◆4-1 素っ頓狂な娘、水銀の牢に閉じ込められる
ぴちょん。
「――あら、まあ」
頬にぬるりとした液体が一滴落ちてきて、ぱちりとラヴィリエは目を覚ました。
身を起こせば、其処は実に奇妙な空間だった。部屋、であろうことは間違いないのだが、四隅は無く、閉じられた球体のように見えた。見慣れた講義室の壁の筈であるものが黒板と溶け合い、不気味な斑模様になっている。壁掛け時計もどろりと溶けて、長針と短針が零れ落ちていた。窓硝子は水のように滴り落ちては、斜めになった天井へと逆向きに上っていく。まるで講義室をあの鈍色の水で満たして、じわじわと溶かしたものが渦を巻き、出口の無い牢獄を作り出していた。
「あらあら、まあまあ。まるで水銀時計の様ね」
そんな気分が悪くなるような空間に、ラヴィリエは一人でいた。友人達は勿論、影のように付き従う銀腕の従者も居ない、ひとりきり。入り口も出口も無く、隅も穴も無い、ぐちゃぐちゃに歪んで固まったような部屋の中に閉じ込められていた。拘束はされていないが、此処は何処なのか、どうやって出ればいいかも解らない。
「お招きいただいたのだから、お茶は無理でもせめてテーブルのひとつは用意していただきたいわ。ずっと立ちっぱなしは疲れるもの」
しかしラヴィリエは全く余裕を崩さず笑顔のまま、誰とも知らずに語り掛ける。頼みの綱である、スカートの内側、太腿に留めている小剣に手を伸ばすことすらしない。勿論、そうした瞬間、何者かに攻撃される危険性を鑑みたが故だけれど。
「――脅かし甲斐の無い女だな」
しゃがれた嘲り笑う声が、部屋というには悍ましい空間に響く。鈍色の水が盛り上がり、波立ち、ひとのような形を取り――何かが、顕現した。
随分と底の厚いブーツを履き、古臭い燕尾服に身を包んだ男、に見えた。顔立ちだけならば舞台俳優のように整っている。しかし黒い頭髪の間からは、更に黒く伸びて捩じれて、凝り固まったような角が二本伸びており、酷薄な笑みを浮かべた唇は血のように赤い。ラヴィリエを吟味するように見つめる瞳の色は金色で爛々と輝き、瞳孔は山羊のように横に伸びていた。
「せめて泣いて叫べば、その目はもっと美しくなっただろうに。勿体ねぇな」
黒髪金目は魔の証――それが世界の常識だ。瘴気が澱となり、それに侵されたものを俗に魔と呼ぶが、厳密にはそれは二種類に分けられる。神学の授業を受ける前から、ラヴィリエは家族から与えられた祓魔としての知識で知っていた。
目の前のそれは、瘴気や澱によって人や獣、虫や草木の魂が変じた憑魔ではあるまい。その金の瞳には意志が宿り、まっすぐにラヴィリエに向けられていた。
澱そのものが凝り固まって生まれた、世界を侵蝕する意思を持つもの。ありとあらゆる手段で、世界を蝕み苛むもの。肉の身体は持たず、霊質によって編み上げられたその存在は、物理的な攻撃に痛みを感じることは無い。そして、その心が折れぬ限り死ぬことも無い。嘗て崩壊神の妻となった魔女王を祖とする、真魔と呼ばれる者達。
「あらまあ、私の瞳が魅力的過ぎて、貴方を誘惑してしまったのかしら? そんなつもりは全く無かったものだから、お詫びをして差し上げるわ」
人を嘲り害するものを目の前にして、ラヴィリエの声は少しも揺るがず、寧ろ笑顔で外套の裾を抓み、淑女の礼を取って見せた。――真魔に相対する時は、心を揺らしてはならない。彼奴等は人の心の隙間に付け入り、その魂を奪い、辱め、玩弄するもの。だからこそラヴィリエはいつも通りの笑顔で、ごく自然、に見えるように喋りかけた。物腰は優雅に、ただし相手を対等に見てはならない。父に何度も繰り返し伝えられたことだ、一瞬でも隙を見せれば魔の思う壺。事実、怯えを見せぬラヴィリエに対し、その魔はつまらなそうに肩を竦めて見せた。
「成程、祓魔の端くれらしいが、最低限は出来るようだな」
「誉め言葉として受け取りますわ」
笑顔のまま、さり気なく太腿に手を伸ばす。その下に仕込んでいるのは、母から受け継いだ愛用の小剣。霊を切り裂ける魔銀製のそれは、たとえ真なる魔でもその体に傷を刻むことが出来る筈――
「融け堕ちろ」
不意に、それが意味の通じない言葉を吐いた瞬間。ラヴィリエの足元がぐずりと崩れた。
「ッ――!」
咄嗟に飛び退こうとしたが、遅い。この部屋の中は全て、この魔の操る鈍色の液体に取り込まれている。それは意志ある蛇のように立ち上り、姿を変え、ラヴィリエの下半身に絡みついてきた。
「凝り固まれ」
そして次の瞬間、それらは液体であったことが夢かのように硬直し、ラヴィリエの身体を拘束した。両腕も液体の蔦に絡みつかれ、高く掲げられたまま固まってしまった。まるで上半身だけを、壁に飾られた剥製のように。
全く動けない絶体絶命の状態にも関わらず、溜息を吐いて、どこか呆れたような口調でラヴィリエは続ける。
「まあ、趣味のお悪いこと。淑女の扱いがなってないのではなくて?」
「肝の据わり過ぎも可愛く無いぜ、お嬢さん」
にたり、と嗤った赤い唇から覗く乱杭歯が、まるでラヴィリエの大切なものを噛み千切ろうとするように動いた。
「他二人の方が、まだ甚振って楽しめそうだな」
「うふふふふ」
言葉を止めて、にこりと笑う。修行が足りないと反省するが、聞き流すことが出来なかった。魔も獲物が引っ掛かったことに気付いたのだろう、満足げに嗤っている。自分よりも他者を傷つけられる方が、苦しむ只人がいることを知っているのだろう。
「あの女共も、俺の水銀牢の中だ。俺の匙加減一つで如何とでもなるぞ?」
「随分と気が多いのね、好色家は淑女の敵よ?」
「好かれるも嫌われるも、興味がないな。俺が欲しいのは――美しい目玉だけだ」
そう言って、魔は無造作にラヴィリエへと近づき――ゆっくりと彼女の頬を撫でた。ざらりとした皮手袋で包まれた指は頤から頬の線を辿り、瞼の下まで辿り着き――ぐ、と力を込めた。其処で初めて魔は、うっとりと、恋焦がれるように山羊の金目を歪めて見せる。
「嗚呼――別嬪だ、最高だな。夜空の如き濃藍に、綺羅星の金が散っていやがる。数百年ぶりのお気に入りだ、誰にも渡さねぇ」
「あらあら、まあ」
痛みを訴える自分の顔を無視して、ラヴィリエはもう一度大袈裟に溜息を吐いた。どうやら本当に、自分は真魔とやらに目を付けられてしまったらしい。
真魔が執着するのは、自らの欲のみ。我欲で世界を侵し、満たし、しゃぶり尽くすのが魔の悦び。
かの魔女王は崩壊神を、鮮血斧は殺戮を、夜の淫魔は魅了した生物全てを。己が欲したものを、「牢」と呼ばれる己の作った巣の中に閉じ込めて愛で続けるのが真魔の性だという。それに対して生まれる人の嘆きや恐怖は歯牙にもかけられない――勿論そういう感情自体を愛でる真魔もいるかもしれないが。
そしてこの山羊目の魔は、ラヴィリエの父親譲りの濃い青と、母親譲りの金の光が混じった瞳が、どうにも気に入ってしまったようだ。全くもって、傍迷惑この上ない。
「この目を抉って、俺の水銀に浸せば、新しい宝石の出来上がりだ。普段使いにしようか、塒に飾るか――悩むところだな」
魔の顔は至極真剣で、本当に瞳を抉った後の使い方について悩んでいるらしい。勿論持ち主にとってはたまったものでは無いので、暴れて拘束から抜け出そうとはしてみるが、しっかりと固まった鈍色の水は全く動かない。それならばもう一つの武器、舌を動かすしかなかった。
「瞳を褒められるなんて、恋物語の常套句なのにちっとも嬉しくないのね。瞳だけを褒められているからかしら」
「少しは潤みを寄越せよ、その方が映える」
それだけ言うと、手袋を付けたままの手指が、めぎりと音を立てて変形する。各々の関節から黒い爪が伸び、ラヴィリエの頬を撫でていく。少しでもこの魔が力を籠めれば、皮膚は裂け、瞳を抉り出されるだろう。
しかしラヴィリエは微笑んだまま、その爪達が瞳に近づいてきても、決して目を逸らさない。その真っ直ぐな瞳に、やはり魔はつまらなそうな顔をした。
「これでも泣かないか。只人の女って奴は、甚振ってやればすぐに泣くものなんだがな」
「あらまあ、やっぱり女性への接し方がなっていないのね。純然たる経験不足だわ、もしかしてずっとこちらにお住まいだったのかしら?」
「俺が寝ているところに、勝手に家を作ったのは只人の方だろう。秩序神の結界まで張りやがって」
「うふふふ、流石ウィルトン先生の結界ね。私のような被害者を他に出させないよう、閉じ込めてしまったのでしょう」
寿命も無く病に侵されることも無い魔にとって、数百年眠り続けることは苦でも無い。つまり、元々この地域が魔の縄張りであり、それを知らぬまま人が砦を作り、今や学び舎となってしまったのだろう。秩序神の結界は中にいるものを排することは出来ず、多少の浄化の奇跡では真魔を滅することも出来ない。結果、この学び舎自体がこの魔の巣と化してしまっていたのだ、誰にも気づかれぬままに。
「……あらまあ、ではやはり私の瞳が魅力的すぎるせいで、貴方が数百年ぶりに目覚めてしまったからこそ、他の方が倒れたりしたということ? たとえ事実でも反省はしたくないわね」
「惚けた話もそろそろ飽きたな。仕方が無い、もう少し痛めつければ潤みは増すか」
これ以上は誤魔化されてくれないらしい魔の爪が、瞳に触れそうになるぐらい伸びてきても、ラヴィリエは瞼を下ろさず、山羊目の魔を見つめて言った。
「ところで、ヤズローに傷の一つでもつけてしまったのかしら?」
「――」
そこで初めて、魔は不愉快そうに眉を顰めた。先刻の失態を取り戻せる一矢であったことに、心の中だけで快哉する。
真魔が一番嫌がるのが、他の魔と獲物がかち合うことだ。同じものを愛でる為に奪い合うのならまだしも、自分には興味の無いものを壊した結果、それに執着する魔に恨まれてしまうのが一番拙い。
魔同士の争いはこの世で一番不毛だ、何せ互いに絶望を与えなければ相手を殺せないのに、殺し合っても絶望など渡すことも受けとることも出来ない。互いに興味が無いからだ。
魔が死ぬ時は、退屈と絶望に魂が満たされた時しかない。肉も霊も、いくら引き裂き焼かれても死ぬことは無い。故に大概の魔は、既に他の魔が唾を付けた獲物に手を出したがらないのだ。
「私も会ったことはまだ無いのだけれど、王都の絡新婦は随分とお強いらしいもの。一筋でも傷をつけたら、相当恨まれるのではないかしら――ッ」
ぶつ、と肉が裂ける嫌な音がした。引き攣れるような痛みと、其処から溢れる血が顎を伝っていく。山羊の魔はやはり、心底不愉快な顔で嗤っていた。
「ようく解っているじゃないか。だからあいつだけは、俺の牢から放り出した。助けなんて期待するだけ無駄だぜ」




