◆1-1 素っ頓狂な娘、冬試験に挑む
「――つ、つまり、一口に『魔』といえど、それは我々がまとめて呼ばわっているだけに過ぎません。その存在位階により、大きく二つに分けられます」
神学の講義はいつも通り、ウィルトンにより粛々と行われていた。真面目に受けている生徒は少ない講義ではあるが、試験内容が簡単だという噂が新入生にも広がり、教室の席は八割ほど埋まっている。
「一つは、人や獣、蟲や草木に瘴気や澱が取り憑いて、魔と化したもの。皆さんも、一度ぐらいは見たことがあるでしょう。取り憑かれた元のものによって危険には差がありますが、冷静に対処すれば、悪戯に恐れるものでもありません。まずは距離を取り、瘴気の溜まりから離れ、神殿に連絡をしてください」
かりり、と白墨で黒板をなぞり、神紋語で「憑魔」と書いた下に、「真魔」と続けた。
「もう一つが、遥か昔――始原神イヴヌス様が、崩壊神アルードを原初の混沌よりお作りになった際、零れ落ちた雫が形を成したもの。崩壊神の妻、魔女王を初めとして、御伽噺に出てくる魔は全て真魔だと思われます」
邪神と契り、更に三体の邪神を産み落とした魔女王ヴァラティープ。
巨人の国を滅ぼしたと言われる、獅子の引く戦車に乗った鮮血斧ルチェアト。
人も魔も問わず虜にする、南大陸を支配した夜の淫魔アクイレギア。
全ては遠い物語の中で語られるものであり、学生達にとっては歴史に刻まれた眉唾物の名に過ぎない。その興味は、試験に出るかどうかだけだ。当然、質問を待つウィルトンの期待と裏腹に生徒達に反応は無く――
「はい、先生!」
沈黙の中、ぱっと挙手をしたのは、最前列に座っている、にこにこ笑った銀髪の少女――ラヴィリエだった。試験が近いせいか、単純に今日の講義は興味のある内容だったのか、珍しく居眠りせずに質問してきたことをウィルトンは密かに喜び、そっと手を差し伸べた。
「は、はい、シアン・ドゥ・シャッス男爵令嬢」
「この学院にある六不思議に、魔が関わっている可能性はあるでしょうか? 是非先生の見解をお伺いしたいのです!」
またあの女生徒が突拍子も無いことを聞き出したぞ、と周りの生徒達がうんざりした顔をする。冬休暇前の学期試験が近いのに、講義の内容とまるで関わりの無い質問だ、と殆どの者が思ったのだが、ウィルトンは真剣に考えこみ、答えを返した。
「……そう、ですね。どれも噂話の域を出ないものではありますが、可能性は無くは無いかと、思われます。
大階段にある初代学長の銅像が動いたり、実技棟の絵画室に飾られた絵の目が光るというのは、瘴気による物質の変質である可能性があるでしょう。講義棟端の御不浄に出る覗きの幽霊や、旧時計塔の幽霊の噂、男子寮に出た巨大な蜘蛛の話――皆様も耳にしたことはあるでしょうし、実際瘴気による事件も起こりました。決して、眉唾物では無いという事を、改めて皆様にお伝えいたします」
いつになく吃らず、真剣に語るウィルトンの言葉に、思わず生徒達は居住まいを正した。男子寮の大蜘蛛は実際に見たと騒ぐ者達もいたし、何より今やこの学院から去ってしまった辺境伯子息が髪を食い千切られたという噂が実しやかに囁かれたし、旧時計塔で起きた瘴気の事件を解決したのは、質問をした祓魔の家系の息女だ。祓魔など殆どがまやかし使いの詐欺師だ、と一笑に伏したいところだけれど、いざそれが身近になれば力を借りざるを得ない。
どうにも複雑な視線を集めるラヴィリエは、少しだけ眉を寄せて指折り数え、ふとと首を傾げた。
「あらまあ? これで五つ、残りの一つはどういうものなのでしょう?」
「裏山にあるとされる鏡の沼ですね。これは流石に、迂闊に山に入ると危険であるという戒めのお話でしょうし、本当にあったとしても我々が感知できるものではありませんから――」
少し微笑んで続けようとしたウィルトンの声が、響く鐘の音に遮られた。講義が終了する時間の知らせだ。
「あ、ああ、申し訳ありません、試験範囲まで終わりませんでした。次の講義には必ず。皆さん、お疲れ様でした」
慌ててぺこぺこと頭を下げるウィルトンに、やれやれと生徒達が立ち上がる。教室の隅に控えていた従者達が主の傍へ寄り、時代錯誤な銀の具足を纏ったヤズローも、いつも通り不機嫌そうな顔のまま、主の娘の横へ立った。
「お嬢様、己の好奇心に負けて授業を妨害するのはお止めください」
相変わらず主に向けるとは思えない容赦のない文言だが、当然ラヴィリエに響いた様子は無い。ウィルトンがおろおろと取り成す前に、濃い青の中に金の煌めきを湛えた瞳をぱちん、と片目だけ瞬かせて見せた。
「あらまあ、貴方も興味があったのではない? お父様がこの学院に在籍している時、ご友人達と一緒に不思議を調査したと、楽しく語っていらっしゃったもの」
父から寝物語に聞いた話の詳細が知りたかったのよ、と微笑む主の娘に対し、ヤズローは眉を顰めたまま、自分より頭一つ背の低い少女を睨み下ろした。従者として有り得ない様に他の生徒の方が怯えるが、ラヴィリエは気にした風もない。彼が言葉を噤む時は大概図星なのだ――嘗て父の踏んだ足跡を、彼も見たいと、ラヴィリエがこの学院に入る前から望んでいたことを知っているので。
「グラニィや紫花も誘って、冬休暇に私も六不思議を調べてみようかしら! 本当に瘴気や魔の影響ならば、私の手管がお役に立てるかもしれないし」
「し、シアン・ドゥ・シャッス男爵令嬢、危険なことはなさらないよう、僭越ながらお願い申し上げます。本来ならば、以前の事件も、私が努めねばならないものでしたし」
上擦った声で割って入ってきたウィルトンだったが、その顔は心配一色だ。奇矯な令嬢であろうと、その家系が祓魔であろうと、生徒である彼女を守る義務があるとその視線が語っている。この学院の講師として、また神官として譲れないところなのだろう。
「あらまあ、ご心労をおかけして申し訳ございません。安心なさってくださいな、いざという時はウィルトン先生もお誘いいたしますので!」
「お嬢様、犠牲者を増やさないでください」
対するラヴィリエは全然響いた様子が無く、寧ろ目付け役を求めるように仰々しく手を差し伸べたが、ヤズローが素早く叩き落とした。尚もウィルトンは如何にか言葉を紡ごうとしたが、講義室を覗いた別の講師に遮られる。
「ウィルトン殿、昨日の件で」
そう声をかけられ、はっと息を飲んだウィルトンは、ぺこぺことまた頭を下げて慌てて廊下に出て行った。深刻な顔を隠さずに。主従もそれを見送ってから、講義室を出て玄関へと向かう。
「……何かあったのかしらね?」
「先日、放課後に学院内へ侵入した生徒が二人、倒れて発見されたそうです」
「あらまあ、事件ではないの。先生が駆り出されるということは、本当に魔が関わっているのかしら」
「原因は不明ですし、結界の確認でしょう。お嬢様も、一貨も稼げないものに首を突っ込むのはお止めください。男爵家の家系は常に火の車です」
「世知辛いわね、それなら尚更私も働かなければならないじゃない!」
「それを免罪符に、勉学を疎かにするのは最もやってはいけない事です」
ぴしゃりと言い放つ従者にちょっと唇を尖らせるが、その貧乏男爵家にも関わらず学費を出して貰っているのは事実なので、流石に言い返せない。黙らせたことに勝利を感じたらしいヤズローが軽く顎を引き、ラヴィリエがちょっと頬っぺたを膨れさせながら正面玄関を潜ると、その肌にひたり、と冷たさが当たって驚く。
空を仰げば、冬に近づく薄曇りの空から雨ではない、柔らかな氷粒が降ってきていた。
「あらまあ! もう初雪なのね、今年は早いわ」
「お風邪を召されぬよう、急ぎ戻りましょう」
「ええ、そうね。氷竜の翼はどんどん早くなるというもの」
大陸では北方に位置するネージ国の冬は早い。山の上にある、シャラトならば尚のことだろう。似た者主従は速足で木々の合間の小道を抜けて、敷地の一番端に建っている女子寮へと帰り着いた。




