閑話:蜘蛛と山羊の謀
シャラトから南へ向かう街道を下り、三日ほど経ればネージ国の王都がある。
二十数年前の地震で嘗ての街並みは城と共に崩れ、今は旧市街と呼ばれている。現在の中心街は、その旧市街を囲むように作られた復興の証だ。整然と通る道路、地震に負けぬよう煉瓦から混凝土に変わった建物も多い。
しかし旧市街の底の底、遥か昔に作られた、寒さから逃れるための巨大な地下街は、未だ息づいていた。地上の者達の侵入を拒む、暗黒街として。
「――何か申し開きはあるかしら?」
様々な事情で地上では生きていけず、地下で生まれた女達が春をひさいで暮らす街――『蜘蛛』。それを統べる女は、今や滅多に人前に姿を現さず、しかしこの町の全てを知っている。まるで蜘蛛の巣の如く、地下に糸を張っているかのように。
誰にも侵されぬ闇洞の中、その女は自分の寝床の上に座っていた。上半身は美しい女の人型に見えるが、頬に並んだ三つずつの黒い宝石も目玉であり、その下半身は艶やかな毛並みを纏った巨大な八本足の大蜘蛛だ。闇夜に融けるような美しい黒絹の髪は部屋全体に広がり、伸ばされて、――客人を縛り上げていた。
「悪かったって。俺の目的はあの目玉だ、あんたの子供に手を出す気は無かったよ」
その髪に絡め取られている男の、金色の瞳が闇に光る。瞳孔が横に伸びた山羊の瞳。体中を黒髪に戒められ、吊り下げられているというのに、その声から余裕は消えていない。
魔同士の諍いなど、不毛なる戯れと同じ。互いの心を折らなければ致命傷を永遠に与えられない相手など、愛しても憎んでも仕方が無い、というのが魔の考え方だ。故に魔が争うのは、獲物がかち合った時だけ。今回は事故だ、というのが山羊の魔の言い分だった。捩じれた角の生えた頭を大げさに振り、尚も言い募る。
「約定を結ぼうぜ、蜘蛛女。あの男には一切手出しはしない。だから、俺にあの目玉を手に入れさせろ」
ラヴィリエのことを瞳の台座としか思っていない魔の言葉に、くふくふと笑う女の声が重なった。機嫌は悪いが、山羊の話を聞く気にはなったらしい。何せ、彼女にとってもシアン・ドゥ・シャッス男爵家は、邪魔者だ。
「ふ、ふ、ふ。私の利は?」
「あの女が消えれば、あいつの心ぐらい簡単に折れるだろう? 後はあの面倒な四肢をもぎ取って、好きに貪り喰らえばいい」
「それは駄目よ。あの子の一番は、あの娘ではないもの」
「へえ?」
じゃあ何でまた、あんなに突っかかって来るんだと山羊は不満げに漏らす。其処が良いのだと言いたげに、蜘蛛は笑った。
「でも、そう、そうね。邪魔なものが消えるのは、悪く無いわ。……いずれあの娘が家を継いで、そして子孫を残さず死ねば、シアン・ドゥ・シャッス家は無くなる。私の約定も消える」
蜘蛛にとって欲しいのは、かの男爵家に仕える従者。かつて彼女の街に生まれたにも関わらず、見失い、その命を取り零しかけた故に、あの男爵家に取られてしまった。どれだけ嘆き願っても、取り戻すことを許されなかった。
その気になればこの町に住まう人全てを、喰らい尽くしてしまえるぐらいの力を持つ魔である彼女が、この地下で大人しくしているのは、嘗て男爵家の開祖に命を啄まれかけたから。その際、「家が続く限り人を襲うな」という約定を結ばされてしまったのだ。
不覚ではあったが、魔は一度結んだ約定を破ることは出来ない。それは、己の決めたことが間違いであったという自戒が、己の魂を否定してしまうから。だからこそ、そうならぬように約定を破棄する手段があれば、決して逃さない。魔はそのように生まれ出でたものだからだ。
「なら、決まりだ。あんたの縄張りで、自由に動ける権利をくれ」
「ふふふ、いいでしょう。貴方の動きについて、私は一切関知しない。私の子供を傷つけないのならば、お好きになさいな」
するすると黒髪が解けていく。地を踏んだ山羊は大仰な舞台役者のような仕草で礼をして、厳かに告げた。
「決まりだ。――魔女王ヴァラティープの涙に誓う」
「魂と魂が繋ぐ、約定を此処に」
誓うは、魔同士で結ばれる約定。互いの利害が一致し、互いの領域を侵さないための宣誓だ。
「我が名はヒュドラルギュルム」
山羊の男が名を告げる。
「我が名はレイユァラネア」
蜘蛛の女が名を告げる。
「この契り破れし時は、暴虐の牙で霊を引き裂き」
「病の毒で魂を汚し」
「死の馬車の迎えも無く滅び潰えよう」
「「全ての終わり、崩壊神アルードと共に!」」
全てを混沌に帰す神へ、破った際には己の存在を捧げ全てを滅することを誓い、此処に約定は完了した。




