◆3-3
座学棟の確認を全て終え、四人は実技棟へと移った。こちらは、ダンスや剣術を行うホール、演奏室、絵画室、魔操実験室などがある。
「こっちにも六不思議ってあるのかイ?」
「絵画室に飾られた絵の目が光る、っていうのがあるわね。それ以上でもそれ以下でもない、ただ吃驚したって話だけど」
「それこそ与太話の類ですわね。魔がそのような悪戯をするとは思えませんし」
喋りながら、噂の絵画室へと入る。雪のせいで暗い部屋に明かりを翳すと、天井付近に飾られていた旧王族たちの肖像画の瞳が、一斉にぎらりと光って見えた。一瞬驚きで固まる三人娘に対し、ヤズローは冷静な瞳で睥睨し。
「……全ての絵画に、押し釘が刺さっていますね。丁度、目の部分に」
「ケッケッケッケ! なんだよそレ、脅かしやがっテ!」
「あらあらまあ、これはちょっと困った悪戯ね」
「備品を、しかも王族の肖像画を傷つけるとは酷い侮辱ではありませんか! 一刻も早く下手人を見つけて報告をしなければなりませんわ!」
怒りに震えるグラナートを宥めつつ、ヤズローが蜘蛛糸で器用に全ての釘を引き抜いて、証拠品として確保した。ウィルトンに報告して、学院内に周知すべきだろう。
「全く、やはりただの下らない噂に過ぎませんわね」
「そうね、今のところ紫花も体調が悪くなったりしていないし」
「アタシぁ炭鉱の小雀かイ」
本人は不満そうにぼやくが、瘴気に敏感な紫花が全く異変を感じていないのだから、やはり魔の気配は無いのだろう。結界の浄化も順調に終わっているし、異常は無い。ヤズローもそう理解しているのだが、どうしても警戒が消えない。これは最早勘としか言えない代物だが、何故か――凄く遠い場所から、見張られている感覚が抜けないのだ。
「これで四ツ、あと二つは何だイ?」
「どちらも今日は行けない場所なのよね。ひとつは裏山にあるという『鏡の池』の話、もう一つは――『男子寮の大蜘蛛』の話」
ラヴィリエがちろりと自分の従者を見上げるが、ヤズローはその視線を受け止めた上で逸らさない。それが何か? と言いたげに。
嘗ての旧時計塔事件の時に、ラヴィリエと揉めた辺境伯令息が寮で寝ている時、巨大な蜘蛛に髪の毛を毟り食われたという突拍子も無い噂が広まっていた。流石に今はただの与太話だと思われている――が。
「……ここ数十年デ、増えた奴ってこれじゃないのカ?」
「確率は高いですわね」
「うん、ええ、そうね。ねえヤズロー?」
「はい、お嬢様」
「深くは聞かないわ、聞かないけれど。以前噂が立っていた時に、確認を忘れていた私にも落ち度があるかもしれないわ。――いたずらに学内を騒がせるのは、あまりよろしくないわよね?」
「左様でございます。お嬢様にも日々、品の良き生徒としての振る舞いを心掛けていただきたいと愚考致します」
「ええ、ええ、その通りね。解っているなら良いのよ。……駄目だわ、今指摘してもずっと知らぬ存ぜぬを通されるわよ、ヤズローは頑固なのだから」
「自分の従者の手綱はしっかりと握りなさいな。間違いなく彼の使い魔の仕業では無くて?」
「あの辺境伯の息子の髪、毟り取ったのは清々したけどナ」
ひそひそと囁き合った後、まぁ今後またラヴィリエを傷つけるような輩が出てこない限りはこの噂は発生しないだろう、と鑑みたらしく三人娘は矛を収めた。
最後の資料棟も渡り廊下で繋がっており、外の金陽は大分陰ってきたが、この分ならば沈む前には終わるだろう。一番古い建物らしく、貴重品も多い為、殆どの部屋には入れない。廊下や階段に据えられている結界の要を一つ一つ確認し、古びた床の石畳を歩いていく。
「しっかし寒いナ、何処も彼処もこの隙間風はどうにかなんないのかヨ」
「建物自体は、西国との戦争当時に作られた砦が元だったのですって」
「四百年前の建物ならば、風も入るでしょう。補修もされていないのは問題でしょうけれど」
そんなことを言いながら、音を響かせる石畳の廊下を踏み――
ぱしゃん。
不意の水音と共に、足元に妙なぬめりを感じてラヴィリエは歩を止めた。
床を見下ろせば、其処は磨き上げられた鏡のように三人を映し込んでいる。石床では有り得ないまっさらな其処は、まるで湖面のようで――
「お嬢様ッ!」
ヤズローの鋭い声が飛び、僅かに逸れた意識を取り戻した時には、襟首を掴まれて後ろに引っ張られていた。抵抗はしない。自分の体をしっかりと抱き込んだ腕が冷たい金属で出来ていても、ラヴィリエにとってはこの世で一番信頼して、体を預けられる場所だ。
「ヤズロー、これは――」
「お下がりください!」
そのままぐいっと背に庇われる。グラナートも紫花も、その反応で異変に気付き、死角を無くすように三人で固まった。
ヤズローは油断なく、廊下に広がった鏡面のような鈍色の輝きを見つめている。
否、それは、ゆるゆると廊下に広がりながらこちらに近づいてくる、僅かに粘性を持った、金属のような輝きを放つ不気味な水だった。
まるで意志がある生物のように、隙間風に煽られるように漣を起こすそれは、床だけでなく壁を、窓を、天井までもをじわじわと覆っていき――
「お嬢様、お逃げください!」
弾かれたように三人は踵を返し、駆け出す。ヤズローは叫ぶと同時、己の使い魔である蜘蛛を閃かせ、ありったけの糸で、廊下を塞ぐように張り巡らせた。こちらを押し包む波のように向かってくる、多量の鈍色を受け止めるために。
「ヤズロー! 必ず戻りなさい!」
戸惑いは半瞬、命令は一言。ラヴィリエはそれだけ発して全力で駆け出した。このまま留まれば従者の努力が無駄になるという判断からだ。一瞬迷ったグラナートと紫花も、口を噤んで続く。
目の端を掠めたヤズローの姿は、細かい網の目を潜り抜けてきた鈍色の液体に絡みつかれ、体ごと全て飲み込まれた。僅かな時間稼ぎにしかならず、廊下を全力で駆ける三人の足元にも見る見るうちに薄く水が広がっていく。
「押し留めなさい! ――あっ!」
グラナートの護衛である霊達も呼び出されたが、あっという間に銀の波に浚われ、その姿を吹き散らされた。そして彼女の裾の長い外套はそも走るのに向かない。足に鈍色の水が絡みつき、その体をあっという間に飲み込んだ。
「グラニィ!」
「くッソ! ラビー、逃げ――」
紫花も羽衣を取り出し、空に浮かぶ風を呼ぶ前に追いつかれた。悲鳴を上げる暇も無く、粘性の水に飲み込まれていく。この中では一番足の速いラヴィリエの背にも、まるで金属のような光沢を持つ波が覆い被さり、
「――ああ、もう! 裏山に出るのでは無かったの、ずるいわ!」
流石の彼女も思わずそんな負け惜しみを叫んでしまい、その小さな体が飲み込まれた。




