◆4-2
――真魔の水銀は、ラヴィリエ達の居た廊下を完全に覆い尽くした後に、ずるずると集まっていき、一つの大きな塊となった。人ひとりを閉じ込めるのがやっとぐらいの、ごろりと廊下の真ん中に転がった岩のよう。それが、ぎし、と軋み、ぐらぐら、と揺れて、ぶるんと粘液のように震え――
「――っぐ!」
僅かな悲鳴と共に、ヤズローの身体が其処からまろび出てきた。まるで飲み込まれた胃袋から、痙攣と共に吐き出されたように。すぐさま起き上がってその塊に拳を振るうも、先刻までの柔らかさが嘘のように、がつん、と鈍く硬い音を返してくる。
「お嬢様!! ――チッ」
自分だけが廊下に取り残されたことに、無作法だと解った上で思い切り舌を打つ。ラヴィリエの居る場所では無いし、非常事態に舌の呪いにかまける暇は無い。
「どいつも、こいつも……!」
ぎり、と歯を砕かんばかりの勢いで怨嗟を噛み潰す。魔の悍ましさと面倒さを、ヤズローは誰よりも知っている。
彼が生まれた王都の旧地下街にある花街は「蜘蛛」と呼ばれ、其処を支配しているのが真なる魔――絡新婦のレイユァと名乗る女だった。見た目は妖艶な美貌を晒す女だが、本性は正に蜘蛛――自分の縄張りである花街に住まうもの全てが、彼女の子であり所有物として捕らわれているのだ。
其処で生まれたけれど、死にかけた命をラヴィリエの父に拾われたおかげで、ヤズローはその巣から逃れることが出来た。しかし当然、真魔は自分の執着を諦めることなど有り得ない。
シアン・ドゥ・シャッス男爵家が嘗てその絡新婦と約定を結び、迂闊に地下から出てくることの無いよう縛っているおかげで、ヤズローも自由を許されているのだ。それ自体が、非常に腹立たしい。
ヤズローの使い魔も元々は絡新婦の分身のようなものであり、それを通じて旧王都の蜘蛛から監視をされ続けている。だからこそ、完全に不覚を取り、何某かの魔に襲われたにも関わらず、自分の命が無事な理由が解って、もう一度舌を打った。
もし他の魔にヤズローの命、までで無くとも傷を負わせただけで、あの絡新婦は激怒するだろう。そして約定を破り捨てて己の魂が弱体化しても、地下から這い出、目の前にいる只人を片っ端から食い殺しかねない。真魔というものは、そういうものだ。人が使役することなど出来ない、気まぐれで残酷でどうしようも無いもの。例えヤズローを傷つけた魔を百八つに引き裂いても、怒りを納めるまい。
「舐め腐りやがって……!」
そう、つまり。ヤズローが目零されたのは、あの蜘蛛のせいなのだ。それが、一番腹立たしい。自分の命も体も尊厳も、全て男爵家に捧げたいのに、未練たらしく糸を伸ばしてくるあの女も、主の娘を襲った輩も、全てが腹立たしくて仕方が無い。
怒りを込めてじゃり、と床を踏みしめ、水銀の塊に近づく。一見小さな塊にしか見えないが、真魔の牢は様々な形を取り、世界からの干渉を拒む巣だ。恐らくこの中に主の娘とその学友が閉じ込められている筈。具足に包まれた左腕をぶん、と振り、それを解放する古代神紋語を怒りのままに絞り出した。
「――回れ、左腕!」
次の瞬間、ヤズローの左腕があっという間に変形する。肘まで腕を覆ったそれは、沢山の歯車と鎖に分かれ、再び編み上げられ、ぎゃりぎゃりと音を鳴らして回る巨大な鋸となり――叩き込まれた金属の上で、凄まじい音と火花を散らした。。
×××
ラヴィリエと同じような球体の水銀牢に囚われたグラナートは、非常に憤っていた。
「何という、不覚……! このわたくしを捕らえ辱めるなど、如何なる魔であろうと許すわけには参りませんわ……!」
既に敵の正体については彼女も当たりをつけていた。人の術師ではとてもこのような奇妙な結界は作れまい。そして自分がこのような不覚を取るのは、真魔くらいしかいないだろうという、自らの実力に対する自信からだった。
彼女の怒りに呼応するかのように、床や壁、天井を覆う水が盛り上がり生き物のようにうねり、細い体を捕らえようとする。しかしすぐさま、グラナートは躊躇わず愛用の扇子の羽根を折り、その薄い骨を宙に投げた。
『死女神へ捧ぐ。神殿を守護せし白の鳥。色は無く、ただ空に舞え!』
呼び出されたのは、蝶ぐらいに小さな、骨で組み上げられた無数の鳥だった。死女神の神殿を守るとされる骨の鳥をモチーフにして編み上げられた死霊術は、術者の身を守る為に特化されたもの。それが伸びてくる、或いは滴り落ちてくる雫を防ぎ、周りを飛び回る。小さすぎて緩慢な触手では掴み切れまい。
すると相手の攻撃が緩み、部屋も静まり返った。油断せず鳥達はずっと舞わせているが、動きは無い。助かった筈なのに、グラナートの眉間には皺が寄っていた。
「……成程、わたくしが狙いでは無いということですわね。では、ラヴィリエか紫花」
先に飲み込まれていたのだから、ヤズローが狙いではあるまい。相手が真魔であるのなら、訳の分からない振る舞いをすることはあるだろうが――どちらにしろ、自分が軽視されている。その事実だけで、グラナートの機嫌は数段階一気に下がった。
自分の実力を理解しているからこそ、未熟さも理解している。悔しいが、我慢が出来る。しかし自分が軽んじられるということは、誇り高きフルゥスターリ侯爵家が軽んじられることと同義なのだ。全くもって、許せるものではない。
それより何より、この学院に来て出来た友人達に危機が迫っているのを、手をこまねいてみているつもりなど無い。
「……護身は任せます。儀式の準備をする故、時間を稼ぎなさい」
更に数体の骸骨兵を呼び出し盾にすると、胸元に仕舞っていた、黒曜石のネックレスを取り出した。以前、家に仕える首なし騎士を召喚したものと同じ触媒が埋め込まれている。
両親に旧時計塔の事件を手紙で報告した折、褒賞として与えられたものだ。かの騎士を一瞬とはいえ召喚できたのは、お前の研鑽が身を結んだのだという言葉と共に。素直に嬉しかったし、誇らしかった。手紙に挟まっていた小さな紙に、叩きつけられるように書かれた『祝福を』という文字が、幼い頃「彼」に貰った手紙と同じ筆跡で、寝台の中で感極まり涙を零したことは、誰にも内緒だ。
しかし――グラナートはその石をそっと元通りに仕舞う。今の自分がかの誇り高き騎士を呼び出せたとしても、また僅かな時間しか叶わないだろう。まだ、彼を従えるほどの力は自分には無い。そんな未熟な姿を、二度と彼の前で見せて堪るものか。
『起きよ、起きよ、起きよ。我は此処に在り』
故に、別の祝詞を唱える。今自分がいる場所が魔の牢であろうとも、此処はシャラトの学院に違いない。――それだけ解れば充分。
『死を賜り、死を従え、死を糧とする、蒼き燈火の家』
嘗てこの建物は、西国との戦で使われた砦。其処には数多の、死者の血肉と霊が未だにこびりついている。土に埋もれただけでは、決して消えることは無い。戦で命を奪われたものならば、尚更だ。魂はとっくの昔に天の河で洗われ、生まれ変わりを果たしていても、恨みと嘆きは決して消えることなく、残滓のようなものだけが彷徨い続けている。――それこそが、死霊術師が捉え、従え、導くものの本質。
『祖に連なる血と肉と魂を持つ者。我が名は、水晶より生まれし柘榴石……!』
故に彼女は語り掛ける。お前は死者である。未練があるのならば、天の河へと昇りたいのならば、我に従え。課す労役を果たすのならば、解放の導を与えよう。
冷え込んでいる筈なのに、じわりと額に汗を掻く。気配は感じるが、集まって来る感触が鈍い。魔の鈍水に閉じ込められているからだろう。――無論、だからと言って止める気は無い。
「――お覚悟なさい。この程度の戒め、わたくしの血に賭けて、何の柵にも値しないと……!」
怒りを持って、グラナートは再び祝詞を唱える。己と己の友に狼藉を働いた相手を許すつもりは毛頭なかった。
『目覚めよ。お前達は人に非ず、魔に非ず、而して闘士である!』




