◆4-3
紫花の方は、驚くほど落ち着いていた。何せ騒いだり暴れたりしないかぎり、水銀の牢屋は決して動かない。部屋の隅に腰を落ち着けても、拘束すらされなかった。やはり瘴気の気持ち悪さは漂っているので、気分は最悪だが。
「念のため持ってきて良かったヨ。あんな無様はもう御免だシ」
そう言いながら懐から取り出したのは、薄荷の葉を刻んで包んだ紙巻だ。端を噛んで吸うと、喉の奥がすっきりとする芳香が届き、吐き気が落ち着いて安堵する。
「……やだナ」
それでも、心は晴れなかった。寒さとは別の理由で、ぞわりと背筋が震える。
誰にも言ったことはなかったが、紫花は狭いところに閉じ込められるのが苦手だ。子供の頃悪さをすると納戸に閉じ込められて、中々出して貰えなかったせいか。それとも、自分にとって唯一どうにか相性がいいと思われる、風竜オーフエレの息吹が通らないせいか。
ぶる、と体を震わせて、紫花は膝を抱えるとその場に蹲る。閉所に対する恐怖、瘴気でじわじわと苛まれる辛さ、手足の先がかじかむ寒さ。どれもこれも嫌だけれど、それより何より――竜がいなければ何もできない己が嫌だった。碌な力もないのに、其処に縋りつかないと生きてもいけない癖に、それに身を浸すのは、酷く恐ろしかった。
『――どうして小紫は、竜様に侍らないの?』
美しい姉は、本当に不思議そうに紫花に問うた。
『小姉様、怖くは無いですよ。竜様はとてもお優しいです』
可愛い妹は、寧ろ我儘をいう子供を宥めるように続けた。
『何故お前は紅花や黄花のように、七竜様にお仕えしないんだ』
『あなたも陶家の娘なのだから、出来て当然です』
『お前はただやる気がないだけだろう。駄々を捏ねてお役目から逃げるな』
「煩ぇ、煩ぇ、煩ぇ……!」
多分、この場所の瘴気が嫌な記憶を呼び出しているのだろう。解っているのに、いくらでも頭の中に湧いて出てきて、止まらない。
この国に来るまで、何度も何度も言われた言葉達。既に「向こう側」に行ってしまった姉妹と、何も知らない両親や幼馴染。全部、全部煩い、聞きたくない。
嗚呼でも、何より、誰より、一番恐ろしいのは――
姿も見えず、声も聞こえない筈なのに、こちらを見ている、竜の目が――
どがん!! と音が響いて、目の前の壁に罅が入った。
「ヘァ!?」
いきなりの衝撃に変な悲鳴を上げて立ち上がると、更に二度、三度、衝撃が走り、罅が見る見るうちに広がって――向こう側から、全く別の銀の輝きを見せる、具足が覗いた。
『……そちらにおられるのは、紫花様ですか? 失礼、少し離れていてください』
「ア、おオ、うン。いいヨ」
『感謝します』
混乱するままに立ち上がって一、二歩下がると、罅の向こうからくぐもった声が聞こえ、その後更に一発。完全に銀水の壁に穴が開き、どろどろと形を成せず崩れていく。その向こうに立っていたのは当然、友人の忠実なる従者だった。その銀の具足には、せめてもの抵抗なのか鈍水の紐が絡みつき固めようとしたが、彼は全く動じることなく、小さく古代神紋語を呟いた。
「――砕けて戻れ」
その瞬間、彼の両腕を覆っていた手甲がばらり、と解け、滑る水と共に床に落ちる。完全に力を失った水を思わず目で追ってから、彼の姿をもう一度見て――紫花は息を飲んだ。
「ッアンタ、そレ」
「? ――失礼、お見苦しいものをお見せしました」
その姿が信じ難く、声を上擦らせる紫花に対し、ヤズローは気にした風もなく軽く頭を下げた。
ヤズローの腕は普段、右は肩口から、左は肘から指先まで具足で常に覆われている。それが外された下には――何も、無かった。本来腕がある筈の場所に。服の袖も合わせて切られている其処は、関節が僅かに尖って皮膚に覆われた、腕というには短すぎるもの。そこで初めて紫花は、彼がいつでも身に着けていた具足が、義腕であることに気づくことが出来た。
勿論、あんな自在に動かせる義肢など聞いたことが無い。恐らくは魔操師製の特注品だろう。いつもラヴィリエが我が家は貧乏男爵家だと言っているので、とてもそんなものを手に入れられるようには思えなかったけれど。
ヤズローはいつも通りの無表情のまま、水銀の沼地の中に落ちた腕の破片に向けて、ふっと口を窄めて息を吐く。そこから伸びた極細の糸が破片を拾い上げ、肘より先が無い腕へと正確に嵌めていく。するすると継ぎ目を縫い付けるように糸は動き、かちりと音を鳴らして指が動き出す。次は右肩から、同じように。
「――お騒がせしました。これで問題はありません」
「ア、そウ。痛かったりとかしないんなラ、いいサ」
あまりの衝撃に先刻の落ち込みがどこかへ吹っ飛んでしまった。どうやらこの鈍色の檻を、ヤズローは同じ手段で片っ端から壊していたらしく、ふっと鼻先に風の香が届いて、紫花は安堵してしまった。結局自分も、竜から離れることは出来ないのだという諦観とわずかな恐怖を見ないふりをして、あくまで明るく問いかけた。
「んジャ、とっとと行こうヨ。ラビーとガニーを助けにいくんだロ?」
彼の主だけでなく、主の友人を彼が助けない理由もあるまい。何故なら彼の主が間違いなくそうするから。まだ付き合いは短いが既に確信が紫花にあったし、当然のようにヤズローも頷いた。
「はい。次は――」
ばりん、と先刻とは少し違うが確実に破壊音が聞こえて、ヤズローも言葉を止めた。彼が掘り進んできたところとは別の壁が、みしみしと悲鳴を上げ始めている。
何かが、固まっていた鈍色の壁を削りながら動いているらしく、やがて壁の隙間を割って先端を出したのは、まるで獣の鼻先のようだった。ただし、真っ白な骨で作られた。
「……ガニーかイ!?」
『! そちらにいるのは紫花ですわね! 少々お待ちなさいな。噛み砕きなさい、骨の鰐!!』
心当たりの名を叫ぶと、壁向こうから凛々しい声が聞こえた。そしてまた、ごりごり、ばきん、という音と共に穴が広がっていく。
そして向こう側から現れたのは、数多の骨を組み上げて作り上げられた、巨大な鰐、のように見えた。元は人の骨であったのだろうが、一体どのような死に方をしたのか、無残に砕かれたものばかり。それが組み上げられ、鰐の骨格を象った虚ろな眼窩に、ゆらゆらと揺らめく青白い光の粒が詰め込まれている。グラナートは悠々とその後に続き、動きを止めた骨の鰐の頤をそっと撫でた。
「役目は果たされました。お行きなさい。貴方がたは最早獣ではございません。罪を洗い、死女神様の神殿でお眠りなさいな」
その声に呼応するように、青白い光が揺らめき、散り消え――いっそ軽く灰のように、ぱさりと骨の体は空に溶けるように散った。
「……お見事です。嘗ての人を、人に非ざる使役をするとは」
死霊術とは当然死者を操る術なのだが、死者とは当然、生者と比べれば酷く曖昧で脆いもの。それに呼びかけ、繋ぎ止め、別の依り代を与えて動かすのは、かなり上級の術であるとヤズローも知っていた。ふ、と整える息を少し短くなった扇で隠し、いつも通りの自信に満ちた口調でグラナートは続けた。
「彼らは最早人としての意思を持たず、それでもこの地にこびりついた残滓でしたわ。わたくしはそれに道を与え、天へと上る道筋を与えただけです。道半ばに倒れた者の、無念と共に」
最後に一かけら残っていた触媒の骨をそっと自ら拾い上げ、小さく祝詞を捧げるとその骨も崩れて消えた。瘴気の充満する中で、多量の死者を操る精神力はかなりのものだが、普段から青白い顔が更に蒼褪めている。
「無理すんなヨ、ガニー」
「ふん、貴女の顔色も似たようなものですわ。気遣いは不要です」
「お二人とも、少々お休みください。すぐに、お嬢様の元に向かいますので」
ヤズローがぐっと眉を顰め、銀腕を構え直す。既に納得済みの紫花に対し、主よりもその友人を優先した動きが気に食わなかったのか、グラナートが渋い顔をした。
「お待ちなさい、ラヴィリエの居場所は既に掴んでいるのですか? ならば何故、先にわたくし達と合流をしたのです」
他人の従者に対してであるが故に声は抑えていたが、彼女の観点から見れば従者失格の振る舞いなのだろう。ヤズローも僅かに目礼し、低い声で呟いた。
「先にお二人の無事を確認せねば、お嬢様のお叱りを受けますので。それと――」
あっさりと言われた言葉に、だよネ、と紫花は呟くし、グラナートも納得してしまったが、彼は尚も続けた。――不機嫌さを隠さぬままに。
「外側から順に、この牢を壊してきましたが、お嬢様は一番中心の奥におられるようです。敵の本命もお嬢様でしょう。向こうもそれを織り込み済みで、お二方を配置したと思われます」
成程、それで自分達も生かされていたのかと紫花は納得した。ただ殺されただけではこの有能な従者の足止めになるまい。助けに来る者の労力を割くための人質だったのだろう。
「つまり、わたくしを囮として使ったと? 栄えあるフルゥスターリ家息女である、このわたくしを?」
「ア、切れそウ」
しかし当然、貴族子女の誇りが封折山脈よりも高いグラナートにとっては、聞き逃せぬ言葉だったようだ。思わず紫花は一歩離れてしまい、ヤズローも僅かに頭を下げ、謝意を見せた。
「――ようっく解りましたわ! どのような魔か知りませんが、その思い上がりを後悔させてあげましてよ……!」
当然それで彼女の怒りは収まらず、再び朗々としたビェールィ語の祝詞が、水銀牢の中に響きわたった。




