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第1話 キャラメル香る放課後の誘惑

 夕陽が教室の窓を鮮やかなオレンジに染め、埃の粒子が光の筋の中でゆっくりと舞っていた。放課後の喧騒は遠く、部活の声や校庭の風音が窓の外からかすかに聞こえてくるだけ。志高零は一人、机に肘をついて哲学書を開いていた。ページの間から、折り目のついた古びたメモがのぞいている。あの便箋は、数ヶ月前の春、図書室の奥深くで埃をかぶった古い翻訳本を借りたときに落ちてきたものだ。


 志高零は、指でメモの端をそっと撫でた。図書室のあの瞬間を思い出す。薄暗い棚の間で、手を伸ばして本を取ったときの埃の匂い、ページをめくった指先の感触。そして、便箋が滑り落ちて床に転がった音。丁寧で少し柔らかな女性的な筆跡で書かれたタイトル——『天国への七つ階段』。一段ずつ、何かを捨てて登る螺旋階段。一段目は日常の安らぎ、二段目は肉体の快楽、三段目は愛と絆、四段目は知識と真理、五段目は自我、六段目は時間の有限性、そして七段目は高みそのものを放棄する。頂点は雲海の上に浮かぶ純白の大理石の静寂、何もない場所。弦楽の旋律が微かに響き、誰も完全に到達した者はいない。到達したと思った瞬間、天国は消え、落ちる先は日常か、あるいは甘い地獄か。最後に添えられた言葉。「登りたいなら、孤独に浸りなさい。誘惑は、必ず現れる。」


 あの夜、部屋の小さなランプの下で何度も読み返した。心臓が速く鳴り、興奮と不安が混じった。高みを極め、そこで死んでもいい——そんな覚悟を、俺は本当に持てているのか。それとも、ただの逃避か。生きる理由が見つからない俺にとって、この階段は救いの道のように見えた。実行しようとした。まずは一段目、日常の安らぎを捨てる。家族との会話を最小限にし、部活や友達の誘いを断った。快楽も避け、甘い食べ物を控え、スマホの通知をオフにし、睡眠を削った。でも、すぐに壁にぶつかった。捨てるべきものが、意外に重い。絆を断とうとしても、心のどこかで安堵する自分がいる。欲望の浄化すら、夜の孤独が甘く感じてしまう。俺はまだ、覚醒すらしていない零段階だ。階段の入り口にさえ、立っていないのかもしれない。


 そんな自問自答を繰り返していると、廊下の遠くから微かな足音が近づいてきた。最初は気のせいかと思ったが、徐々に明確になる。教室の空気が、少し重く変わるような気がした。窓の外の夕焼けが赤く深みを増し、部活の声が遠ざかる。ドアが、静かに開く。


 ふわりと、ミルクキャラメルを溶かしたような甘い香りが流れ込んできた。最初は微かだったが、すぐに部屋全体を包み込む。零の鼻腔をくすぐり、頭の芯まで優しく溶かすような甘さ。


「れいくん、まだいたんだ〜」


 甘利みるは、にこにこと笑って入ってきた。同級生でクラスメイトのはずなのに、日中は一度も目を合わせたことがない。授業中は他の女子たちと笑い、黒髪のストレートを揺らしてノートを取る、どこにでもいる清楚な女子高生だ。色白の肌が夕陽に透け、スレンダーな体型が制服を優雅に纏う。


 でも今、放課後の彼女は違う。瞳の縁に、淡いピンクの輪が浮かんでいる。甘い香りが強くなり、零の周りを渦巻くように濃くなる。


 志高零は、本を閉じて顔を上げた。


「甘利……どうしてここに。俺は一人でいたい」


 甘利みるは、零の隣の机に腰を下ろし、体を少し寄せてきた。肩が軽く触れ、彼女の温もりが伝わる。吐息が耳元にかかり、温かく湿った息が首筋を撫でる。唇が艶やかに濡れて、夕陽に光る。


「え〜、そんな冷たいこと言わないでよ。れいくん、いつも一人で難しい顔してるじゃん。私が、甘〜く癒してあげようか?」


 彼女はポケットから小さな紙袋を取り出し、零の手にそっと乗せた。指先が絡み、温かい。ミルクキャラメルの甘い香りが、さらに濃くなった。零の視界が、少しぼやけ始める。


 志高零は、手を引いたが、香りが頭をぼんやりさせる。


「いらない。俺は……そんなものに、頼らない」


 甘利みるは、くすくす笑った。体をさらに近づけ、肩が密着する。柔らかい胸の感触が零の腕に軽く当たる。彼女の息が、耳たぶを甘くくすぐる。


「ふふ、れいくんって真面目だよね。疲れちゃうよ?肩の力 、抜かない? ちょっとだけ、私の香りに包まれて、のんびりしちゃおうよ。ここで、私と一緒に甘〜く溶けちゃえば、全部楽になるのに」


 ピンクの瞳が、零をまっすぐ見つめる。唇が少し開き、甘い吐息が零の頬にかかる。零の心臓が、速くなる。この香り、この声——すべてが心地よい。怠惰を誘う、甘い罠だ。


志高零は、目を逸らした。あのメモの言葉が、頭に浮かぶ。ーー「誘惑は、必ず現れる」


「……お前は、俺を甘やかして、堕とそうとしてる」


 甘利みるは、零の反応を見て目を細め、楽しげに笑った。体をさらに寄せ、胸の柔らかさが零の肩に強く押しつけられる。彼女の指が、零の頬を優しく這う。濡れた唇を近づけ、耳元で囁く。


「堕とすなんてひどいよ、れいくん。私、ただれいくんのこと好きだから、幸せにしてあげたいだけだよ? 高みとか頂点とか、難しく考えすぎなくない? 私の体、触ってみて。こんなに柔らかくて、温かくて、甘いのに……」


 彼女の吐息が熱く、零の耳をくすぐる。胸の感触がより強く伝わり、甘い香りが脳を麻痺させる。零の視界が、ぼやけ、部屋の輪郭が溶けていくようだ。机の上の哲学書が、香りで少し湿っぽく光る。外の音が完全に遠ざかり、二人の空間だけが甘く閉ざされる。


 志高零は、息を詰めて体を引いた。


「……やめろ。お前がなぜ誘惑してくるのかは分からないけど、俺は自分に負けたくないんだ」


 甘利みるは、零の頬から指を滑らせ、手を優しく握った。温かく、柔らかく、離れがたい感触。


「本気? れいくん、私がいなくなったら寂しいくせに。もっと近くに来てよ。私の香り、もっと嗅いで。甘〜いキャラメルにミルク、気持ちいいよ?ーーれいくんの言葉を借りるなら、一緒に堕ちちゃお?」


 彼女の体が零に密着し、首筋に軽く息を吹きかける。ピンクの瞳が輝き、唇が零の耳に近づく。零の心臓が激しく鳴り、一瞬、意識が飛ぶ。香りが体を溶かし、怠惰が心地よい。だが、俺は抗わなければならない。あの階段の最初の段、日常の安らぎを捨てる——この甘さが、それだ。


 志高零は、力を振り絞って立ち上がった。


「やめろ、甘利。俺は……お前とは…ダメだ!」


 甘利みるは、立ち上がる零の手を離さず、甘く微笑んだ。


「ふふ、逃げないでよ、れいくん。今日は一緒に帰ろ? 私の部屋で、もっと甘〜いこと、たくさんしてあげる。溶けちゃうくらい、ね?」


 夕陽が完全に沈み、教室が薄暗くなった。ミルクの香りだけが、濃く残る。零は手を振り払い、ドアに向かった。でも、指先に残る温かさを、無意識に握りしめていた。教室を出て廊下を歩く足が、少し止まる。振り返ると、ドアの隙間から甘い香りが追ってくる。


 あの階段の最初の段は、まだ遠い。だが、誘惑はすでに始まっていた。


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