◆1-2
ヤズローが寮の扉を開けると、ふわりと温かさが頬を擽るのが有難い。中では友人の従者である半透明の者達――即ち幽霊が足を見せぬまま動き回り、掃除をしているようだ。ラヴィリエも身を震わせながら荷物を従者に預け、広間から二階へ繋がる階段の後ろに回り、其処に据えられている暖炉を目指す。
「やっぱり二人とも此処にいたのね。グラニィ、紫花、雪が降ってきたわよ!」
覗き込んだ暖炉の前には毛足の長い絨毯が敷かれ、床に座る為のクッションが沢山並んでいた。どちらもビェールィ国の侯爵令嬢、グラナートの寄贈品である。
「遅いぐらいですわ。母国ならば、もう積もっている頃合いですのに」
雪ではしゃぐ友人に呆れた顔を向けた、枯草色の髪を綺麗に結い上げた侯爵令嬢――グラナートはクッションの上に優雅に腰をかけたまま、つんと澄ました声を返す。ネージより更に北に位置する雪氷の国で生まれ育った彼女にとって、この程度は寒さの内に入らないのだろう。室内用の衣服にもいつも通り隙は無く、暖炉から一番遠いクッションの上に悠々と腰を下していた。
女子寮は寮というには狭い一家屋であるし、立派な暖炉は建物全体に熱を伝える位置にはあるけれど、それでも暖炉の無い部屋は寒い。秋が過ぎて冷えるようになってからは玄関ホールのテーブル席ではなく、この暖炉の傍に三人とも集まるのが通例になっていた。
「二人とモ、なんでそんなに元気なんだヨ……」
最後の一人、紫花はグラナートと対照的に、暖炉にへばりつく勢いで火の真ん前に陣取って震えている。南方国人らしい艶のある黒髪が乱れるのも構わず、綿入の上掛けを頭から被り、両手足の先を火に翳していた。
「紫花、貴女には辛いことを言うけれど、まだまだ冬の入り口よ。あと二巡りもすればもっと冷え込むわ」
「嘘だロ……流石、慈悲無き氷竜様だネ……」
震える声でぼやきながら、紫花は自分の懐から細い竹簡を取りし、ぱきりと二つに折ってから暖炉に放り込む。小さな焚き付けにも関わらず、暖炉はぼうっと火の勢いを増した。それでも、彼女の顔色は随分と青白いので、本当に寒くて仕方ないようだ。
「情けないですわね。……南方の大陸には雪が降らないと伝え聞いた時は、まさかと思いましたけれど」
「ンー、山の上とかには降るヨ……たまにだけド……」
普段の皮肉気な舌鋒も弱く、本当に辛そうに震え声を絞り出しているので、いつもやり合っているグラナートも流石に心配になったようだ。骨で編んだ扇を振り、姿を現した幽霊の従者達に命を下す。
「今日のお茶には蜂蜜と生姜をお入れなさい。準備を」
「まぁ、良いわね! 生姜の入ったお茶はお腹から温まるわ。この寒さも少しは耐えられる筈よ」
ラヴィリエも外で冷えてきた手足を温める為、暖炉の前に陣取りつつも紫花を励ます。火に翳されていた筈の彼女の手指を自分の小さな手で揉みながら包むと、ひやりとした温度を伝えてきた。
「あらまあ! 本当に氷のようだわ。これは辛いでしょう」
「うワ……今外から来たのに、何でこんなに手あったかいんだイ。暫く握ってておくれヨ」
「任せておいて、私は子供の頃から体温が高いと、皆に太鼓判を押されているのよ! 小さな頃はメイド長が『お嬢様は麺麭作りの達人の手をしております』と褒めてくれたわ!」
「……お待ちなさい、令嬢が自ら台所で麺麭作りを?」
そんな下らない事を話しつつ、ラヴィリエの体温がすっかり紫花の手に移った頃、白装束の霊達が茶器を台所から運んできた。その後ろには、菓子の皿を抱えた銀の具足の従者が続く。
「お待たせいたしました、お嬢様。今日のお茶請けはバタークッキーです」
「まぁ、ありがとうヤズロー! 生姜のお茶にも合うわ、貴方の気遣いは今日も最高ね!」
「恐縮です」
無表情で主の娘の称賛を受け止めたヤズローは、三人の前に粛々と茶菓子をサーブした。
×××
蜂蜜と生姜をたっぷり入れた茶を三人で一杯ずつ飲み干し、落ち着いたところで教科書と手持ちの黒板、手習い用の羊皮紙を暖炉の前に広げた。そもそも今日の茶会は、勉強会も兼ねているのだ。
「ネージ史の範囲は、三国統一までで良いのよね?」
「だネ。あーア、ネージ語の試験も北方共通語で書ければ楽なのにナ」
「それでは試験の意味が無いでしょう。文字は殆ど変わらないのだから精進なさいな」
「尚更、なんで綴りが変わるんだってのガ、ー杯あるんだヨ」
「解るわ……どうしてこの発音なのにこの文字が入るの、が沢山あるわよね……」
「母語者でもそうなるんなら仕方ないネ」
「諦めるのではありませんわよ」
埒もない会話を交わしながらも、布を巻いた墨棒で羊皮紙へ、講義内容を纏めて綴っていく。紫花も茶とラヴィリエのおかげで大分指が動きやすくなったようだが、それでも暖炉の火が少しでも弱くなると、また懐から竹簡を折って放る。
「紫花、それは何なの? 薪を足さなくても随分火が大きくなるわね」
「これかイ? 小遣い稼ぎに作ったんだヨ、火竜様の護符サ」
集中力が切れてきたラヴィリエが食いつき、グラナートは咎める目線を向けるが、興味はあったらしく紫花が差し出した竹簡に視線を移す。竹を細く割って作ったのだろう札に、水で溶かした墨で何やら模様のような文字が書いてある。それを真ん中からぱきりと折って少し待つと、竹自体がぼうっと燃え始めた。二人が驚く前に、紫花が素早く暖炉へそれを放る。
「すぐ火を起こしたい時とかに便利だヨ。効果は一瞬だシ、他に火種が無いと消えちまうけどネ。お貴族様の連れてる使用人にはよく売れるのサ」
「凄いわ紫花! これがあれば火打石も要らないのね!」
「……火の力を木片に込めるなんて。貴女、もしかして凄く腕の良い魔女ではありませんの?」
「こんなの只の手妻だヨ、国なら割と誰でも作れるシ。マ、金になるのは有難いけどナ」
遠い南方の国から海を越えて留学してきて、親からの仕送りも碌に無いと紫花は自分の口で言っていた。貧乏な下級貴族やその使用人が、写本や院内の清掃などで日銭を稼ぐことは学院では黙認されている。紫花もその一環で、学院内で商売紛いのことを行っても目零されているのだろう。
金子は僅かだが、何やかんやと実家から送って貰っているラヴィリエは尊敬の眼差しを向けているし、貴族子女として申し分ない寄付を、実家から自分だけでなく学院宛にも送られているグラナートは少し気まずそうに眉を顰める。紫花自身は気にした風もなくケッケッケ、といつも通りに笑っているが。
「しかし薪についちゃあ買わずに済んで助かってるヨ。これで自腹切るなら死んでたナ」
「冬の薪不足は命にかかわるものね、学院が負担してくれて良かったわ。そういえば、冬休暇は二人とも寮で過ごすのかしら?」
ラヴィリエが不意に話題を変えると、グラナートも扇を口元に翳して頷く。
「ビェールィの国境は既に雪で閉ざされておりますもの。我が家が誇る首無し馬車も、流石に雪の岳山を超えることは叶いません」
「ひエ、おっかないナァ。当然アタシも帰んないヨ、金も帰る気も無いシ」
当然のことと告げられた此処よりも寒い国の現実に、怯えたように身を震わせる紫花もあっさりと答えた。長い休暇には寮を出て実家に帰る生徒が多いが、彼女達のように戻れない、或いは戻らない生徒も居るので、学院には常に講師達が常駐し、施設なども休みは増えるが開放されたままである。
「じゃあ帰る予定なのは私だけね。寂しいけれど、お土産を沢山持って戻ってくるわ!」
「お嬢様、その為にも勉学は怠りませんよう具申致します」
本気で寂しいのも確かではあろうが、久々に帰省できる喜びを隠さない主の娘に、ぴしゃりとヤズローが冷や水をかける。いつも通り笑みを絶やさないが、珍しくラヴィリエはすいっと従者から視線を逸らした。解りやすい反応に、紫花がにやりと薄い唇を緩める。
「期末の試験、不可になった奴は休み中、補講があるんだっケ」
「可は十の設問中五を正解すれば得られる、と伺いましたわ。講義を受けて、理解をしていれば問題なく取れるでしょう……ですわよね?」
きりりと眦を釣上げるグラナートの視線からもすいっと逃げつつ、ラヴィリエは自信を持った態度のまま、薄い胸を張った。
「任せて頂戴! 幸福な休暇の為に、私は全力を尽くすわ!」




