プロローグ
シャラトの学院に昔から伝わる噂話、通称「六不思議」のひとつに、「鏡の沼」という話がある。
学院の裏手に広がる山の中、鏡のように静謐な、鈍色の沼地があるという。その美しさに惹かれて水に触れようとすると、その水は意識があるかのように蠢き出し、人や獣を飲み込んで、二度と浮かび上がってこないのだ、と。
「……まぁ、裏山に入らないようにっていう、昔からの脅し文句だろうけどさ」
「だろうな」
そんなことを小声で言い合いながら、男子生徒達はそっと講義室の扉を閉めた。窓の外はすっかり暗く、冬に近づいて冷え込んだ曇天だ。
本来、講義の時間が終了すれば鐘が鳴り、生徒は皆例外なく寮に戻らなくてはならない。しかし彼らは、座学棟西の廊下端にある窓の鍵は蝶番が緩んでいて、開けられることを先輩から聞いていた。一度帰ってから忘れ物をしたことに気づき、こっそりと忍び込んだのだ。
しんと静まり返った石畳の廊下は暗い。嘗ては山の上に建てられた砦を改築して作られた建物は殆どが石造りで、昼間は賑やかだが、人がいなくなれば不気味さが際立つ。廊下の燭台も、燃料の節約の為に消されていた。闇に浮かぶ煌めきは、天井からぶら下がっている白水晶の飾りだけ。学院全体に張られている結界の要石なのだが、今見える輝きは僅かで、随分と頼りない。二人が手に持っている小さな蝋燭の火も、ゆらゆらと今にも消えそうだ。自然と恐怖を紛らわすため、小声で話を続けた。
「しかし何で六不思議なんだろうな。聖なる数字は八、魔なる数字は四。どちらにも合わないだろうに」
「噂話が生まれていくうちに、六つになったってだけじゃないのか。四回生の先輩曰く、昔はもっと少なかったと――」
ぴちょん。
雫が落ちた、にしては、随分と大きな音が響き、二人同時に口を噤んだ。学院内の水源は、山から引いてきた清水を溜めた池と、外に掘られた井戸しかない。雨漏りかとも思ったが、外は冷えていて、降るなら雪だろう。
ぴちょん。
それにも関わらず、また水音がした。慌てて周りを見渡しても、異変は無い。廊下はやはり暗く、その先までは見通せない。
「おい、行こう」
「う、うん」
お互い、友人の前で怖がって、無様なところを見せたくもない。嫌な予感を振り払い、並んで速足で廊下を進むと、
ぴちょん。ぴちょん。ぴちょん。
足音に追随するように、水音が近づいてくる。息を飲み、恐怖の悲鳴を堪えて必死に足を動かす。廊下端まで行けば外に出られる、その筈なのに、いくら歩いても辿り着かない。こんなに廊下は長かったか? どうして、と思う前に、
ばしゃんっ。
大きな水音。と同時に、彼らの足は泥濘のような柔いところを踏んでしまった。――建物の中なのに? お互い呼吸が止まり、顔を見合わせ、瞬きをひとつ、ふたつ。
目の前の光景に変わりはない。暗いけれど見慣れた石造りの廊下、その筈なのに、床に自分の顔が映り込んでいることに気づく。
「……あ、あ、」
鏡のように磨き上げられた床、なわけがない、絨毯もない石畳の筈なのに。
よろめいた生徒の足が床を踏むと、またばしゃんと大きな水音がする。僅かに粘性がある鈍色の水が、床一面を覆っているのだ。それはまるで生き物のようにさざめき、姿を変え、彼らを飲み込もうと――
「「う――うわああああ!!!」」
二重奏の悲鳴が上がり、消えた。
×××
「……や、やはり結界に異常はありません。瘴気も、感じ取れないようです」
白水晶の輝きを確認して、秩序神の神官にして神学講師であるウィルトンはおずおずと囁いた。共に見回っていた警備兵が、何とも言い難い顔で溜息を吐く。
「しかし、倒れた生徒は瘴気に中てられたのではないですか?」
放課後に院内へ忍び込んだ二人の生徒が、衰弱して廊下に倒れているのを見つけたのは真夜中の見回りのこと。すわ、先日の旧時計塔のような事件がまた起こったのかと、講師の寮で寝こけていたウィルトンが叩き起こされ、生徒の治療の後現場を改めたのだ。
「い、い、いえ。どちらかというと、気力と体力を吸われたような、症状だった、んですが」
ウィルトンが調べた限り、魔を退ける秩序神の奇跡である結界には全く異常は無く、瘴気も人が生きていれば僅かに湧くぐらいの微々たるもの。とても、只人を衰弱させるほどの異常は見受けられなかった。
しかしすぐに吃り汗を掻いてしまう彼を、警備兵達も頼りが無いと見ているらしく、信用が無いらしい。
「何はともあれ、放課後の外出と寮以外の進入禁止を、改めて申し伝えましょう。神官殿はもう一度、結界の確認を」
「は、は、はい! 勿論です!」
この場でこれ以上建設的な議論が出来ず、踵を返す警備兵達に慌ててウィルトンは頭を下げた。自分の未熟さが恥ずかしく、背を丸めてしまう。今この国で、神殿と神官の地位自体が軽んじられていることに拍車をかけてしまうかもしれないという落ち込みが、更に彼の足取りを重くした。
ぴちょん。
また遠いところで水音が響いたが、彼らの耳に届くことは無かった。




