◆5-1 素っ頓狂な娘、魔に目を付けられる
――その「魔」は、混沌から零れ落ちた時、小さな煌めきを求めた。
忌々しい金陽が沈み、静かなる銀月が輝く空の上。夜闇に散らしたように輝く星々に惹かれ、それを掴むための腕を得た。地を踏むための足を得た。空を飛ぶための翼を得た。
それなのに、何処まで高く飛んでも星には届かず、口惜しく、歯痒く、許せなかった。天に流れる忘却の河に身を浸したくなる絶望から目を逸らし、空を飛び続けた。
『――それならば、地にある星を探せば良い。固まった樹液に磨かれた石、美しい星は幾らでもあるとも』
それを哀れんだのか、大陸を統べる夜の淫魔アクイレギアが声をかけてきた。流石に嘗ての魔女王程では無いが、強き魔であり、また変わり者でもあった。人にも魔にも手を差し伸べ、己の国を作った魔だ。誰かの言葉に従うのは非常に癪だったが、その着想は悪くないと思った。
そして、興味の赴くままに、美しい星を探し回って手に入れた。琥珀、碧玉、金剛石――人が加工して磨いたものも決して悪くは無かったが、一番のお気に入りは、美しい雫を零す真円の瞳だ。刳り貫いて、水銀に浸して、その潤みを閉じ込めたまま保管する。
それでもやはり、長いこと生きていると目が肥えてしまって、中々お気に入りが見つからず。戯れに寝こけていたら、いつの間にか住処の上に人が建物を作り、更に結界まで張っていた。神官と事を構えるのは面倒臭いし、どうしようかと思っていたが――
『――でももし、私に助けを求めるのなら、私はその度に応えるわ』
戯れに覗き込んだ、結界内の瘴気溜り。濁ってくぐもるその中に、煌めく星を見つけた。
『――嗚呼、』
欲しい。欲しい。あの輝きがどうしても欲しい!
しかし厄介なことに、その輝きを守るように立つ人には、別の魔の唾が付いていた。しつこさならば折り紙付きの絡新婦だ。非常に面倒なことは容易に知れたが、その程度で諦める魔など居ない。
「ごめんなさいね。私、もう涙を流すのは家族と友人の為だけにと決めているの」
欺き、隠れ、這いつくばり、ようやっと自分の手の中に収めた。それなのに、この娘は全くその美しい瞳を潤ませず、酷く残念に思った。既に自分の爪は、その只人の頬を抉り血を垂らしているのに。保存するのなら、涙が湧いてからの方が断然美しいのに。
「それより、貴方がたの在り方に私はとても興味があるのよ。神すらも執着し屠る魔の果てならば、私が求めるものに近づけるかもしれないのだから」
夜空の如き藍。その中に散る、金の星々。その瞳がじっとこちらを見つめているのは、とてもいい気分だったけれど――汞のヒュドラルギュルムには、笑顔も声も不要だ。
「仕方が無い、勿体ないが、首だけ斬り落として持っていくか」
絡新婦の唾付きを檻から追い出したけれど、それだけでも文句は言われそうだ。これ以上時間をかけても面倒が増えるだけ。しかし久々に出会えた上玉を、中途半端に保存するのも嫌だ。折衷案として、もう片方の腕をめぎりと変形させ、鈍色の刃へと変える。それを細い首に押し当てても、やはりその只人は笑っていた。
「そんなエスコートは結構よ。もう迎えが来たのだし」
言葉と同時に、水銀の壁が砕けた。
×××
「チ――早すぎんだろ!」
そう叫んで、山羊の角を持つ魔はその場から飛び退った。行きがけの駄賃でラヴィリエの首を落とそうとした刃は、一瞬で張り巡らせた蜘蛛糸で絡め取り、押し留めた。それでも、拘束された主の娘のみならず、その頬に刻まれた傷から血が零れているのを視界に収め――ヤズローは激昂した。
「お嬢様ッ! ――遅参、申し訳ございません」
「構わないわ、十二分に早かったわよ?」
歯噛みをして、拘束されたままの彼女の体を背に庇いながら詫びると、何もなかったと言いたげに笑みすら含んだ声音で労われた。其処には恐怖も痛みに対する嘆きも無いし、見せようともしない。それが魔を悦ばせると解っているが故にだ。
「冗談じゃねぇ、蜘蛛の恨みなんぞ買って堪るか! 融け堕ちろ!」
絡め取られた水銀の刃をすぐさま液体に戻し、山羊の魔はだん! と固まった床を強く踏む。その途端に水銀の牢がぐにゃりと歪み、また波を象ってヤズローを包み排しようと――
『――腹を満たせ、大喰らいの群れ!! 糧は今其処にある全て!』
その鈍色の水に食らいついたのは、骨で編み上げられた巨大な鰐の群れ。肉も鱗も持たないそれらは、巨大な顎で鈍色の水に噛みつき、食いちぎると、その体にめりめりと棘が生え、体積を増やしていく。瘴気を喰らい、己の糧と出来るのがこの鰐達の真骨頂だ。当然、喰らわせた分だけ、制御は難しくなるだろうが。
「澱喰らいの屍鰐の群れ? 随分古臭い邪法の類を使うじゃねぇか」
「――訂正なさい。我が侯爵家が編み出し、練り上げ、完成させた死霊術。悍ましき魔の手管など、全て喰らい尽くして差し上げますわ……!」
ヤズローが開けた穴を次に潜ったグラナートは、眦を吊り上げてそう告げたけれど、彼女の顔色は、普段から白いのに更に蒼褪めていた。曲がりなりにも魔の作り出した牢の中、瘴気に侵されぬよう死骸を編み出し操るだけで重労働だ。ここで彼女が気を失えば、制御を外れた骨の鰐が魔の手先として暴れ出しかねない。歯を食い縛って、彼女もラヴィリエを守るように立ち塞がった。
「ハ、時代遅れの屍使いが。邪魔すんじゃねぇよ!」
「こっちの台詞だ!」
更にヤズローが前に出て、真魔と組み合い、引き離す。グラナートもそれを追おうとしたが、ふらりと体を傾がせ――素早く紫花が支えた。彼女も酷い瘴気の為、薄荷の紙巻を咥えていても顔色が悪いが、目立った傷は無い。
「ほらほラ、無理すんなっテ」
「……ッ、少し我慢なさい、ラヴィリエ。この鰐達は大喰らいです、貴女ごと噛みかねません」
細かな制御が出来ない鰐では、ラヴィリエの拘束だけを狙うことは難しいという詫びだった。自分とて苦しいだろうに律儀な友人にラヴィリエは縛られたまま笑ってしまい、気にしないでと言いたげに首を横に振った。
「ええ、全然平気よ! 二人とも無事で何よりだわ!」
「っテ、一番アンタがやばいだろうガ、ちょっと待ってロ……!」
ラヴィリエがその頬に傷を刻まれていることに気付き、紫花は素早く掌の上に息吹を広げ、透き通った水を作り出した。グラナートが取り出したハンカチーフを受け取り、水で洗った後にラヴィリエの顔を優しく拭う。
「毒は無イ、かナ。痛いだろうけド、我慢しなヨ」
「何てこと……心を強くお持ちなさい。報いを必ずや、あの真魔に叩きつけてやりますわ」
傷口をそっと抑えてくれる紫花と、油断なく鰐達を操る為額に汗を浮かべるグラナート。二人の顔を誇らしげに見つめながら、未だ水銀に囚われたままのラヴィリエは、何てことの無いような顔できっぱりと。
「あらまあ、もう大丈夫よ二人とも。ヤズローが全部片づけてくれるもの!」
自身の従者に対する絶対なる信頼を告げた。




