エピローグ
「――ご足労感謝します。師匠にはこちらを」
主の娘が書いた手紙の束を、ヤズローは白梟の足に括って離す。師匠の使い魔であるその鳥は振り向くことなく、珍しく晴れた冬の空へと飛び去って行った。託された布袋を抱え上げ、勝手口から寮へと戻る。
袋の中に入っていたのは、季節外れにも関わらず瑞々しい赤林檎だ。師匠が冬に負けぬ枝を選んで魔女術を施し、家の中で育てたので小粒だが、味は申し分ないことをヤズローも良く知っている。
手早くナイフで艶のある皮を剥いて刻み、鍋に放り込むと貴重な砂糖を今日は大盤振る舞いで入れて煮込んだ。焦がさないように気を付けつつ、ちゃんと火の通った林檎を火から下ろした後に、バターを練り込んだ生地を伸ばして畳むのを繰り返していると、甘い匂いに気付いた主の娘が、暖炉傍のドアを開けて台所を覗き込んできた。
「凄く香しい匂いが漂っているわね、ヤズロー! これは林檎ね、砂糖で煮ているのね!」
「流石お嬢様、鼻が利きますね。師匠からのおすそ分けです、パイが完成するまで大人しくお待ちください」
「勿論よ! 楽しみすぎて唾が溢れそうだわ!」
跳び上がって喜ぶ主の娘に溜息を吐くと、扉の向こうから彼女の友人達の声が聞こえた。
「お止めなさいな、はしたない。……こんなに冬深くなっても林檎が手に入りますの?」
「出所は何でもいいヤ、ご相伴に預かれるんならネ」
口々に姦しくしながら暖炉の前に戻る三人は、確か今日も休み明けに備えた勉強会の筈だったが、恐らく主の娘の集中力が真っ先に切れたのだろう。しかし厄介な魔に絡まれてからも、生活に影を落とすことなく振る舞っている少女達に安堵の息を吐き、ヤズローはパイ生地の作成に戻った。
皿一杯に敷き詰めた生地に粗熱を取った林檎の砂糖煮を流し、網目に作った生地で蓋をして、温めた竈へ入れる。この作り方も師匠直伝だ。
『――貴方も覚えておきなさい。私もいつまで作れるか、解らないものですから』
昔は台所仕事など碌に出来なかったヤズローに、師匠の魔女はそう言って徹底的に仕込んだ。正直祓魔の訓練よりも面倒だったが、今こうやって役に立っているのだから否は言えない。今も矍鑠とはしているが、師匠自身も男爵家のメイド頭としては引退しているのだから。
竈の隙間から焼き加減を確認して、銀細工の腕で天板を取り出す。この腕のお陰でミトンは必要ないのも、まあ便利ではある。切り分けようと立ち上がり振り向くと、またドアの隙間から銀髪の頭が覗いていた。
「お嬢様、大人しくお待ちくださいと申し上げた筈ですが」
「もうそろそろという期待が私を動かしてしまうのよ! きちんと大人しく黙っていたわ!」
「それが限界であることは承知しております。限界を超えてください」
「流石ヤズロー、容赦が無いわね!」
「恐縮です」
ヤズローは手早く丸いパイを八つに切り分ける。用意した三つの皿の内、一つにだけ二切れ乗せて、うきうきと歩く主の娘と共に暖炉前へと向かった。
「さあさあ、おやつの時間よ! グラニィも少し休憩しましょう?」
「全く、休むとなればすぐに元気になるのですから……紫花、貴女も起きなさいな! だらしのない」
「寒いんだヨォ。ここで春まで寝かせておくレ」
勉強道具を渋々片付けるグラナートと、暖炉の前に綿入れを被って寝転がったままの紫花がいた。相変わらずの娘達に表情を動かさず、ラグの上に茶の支度と林檎パイの皿を並べ終えた。するとラヴィリエが二切れのパイの前にすとんと座り、フォークでまるごと一切れを掬い上げて、ヤズローの前に差し出す。
「これはヤズローの分よ、貴方だってこのパイは大好物でしょう?」
「いえ、私は――」
「貴方も大変だったのだもの、今日は全員の慰労会よ! 遠慮なく食べなさいな」
「……、有難く、頂戴いたします」
ほんの少し眉をしかめたヤズローだったが、差し出された甘味を拒否はせず、頭を下げて掌で受け取った。無作法は承知の上で、無造作にかぶりつく。甘酸っぱいフィリングとさくりとした生地の感触に、思わず目を細めてしまった。
「さあさあ、二人とも食べましょう! ヤズローの作るパイは本当に美味しいのだから!」
言いながらすぐさま自分でもパイを半分以上フォークで切り取り口に入れ、本当に嬉しそうに微笑むラヴィリエに釣られたのか、二人もフォークを手に取った。
「ン、確かに美味いネ。派ってもっト、パサパサしてるモンだと思ってたけド」
「生地にバターをふんだんに使っているのでしょうね。悪くありませんわ」
南方人や侯爵令嬢の口にも合ったらしく、誇らしさを胸に隠して自分の分のパイを全部口に入れた所で、ノッカーの音がした。ヤズローが立ち上がると同時、グラナートの従者たちがすぐさま玄関へと向かう。
「ご、ご、ごめんください。失礼致します、皆様怪我の具合は、如何ですか?」
「あらまあ、丁度良い時間の訪れだわ、ウィルトン先生! 今正に、ヤズロー特製の林檎のパイが食べられるわよ!」
「い、い、いえ! 皆様の具合を見たら、すぐ帰りますので!」
ラヴィリエの頬にはもう傷痕は残っていないし、紫花の凍傷もかなり回復していた。それは全て、この神官が時間を作っては通い、癒しの奇跡を使って治療した結果だ。瘴気祓いや新しい結界の張り直しも彼の仕事なので、ここ数日は目にも止まらぬ忙しさだったらしい。
「もう、大げさですわ。これぐらい名誉の負傷ですのに」
「いいえ、本来ならば、貴女が負う必要の無かった怪我です。どうか、治させてください」
「あらまあ。先生、そこまで気に病まないでくださいな」
彼の多忙さを解っているので、あくまで明るく自分の頬に手を当てて微笑むラヴィリエに、真剣な表情で珍しく吃らずウィルトンが返す。この学院の講師として、また神官として、彼女達が危険な目に遭ったのは自分のせいであると責任を感じているのだろう。気持ちはよく解るので、ヤズローは炊事場に戻って素早くお茶とパイの新しい皿を準備し、彼の元へと運んだ。
×××
「――良かった。もう大分こちらも良くなったようですね」
安堵したウィルトンの声に口端を上げて、紫花は身支度を整えた。晒していた肩から腕が冷えたので、綿入れを被ってほっと息を吐く。名もなき氷竜によって刻まれた凍傷の痕も、殆ど薄く解らなくなっていた。
「神様の奇跡って凄いんだナ。もう充分だヨ」
「何を言うのです、痕が全部消えるまできちんと治していただきなさい」
「ええ、お任せください」
紫花としては本気だったのだが、ウィルトンよりも先にグラナートに怒られた。子女が体に傷を残すなど以ての外、というつもりなのだろう。紫花としては貴族の淑女ではあるまいしそこまで気にしなくても、とは思うのだが許してくれなさそうなので大人しく口を噤む。
「そうよ紫花、折角無料でウィルトン先生に診ていただけるのだからきちんと治しましょう! ほうら、私の頬っぺたもこの通り、真っ新のつやつやになったわ!」
「うんうン、良かったネ」
寧ろ、嬉しそうにずいと自分の頬を差し出してくるラヴィリエの方が重傷だった筈だ。貴族の子女なら尚更、顔の傷は死活問題だっただろう。こちらもウィルトンが気を遣ったらしく、その傷口はもう一切解らなくなっている。紫花も安堵しつつ、銀髪の頭を撫でてやったところで、ラヴィリエ用のパイのお代わりを持ってきたヤズローが、僅かに眉を寄せて言う。
「お嬢様、今後は一層の警戒をなさってください。一度魔に目を付けられた以上、あれが滅するまで付きまとわれることになります」
「実感の籠った忠告、感謝するわヤズロー! 退けるにはどうすれば良いのかしらね、貴方のように約定を結べば良いのかしら?」
「そちらもお勧めしません。結局、面倒なのは同じですから」
「エ、アンタ魔と約定なんて結んでんのかイ」
魔はその在り方故に、己を偽る嘘を吐かず――勿論本当の事を言わない場合はある――、結んだ約定を決して違えない、という習性がある。破ったが最後、嘗ての己を否定することになるので、あっという間に力が弱まってしまうのだ。それ故、祓魔の一族の中には約定を使い、魔を従えることも無くは無いのだが、危険なことに変わりはない。ウィルトンも目を剥いているし、グラナートも不審げに眉を寄せた。
「その蜘蛛、使い魔としてはかなりの力を持っていると思っておりましたが、やはり魔の類でしたの?」
全員の視線を受けて、珍しく居心地が悪そうな顔をしたヤズローが自分の耳朶を弄る。其処に留まっている銀色の蜘蛛型カフスは、確かに元は絡新婦の分身であり、現在も監視の目とはなっているが、ヤズローの意に背いて動くことはもう無い。それはそれで、自分の力が蜘蛛由来になってしまっているのはぞっとしないが、使えるものは何でも使うのがシアン・ドゥ・シャッス男爵家の家訓だ。
「これは、既に私の使い魔となっておりますのでご心配なく。決してお嬢様達にご迷惑はおかけいたしません。寧ろ私が居た方が魔同士の牽制に使えるでしょう、お嬢様の為にも」
酷く不本意ではあるが、これも同じ。実際、彼がかの絡新婦と結んだ約定は、自分が死んだら自分の体を好きにさせる代わりに、死ぬまでは手を出すなという物凄く雑な代物だった。我ながら未熟なやり方だと解っているから詳しく説明したく無い。幸い、今危険なのはラヴィリエの方であると理解できたのだろうウィルトンが乗ってくれた。
「……確かに、あの山羊目の魔はまたシアン・ドゥ・シャッス男爵令嬢を狙ってくるやもしれません。どうぞ、こちらをお持ちください」
「あらまあ、何かしら?」
心配を隠せず、ウィルトンがそっと差し出したそれを受け取り、ラヴィリエはしげしげと眺めた。白水晶を組み合わせて作った、結界管理用の音叉に似ているが、少し違う。交差した水晶達が八角形を作り、その中に六芒星が組み上げられていた。
「簡易的な結界を張れる護符を作りました。持続はしませんが、その分強力です。考えたくはありませんが――貴女が傷つけられようとした時に、一度だけ必ず跳ね返すことが出来るでしょう。どうか、御身を大切になさってください」
「――あらあらあら、まあまあまあ! どうしましょう、私初めて、家族以外の男性の方から贈り物をいただいてしまったわ!」
「え、え、えええ!? いいいいえ全くそのようなつもりでは!!!」
ぱあっと顔を輝かせ、大げさにくるくると回りながら友人達に護符を見せびらかすラヴィリエに、ウィルトンが真っ赤になって慌てている。紫花がケッケッケ! といつも通りの笑いを上げて、先生をからかうのはおやめなさいな! とグラナートが叱った。
陰を振り切った主の娘達に小さく安堵し、ヤズローは改めてあの魔を撃退する方法を考える。今回は何とか上手くいったけれど、次はどうなるか解らない。改めて不定形な魔に有用な機能を新しく求めるべきかと考えながら、決意を新たにした。
耳の上で一瞬、もぞりと動いた気がした蜘蛛を、不快気に指で押さえながら。




