◆5-2
「――お、らァ!」
魔に対して猫を被る必要性を全く感じず、悪罵と共にヤズローは銀具足の蹴りを繰り出した。容赦なく延髄を狙ったそれは確かに魔の身体に当たる、が、どぶり、とその肉体に飲み込まれ、僅かな雫を散らすだけで通り抜けてしまった。皮膚どころか服も水銀で出来ているその体は、あっという間に元の姿に戻っていく。
「チッ」
露骨に舌打ちしても、今は主の娘に仇成す魔に向けてのものだから、師匠も目溢ししてくれるだろう。言葉遣いまで意識を向ける余裕も無かった。真魔と戦うなど、長年祓魔の男爵家に仕えていても殆ど無い。だが、それの面倒臭さと死ににくさは、絡新婦のおかげで嫌という程知っている。
決意を持って繰り出す拳も蹴りも、しかしその体を通り抜けてしまう。少しは身を削れているようだが、有効打にはなっていない。
山羊目の魔は、酷く酷薄な笑みを浮かべながら、攻撃を往なすことに留まっている。ヤズローが、他の魔に目を付けられていると気づいているからだろう。腹立たしいが、その気持ちは全て膂力に変える。
自分の油断により、主の娘をこのような危険に晒してしまった。相手が誰であろうと、己の命を懸けてでもこれを滅さねばならない! 今ヤズローが考えているのは、それだけだった。
「怖い怖い。流石に、もろに蹴られたら痛そうだからな、喰らうつもりは無いぜ」
ぐにゃりと鈍色に歪んだ体は、またすぐに元の姿に戻っていく。手ごたえの無さに歯噛みをした。例え真なる魔と言えど、魔操師特製の具足ならば、霊質で編み上げられた存在にも干渉が出来る。にも拘わらずこちらが攻撃しても、殆ど感触が無い。――ならばやりようを変えるまで。
「――弾けろ、右足!」
もう一度蹴りを放ち、こちらを舐めたのか避けようとしない相手に、足裏から中に仕込んでいる空気銃を叩きこむ。魔の左肩から角を確かに抉り取ったが、散った筈の鈍色の水は床に落ち、同化して、まるでその体を補うように床が撓んで元に戻った。やはりこの牢全体が、魔の身体そのものなのだろう。
「小細工にゃあ意味は無いぜ。――そらよ!」
攻撃をするかのように振り下ろした魔の手が、ずるんと融け堕ちてヤズローを躱していく。同時に、まだ拘束されたままのラヴィリエと、彼女を守るように立っていた二人の周りに、壁から伸びた鈍色の棘が殺到した。まるで生き物の顎のように、そのまま丸ごと噛み潰そうと――
「痴れ者ッ!」
する前に全て、屍鰐達が後ろ足で立ち上がり壁となった。既にその身を半分以上魔の水銀に浸していた彼らは、逆に壁となって棘を防ぐ。
「これ以上、わたくしの友人達に狼藉を許すものですか。手出しはさせませんわ!」
グラナートの声にはまだ覇気が籠っているが、これにより殆どの屍鰐は拘束され動けなくなった。棘に触れたことで魔の牢に完全に取り込まれてしまったのだろう。グラナートの命令で、反旗を翻さないよう抑え込まれているので精一杯だ。
「全く、俺の中でよくやるもんだ」
「余所見をするな!」
彼女達を守るまで手が足りぬ己の未熟を歯で噛み潰し、只管に攻撃を続ける。魔もヤズローの意識を逸らす為にラヴィリエに攻撃を仕掛けたのだろう、此処で振り向いては主の娘に叱られてしまう。
「ふん、舐められたもんだな。言ってるだろ、お前らは全員、俺の胃袋の中にいるんだぜ?」
また、床から、壁から、天井から、氷柱のような棘が伸びあがって、全員に襲い掛かった。今度は数百、数千、数え切れぬほどに。
「お立ちなさい!!」
グラナートの血を吐くような絶叫で、鰐達がその身を挺した。しかしそれが限界で、骨の姿は殆ど残っておらず、水銀の壁に同化していく。次はもう、体を動かすことも出来ないだろう。
「回れ左腕……!」
ヤズローも咄嗟に左腕を回転鋸に変えて殆どの棘を切り飛ばしたが、それでも複数の棘が身に突き刺さり、血を散らす。それでも足を止めず――魔の肩口に、回転する刃を叩きつけた。ぎゃりぎゃりと金属同士がこすれ合う音と共に、鈍色の水が飛び散る。どぶりと沈んだ体のど真ん中に叩き込んだ回転で、その中身を思い切り掻き回した。
「面倒な……!」
流石に眉を顰めた魔が、その体をずるりと撹拌させ、床にどぼりと零れ落ちた。当然止めを刺せたわけではなく、すぐさま牢の床に溶け、再び形を成して立ち上がって来る。痛痒を与えたようには見えず、しかし魔の方も苛立たし気に眉を顰めた。
「さぁ、次はどうする? そろそろ諦めて、俺の中に融かされろよ」
ここまでやっても、只人の心が折れないのが不快なのだろう。ヤズローは油断なく、息すら乱さぬままに水銀に塗れた武器を構え直す。こちらも全く退く気は無いが、決定打がまだ足りない。魔を滅する手段は、その魂をへし折る以外に他は無いが、それを齎せるような知識も情報も無い。このままではじり貧だ。
「――?」
その時、ヤズローの義眼が別のものを感じ取る。何かが、物凄い速度で、こちらに向かって吹いてくるのを。ただ、勘だけで拙い、と感じ、その場から飛び退った瞬間――自分が外から開けてきた牢の穴から中へと、凄まじい冷気が叩きつけられた。
×××
グラナートの鰐達は、先刻の攻撃でほとんどが倒れた。彼女も歯を食い縛っているが、これ以上の従者を作る精神力はもう無いだろう。ラヴィリエは笑顔を保っているが、身動きが取れないままだ。
「――糞が」
非常に嫌だ、嫌だが、このまま負けるのはもっと嫌だ。覚悟を決めて、紫花は息を吸う。
「ラビーは大丈夫だナ。ガニーも、アタシの後ろから動くなヨ」
「紫花? 貴女、何を――」
「決まってんだロ。アタシだってラビーを苛められた分、きっちりやり返すサ」
ずっと咥えていた薄荷の紙巻を、口に放り込んで噛み締めて飲み込む。魔の水銀に塗れた瘴気混じりの空気は、非常に不快だが仕方ない。それよりももっと怖いものに対して声をかけるのだ、この程度で怯えていられるか。
息を吸う。歌いかけるのは、原初の七竜ではない。其処に数えられないが確かに存在しており、ただ全てを停止させる、恐ろしき竜。それが近くに在ることを、紫花はとっくに気付いていた。確実に、この国の中には在る筈だ。そうでなければいくら北の国でも、ここまで寒さを感じるわけがない。
ひやりとした風が、僅かに頬を撫でる。そう、此処には風があるのだ。幾らでも修繕できそうな水銀の牢なのに、戦いに集中しているせいか、ヤズローが片っ端から開けていた穴は残ったままらしい。――それならば、充分。
『――慈悲なく、名もなき、氷竜様。かそけき我らの――ッグ!!』
たった一小節、歌を発しただけ。それなのに、歌を唇に乗せた瞬間、息が止まった。肺の腑まで凍り付くような寒気が、全身に走る。
そうして、紫花の目にははっきりと見えた。見えてしまった。
間違いなく何処かに居る、透き通った氷の鱗に覆われたそれは、同じく透明な眼をこちらに向けて――
邪魔をするな、と。
それはまるで逢瀬に割り込まれた女の癇癪のように、素早く、激しく、空気を軋ませ――水銀の壁をまるで風花の如く吹き散らした。
「カ、ッハ――!」
予想外の攻撃に、山羊目の魔が悲鳴を上げた。何せこの牢全体があの魔の身体だというのなら、それは凄まじい威力だったろう。快哉を上げたいが、拳も上げられない。紫花の半身も、ついでとばかりに凍り付いてしまったから。
まさかそれが、ネージの旧王都方向から、直線方向でこの場所のみに顕現した、氷竜の息吹――局所の寒波と猛吹雪だったとは、誰にも気づけまい。体中の熱が、全て奪われたように冷え切り、動けなくなって――
「紫花!?」
「貴女、何を――!」
ラヴィリエとグラナートが慌ててこちらを伺う声が聞こえて、ふたりを巻き込まずに済んだという安堵だけ如何にか思って、紫花は気絶した。




