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おずおずと切り出してきたその内容に、三人娘ははて、と視線を交わし。
「あらまあ? ウィルトン先生がきちんと、秩序神様の結界を張られているのでは?」
この学院は山間に建設され、守りに富んだ場所ではあるが、だからこそ鳥獣の被害や、冬の間に金陽の陰りが長いと瘴気が湧き、更に澱となって憑魔の類が生まれる可能性もある。以前の時計塔地下のようなことが、院内で起きないとも限らないのだ。それ故に、魔除けの結界を学園内外に張り巡らせるのはウィルトンの仕事の筈なのだが。
「つ、つい最近、町の神殿で、神官が一人引退したそうで、人手不足になっておりまして。微力ながら力添えをすべきと思ったのですが、定期的にそちらにも足を運べば、どうしても手が足りなくなってしまっております」
神官の代わりに魔操師が台頭したこの国で、神殿の経営はどこも厳しくなっている。経済的な理由で神殿を出て、別の職に就くのも決して珍しいことではなくなっているらしい。ウィルトンが神学の講師としてこの学院にいるのも、同じ理由なのだろう。
「それについて、学院に相談したところ、ふ、祓魔の家系の方が在籍しているのならばそちらに力を借りよ、とのことで……」
「エー、学院と神殿の皺寄せがこっちに来るのかヨ」
「紫花、口をお慎みなさいな。学院に籍を置き薫陶を受ける以上、奉仕活動であればお引き受け致しますが」
紫花の言い分はご尤もだが、学院が生徒に対し、貴族子息としての振る舞い――即ち「高貴なる者の義務」を掲げさせることは、学則として定められている。グラナートも不満は僅かに眉間の皺へ出しているが、それに逆らうつもりは無いらしい。しかし、ウィルトンは更に首を振って話を続けた。
「そ、そ、それと、もう一つ。更にお恥ずかしい話なのですが……つい先日、放課後に院内へ侵入した生徒が、瘴気に侵され、倒れているのが発見されたのです」
「あらあら、まあ。穏やかではありませんわね?」
――倒れた生徒達は命に別状なく、ウィルトンが浄化の奇跡を祈ることによってすぐに回復した。しかし彼ら自身は倒れた時の状況を全く覚えておらず、講師や警備兵が院内をくまなく調査したが、原因が解らなかったという。
「わ、私も、学院の結界を何度も調べ、綻びが無いことを確認しております。瘴気溜りも、目立つものはなく。――不徳を承知で申し上げます! 祓魔の家系に連なる皆様にも、調査をしていただきたいのです! も、も、勿論、それに見合った報酬は出させていただきます!」
生徒に対し深々と頭を下げるウィルトンに対し、三人はまた視線を交わし合う。お人好しの神官が、忙しい中に更なる面倒事を押し付けられているのが理解できたし、恐らく報酬も彼の懐から出るのであろうことは想像に難くない。学院側からは、先日旧時計塔の事件を解決したラヴィリエ達に対する信頼――もっと直截に言うのなら、その手の厄介事を押し付けられる者達、と判断されたのだろう。前回ラヴィリエの実家から働きかけて、学院から報酬を搾り取ったのも遠因かもしれない。
「マ、冬休暇中暇な時だったらいいヨ。金も稼げるんなら文句なしサ」
「わたくしには報酬は不要です、あくまで奉仕活動として従事致します。それはそれとして、神殿における神官の不足、および学院内の危機管理に対しては、抗議の書簡をフルゥスターリ家より出させていただきますわ」
「ほ、ほ、本当に申し訳ございません!」
「あらまあ、先生が頭を下げることはありませんわ。祓魔の家系として、私たちの力が認められたということでもあるもの! 喜んでお手伝いをいたしますわ!」
「お嬢様、安請け合いは程々になさってください」
「ワァ! いつの間ニ!?」
各々らしい答えを出した三人娘の後ろ、扉を開ける音も足音も聞こえなかった筈なのに、当然のように控えていたヤズローに紫花が声を上げ、グラナートも肩を跳ねさせた。正面に座っていたのに気づかなかったウィルトンが一番驚き、手に持っていた茶碗を危うくひっくり返しそうになって慌てている。そして当のラヴィリエは全く動じず、にこにこ笑いながら背を反らせて後ろを向き、従者を見上げた。
「あらヤズロー、お帰りなさい。手続きはもう済んだ?」
「はい、滞りなく。お嬢様、仕事として受領するのは構いませんが、まずは学生の本分を果たしてからになさってください」
「うふふふふ、勿論忘れてはいないわ、一瞬棚に上げただけよ!」
「すぐ手元に戻しなさいな!」
「ケッケッケ! 頑張りなヨ!」
「も、勿論学業に影響の出ない範囲で構いませんので……!」
好き勝手に騒ぐ彼らは、勿論そこまで緊張感を持っているわけでもない。ウィルトンの結界の実力はちゃんと理解しているし、そんな簡単に魔の災いが訪れるわけもないと、ごく自然に信じていた。それだけ、魔の被害というものは、この時世では珍しい話になったのだ。
先日の旧時計塔事件のようなことが、そうそう起こることは無いと、少なくともこの時点では誰もが思っていた。
×××
時間は少し遡る。
「……はい、残念ながらこの冬、お嬢様はお戻りになれません。私の力及ばず、大変申し訳ございません」
学内事務所の廊下の片隅で、片耳を銀の手で覆って小さく囁き続けるヤズローの口からは、極細の糸が伸びている。己の使い魔である蜘蛛を使い、事前に主の娘の状況を男爵家へと報告していたのだ。耳にカフスのように留まる蜘蛛の顎がきちきちと動き、鈴を転がすようなラヴィリエの母――奥方の声をヤズローへと伝えてきた。
『解りました。寂しいけれど、仕方が無いわね。ナーデルとドリスには、わたくしが伝えておくわ』
届く声はいつも通り、穏やかで優しい。呪殺師の癖に感情が激しい妹弟子と、主の娘を溺愛している魔女の師匠はそれは嘆くだろうが、かの奥方様ならば角を立てずに伝えることが出来るだろう。……彼女自身もきっと、酷く残念であろうに。
「この度の失態、面目次第もございません。勉学について、お嬢様のお役に立てず、恥じ入る次第です」
普段ラヴィリエには見せない悔恨の表情で、ヤズローは絞り出すように主の妻へ詫びた。
彼の生まれは王都の地下に嘗てあった旧市街のスラムで、読み書きが出来るようになったのはつい最近、主の娘に仕え補助を行うために必要な技術だったからだ。当然、専門的な学院の授業にはとてもついていけない。己の不足に後悔しか持てなかった。
『ヤズロー、貴方の真摯さと献身にはとても感謝しています。ですが、勉学が滞ったのはあの子自身の精進が足りなかったからでしょう。貴方が責任を感じ、気に病むことはありません』
「……はい。寛大なお言葉、感謝いたします」
礼を言いつつ自責から抜けられないヤズローの口惜しさもきちんと理解しているであろう奥方の、微笑む声が聞こえた。仕方のないこと、と言いたげに。
『そちらは王都よりも雪深くなるでしょう。どうかラヴィリエも貴方も、体調を崩さないようお気をつけなさい。こちらはまたドリスが来てくれるそうだから、心配は要りません』
「承知いたしました。お嬢様からお手紙をお送りいたしますので、今暫くお待ちくださいませ」
『ええ、楽しみにしているわ。有難う、ヤズロー』
通話が途切れ、ぷつりと糸が切れる。冷え切った廊下に人影は無く、石壁に寄り掛かったヤズローは珍しく、疲れたような溜息を吐いた。
心に思うのは悔恨しかない。主の妻に却って気を遣わせてしまったことも、――主の傍から、自分もラヴィリエも、此処まで長期間離れるのが初めてであることも。
ヤズローの絶対なる主、シアン・ドゥ・シャッス男爵は、王都の屋敷で決して安らかではない眠りについている。嘗て旧王都が崩壊し、放棄された大事件の中、邪神の力を抑え込んで被害を最小限に抑えたかの方は、その代償として、呪いを受けてしまった。
今や、彼の身体は痩せ細り、生きることも死ぬことも無くただ眠り続けている。そして同時にその細い命が、永遠に続く保証など何処にもない。今日にも、明日にも、神の気紛れが終われば、意識も戻らないまま儚くなってしまう可能性も――
「ッ……糞!」
がつん、と音を立てて、ヤズローは自分の額を殴りつけた。銀の具足を纏ったままなので、当然凄まじい衝撃が走るが、おかげで埒も無い思考を止めることが出来た。
「馬鹿らしいこと、考えるんじゃねぇよ……お嬢様に失礼だ」
絞り出すように、誰にも聞こえないように、普段は戒めている荒い言葉で囁く。ラヴィリエには聞こえない場所で言った為、師匠にかけられた虹色蜥蜴の呪いは発動しないようだった。
主の娘自身も、父に降りかかるであろう残酷な運命を恐れているにも関わらず、其処に囚われず、呪いを解く方法を模索し続けている。例え、高名な神官達にも匙を投げられた、どうしようもない定めだと解っていても、諦めずに真剣に求め続ける彼女の姿に、自分も、主の妻も、どれだけ救われていることか。
ふーっと長く息を吐き、優秀な従者の仮面を被る。このような情けない姿を主の娘に見せるわけにはいかない。離れる際に付けておいたもう一匹の蜘蛛により、実技棟の方に彼女が向かっていることは気づいている。急ぎ傍に戻ろうと、踵を返し――
ぴちょん。
静まり返った寒々しい廊下に、水音が聞こえた気がして、ヤズローは振り向く。勿論、雪がちらつくほど寒い日々だ、雨漏りなどは起こるまいに。
曖昧なものを見極める紫水晶の義眼で辺りを見回しても、異変は無い。気のせい、でしかない、のだけれど。
「――……」
僅かな不審を振り切り、ヤズローは改めて歩を進めた。異変があるのならば、主の娘と合流するのが最優先なことに違いは無いのだから。




