鹸の泡で皮膚をこすり、香りを消そうとする。


 だが、消えない。湯気と混じってミルクキャラメルの甘さが濃くなる。目を閉じると、みるのピンクの瞳が浮かぶ。色白の頬、艶やかな唇、黒髪の先が肩に落ちる様子。胸の曲線が制服越しに押しつけられた感触。


 ——もう一度、触れたい。


 その衝動が一瞬よぎった瞬間、零は拳で壁を叩いた。水滴が飛び散る。


 俺は高みを登る男だ。一段目、日常の安らぎを捨てる。二段目、肉体の快楽を捨てる。あの甘い誘惑を、拒み続ける。


 シャワーを終え、タオルで体を拭きながら部屋に戻る。パジャマに着替え、ベッドに座った。引き出しからあのメモを取り出す。ランプの明かりの下、折り目のついた便箋を広げた。


「誘惑は、必ず現れる。」


 甘利みる。あいつがそれだ。同級生でありながら、何か得体の知れないところのある少女。俺を自堕落で心地よい快楽の世界へ引きずり込もうとする。


 自己嫌悪が胸を締めつけた。あの香り、あの感触を、もう一度味わいたいと思った自分。吐き気がするほど醜い。


 そんなことばかり考えているうちに、時計の針は深夜0時を指していた。早く寝なければ。


 ランプを消し、ベッドに横になった。目を閉じると、零の中に残っていた甘利みるの香りが濃くなる気がした。ミルクキャラメル。甘く、ねっとりとしたそこ香りが。


 深夜1時15分。


 窓のカーテンが、微かに揺れた。外は無風のはずだ。零は目を覚ました。部屋が、甘い香りで満ちている。頭の中で想像するより、はるかに濃厚に。


 窓が、ゆっくり開く。


「れいくん、昨日は逃げちゃったけど……今夜は、もう我慢できないよ」


 甘利みるが、ベランダから滑り込むように入ってきた。


 私服は白地に淡いピンクのキャミソールワンピース。肩紐が極細で、色白の鎖骨と肩がほとんど露わ。胸の谷間が深く、息をするたびに柔らかく揺れる。裾は太もも半ばまでで、スレンダーな脚が月明かりに照らされ、滑らかな肌が妖しく光る。黒髪が夜風に乱れ、瞳の縁にピンクの輪が、まるで内側から燃えるように輝いていた。


 志高零は、ベッドから跳ね起きた。


「どうやって登ってきた……ここは2階だぞ」


 甘利みるは、くすくす笑いながら近づいてきた。香りが爆発的に広がり、部屋全体を甘く重く包み込む。呼吸するたびに、ミルクの甘味が肺に染み込む。


「れいくん、冷たいよ〜。私のこと、嫌いじゃないよね?」


 彼女は零のベッドの端に腰を下ろし、すぐに体を寄せた。肩が密着し、柔らかい胸の感触が強く押しつけられる。熱い。重い。甘い。


 零は後ずさろうとしたが、背がヘッドボードに当たる。


「やめろ……俺は、お前の誘惑に負けない」


 甘利みるは、零の反応を見て目を細め、甘く微笑んだ。彼女の指が、零の頬を優しく這う。温かく、柔らかく。


「本気? れいくん、昨日もドキドキしてたじゃん。私、わかるよ。心臓、こんなに速い……」


 彼女の胸がさらに強く押しつけられ、零の腕に沈み込む。キャミの薄い布地越しに、熱と柔らかさが直接伝わる。香りが脳を麻痺させ、視界が少しぼやける。


 甘利みるは耳元で囁いた。熱い吐息が、耳たぶをくすぐる。


「私の香り、もっと嗅いで。溶けちゃうくらい、気持ちいいよ?」


 彼女は零の手を取って、自分の腰に導いた。細く、熱く、柔らかい腰。指が沈み込む。


「触ってみて。こんなに熱くて、甘いのに……」


 零の理性が、軋む。


——襲いたい。


 その劣情が、胸の奥から爆発した。


 この細い腰を両手で掴んで、ベッドに押し倒したい。肩紐をずらして、色白の胸を露わにして、指で、唇で味わいたい。甘い香りを嗅ぎながら、太ももを這い上がり、もっと奥まで——あの濡れた唇を奪い、体を強く抱きたい。


 零は自分の下腹が疼いているのを感じた。パジャマがきつくてたまらない。


 甘利みるは、零の変化に気づいたように、くすくす笑った。


「ふふ、れいくん、目が熱いよ。欲しいんでしょ? 私、いいよ……全部、あげちゃう」


 彼女は零の胸に顔を埋め、甘えるように体を擦りつけた。零をベッドに押し倒し、上に乗る体勢に。ワンピースの裾が捲れ上がり、滑らかな太ももが零の腰を直接挟む。熱い。柔らかい。


 部屋の空気がさらに重くなり、壁がぼんやり霞む。時計の針が止まったように遅く、時間が溶けていく。舌に無限のキャラメル味が広がり、怠惰が全身を支配する。甘い地獄が、ここに完全に広がっている。


 甘利みるの唇が、零の唇に近づく。何度も焦らすように、数センチ手前で止まる。吐息が混じり、甘い。


「れいくん、キスしよ? それとも……もっと、深いこと?」


 零の理性が、崩れかけた。


 襲いたい。この体を、俺のものにしたい。この甘い地獄に、自ら落ちてすべてを味わいたい。


 だが、ベッドサイドのメモが目に入った。握りしめた拳の中で、紙がくしゃりと音を立てる。


 一段目、日常の安らぎを捨てる。


 二段目、肉体の快楽を捨てる。


 この劣情こそ、捨てるべきものだ。


 志高零は、最後の力を振り絞った。


「俺はお前に…何もしない。帰ってくれ。」


 その瞬間、部屋のどこからか微かに弦楽器の旋律が聞こえ始めたように感じた。優しいアルペジオと、切ないメロディ。視界に、雲海の上に浮かぶ純白の大理石の階段のようなイメージが浮かぶ。


 甘利みるが、一瞬だけ表情を曇らせた。


「……まだ、れいくんには早いよ」


 彼女は再び唇を近づけ、強く抱きしめる。胸の柔らかさが、零の体を包み込む。


零は何度もメモに書かれた言葉を思い出し、心の支えにし、叫んだ。


「お前は……俺の敵だ!」


 両手でみるの肩を押し、ベッドから突き放した。


 甘利みるは驚いたように目を丸くし、それからくすくす笑った。


「ふふ、強くなったね、れいくん。でも、まだまだだよ?」


 香りが一気に薄れ、彼女は窓から滑り出るように消えた。


「また来るね。次は、もっと甘〜く、溶けちゃうくらいにしてあげる」


 部屋に静寂が戻った。微かなミルクの香りと、不協和音のように崩れた弦楽の残響だけが残る。


 零はベッドに崩れ落ち、激しく息を切らした。下腹の疼きが、まだ収まらない。劣情が、獣のように胸の奥でうずく。


 自己嫌悪と、初めて鮮明に見た階段の幻視への希望が交錯する。


 メモを握りしめ、零は呟いた。


「俺は……登る。この欲求も、捨てて」


窓の外、夜空に雲が流れ、遠くで音楽がまだ微かに聞こえるような気がした。


 だが、胸の奥の熱は、簡単には冷めそうになかった。


 次にみるに迫られたとき、俺は本当に抗えるのか。


 それとも、この劣情に負けて、自ら甘い地獄に落ちていくのか。


 深夜の部屋に、零の荒い息と、抑えきれない欲望だけが、静かに燃え続けていた。



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