報われない恋をした君へ
痛みは可能ならば避けたい。可能性の高い恋しかしたくない。けれど恋はコントロールできるものではないし、条件に合わなかったりタイプではない人を好きになることもある。タイミングもある。ずっと慕ってくれていたあの子がずっと自分を見つめ続けてくれる、なんて都合が良いことは現実にはない。ずっと好きで居てくれていたら良かったのに。彼女の心はもう別のところにある。それなのに何故、彼女は瞳を湿らせ震える手、声で俺に話しかけてくるのだろう。何故、誰にでも見せてはいけないような眩しい笑顔を向けてくるのだろう。優しさだろうか、恋の残火だろうか、それが俺を悩ませ苦しめる。彼女は愛情深い人だ、だからこそ今のパートナーを心から愛しているのだろう。パートナーも俺も傷つけたくないし、ひょっとしたら俺にも僅かな愛情を持っているのかもしれない。俺と会話し、胸を弾ませ、その後人知れずついたため息はどんな意味があるのだろう。その後俺と目があったとき、どんな気持ちになったのだろう。何故、二人きりになるような状況を率先して作り出し、俺の心を揺さぶるのだろう。おそらく理由はない。感性のまま、心のまま選択した結果がそれらの行動であり、理性では今の愛を大切にし、守っていきたいと思っているのだろう。彼女の愛情がいつか俺に向くことを期待するのは不毛だろうか。いっそ嫌いに慣れればよかったが、それは俺自身を深く否定することにつながる。この苦しみは受け入れるしかない。彼女は今まで通り、俺に話しかけてくるのだろう。どうでも良いこと、仕事には関係のないことをいつも通り話してくるのだろう。そんなとき俺はどんな気持ちでそれと向き合えば良いのだ。嫌いになってほしくて、しつこく連絡してみたが、それで本当に嫌いになってくれただろうか。それとも会話に紛れた俺の愛情に気づき、彼女の愛は揺れ動いているのだろうか。彼女がきっかけで買った化粧水、新しい服、そしてトイ・プードル。それらを見るたびに彼女のことを思い出す。無責任にも全てを投げ出すことは出来はしない。ずっと大切に持っていかなければ行けない。ならばこの気持ちは昇華しなければいけない。たとえ時間がかかってもいい思い出にしなければいけない。
彼女をデートに誘った日からタバコを吸い始めた。返答を待つまでの間に気が狂いそうになり川に飛び込みそうになったからだ。タバコは確かに心を一時的に落ち着け、冷静さを取り戻してくれる。しかし彼女への恋情は冷めずただ、危険な行為を思い留まらせてくれるだけ。メッセージについていた”いいね”がいつの間にか消えていた。次の日朝9時に彼女からのメッセージの通知が来たとき手は震え、吐き気がし、メッセージを開く前から結末がわかってしまった。彼女は誠実にも自分にはパートナーが居て、パートナーが嫌がるから行けません、と言ってくれた。きちんと理由を伝えてくれたのは、優しさだろう。泣きながら俺は喜んだ。やっとこの苦しみから開放されるのだと。報われない恋をやっと終わらせることができたのだと。しかし、日が経っても結局、苦しみはなくならなかった。彼女の揺れ動いていた気持ちを知っているからだ。彼女は決断し、俺との関係を整理しようとした。その意思を尊重し、潔く諦めるべきではあるが、まだ頭の中の期待が消えてなくならない。彼女のことを想うたびに胸がざわつき苦しくなる。朝だろうが、夜だろうが、その苦しみが来るたびに縋るようにタバコを吸う。タバコを吸うことで立ち上る煙、自分の呼吸、収縮する血管に意識を向け、今この瞬間を生きることが出来る。吸いながらも、頭のどこかで彼女とのやり取りを思い出し、一途に見つめ続けてくれたことを想い出す。
彼女のことはタイプでなかった。華奢で小柄、全くの無愛想で何を考えているのかわからなかった。けれどなんだか気の毒に思い、話しかけるようになった。話しかけていたが特に他意はなく、ただ業務の一環として人間関係を作ろうとしていただけ。見つめられても、空いている席がたくさんあるのに近くに必ず座ってきても、なんとも思わずただその事実を冷静に受け入れていた。業務が忙しく、そのようなことを反芻して考える機会などなかった。何度か誘われても、無下にして断っていた。関心がなかったからだ。追われれば逃げたくなる。誘われることがちょっと怖くて、何を考えているのか、どんな気持ちで誘っていたか分かろうとしていなかった。遊びに行ったとて、散発的な会話ならまだしも長時間の会話が成立するかすら自信がなかった。しかしそんな彼女があるときから積極的に発言するようになった。積極的にいろんな人と会話するようになった。自信がついたのか、彼女の見た目や服装も見違えるように良くなった。思えばその時から、彼女を支えてくれるパートナーが出来たのだと思う。パートナーのお陰で、彼女は美しく、可憐で笑顔の素敵な女性になった。それを実感したのはある時ふと誘ったランチ。化粧を直して、行きましょうと俺に声をかけた彼女はとても美しく、返事の声が情けなく上ずった。川沿いのベンチで会話しているとき、淡い光に照らされた彼女の笑顔は今まで感じたことのない衝撃を俺の心に与えた。人間の真価とはこのような笑顔にあるのだと悟った。女神という言葉と一緒に彼女の眩い笑顔が脳裏に焼き付いた。その時俺は恋に落ちた。あどけない顔、優しげな瞳、柔らかい髪全てが輝いて見えた。ちょっと低めな声、明晰な頭脳、自分の能力への自信全てが彼女の個性であり、得難いものだと思った。彼女のことを知りたいと強く思い、彼女の好きなもの、家族について聞き出し、少しでも近づきたいと思った。それが幸せの頂点だった。
その後、もう一度二人で会いたくて、何度かカジュアルな誘いをかけたが全て、予定が合わずに断られた。ふと、これは彼女なりの意趣返しなのではと思い、ムキになって何度も誘いをかけた。やはり、全て断られた。このときからなにか違和感を感じた。彼女にはパートナーが居るとの噂もこのとき聞いた。しかし、彼女は断りはするが、変わらず俺に話しかけてくる。どうでもいいこと、業務には関係のないことを。彼女が何を考えているのかまた、わからなくなった。本当に都合が悪いだけなのか、俺とは会えない理由があるのか。今思えば、彼女は彼女なりに割り切り、俺を友人として見ていたのだろう。しかしその時の俺には何もわからなかった。ある時焦れったくて、苦しさから逃れるために本気で誘いをかけた。ディナーの誘いだ。本心ではNOと言ってほしかった。これ以上彼女のことを考えていたくなかった。その返事が彼女の誠実な答えだった。希望通りのNOを得ることが出来た。これで俺の彼女に対する執着は消え、諦めきれると思った。甘かった。彼女との日々の蓄積が、彼女が俺を見つめ続けてくれた日々が俺の心に残っているから、執着は寧ろ強まり、振り向いてほしい気持ちが膨れ上がるばかりだった。未練がましく、カップルが結婚に至る確率を調べた。25%だそうだ。つまり75%はうまくいかないのだと知り嬉しくなったと同時に、自分の執着が恐ろしくなった。たとえ、彼女と奇跡的に結ばれてもこの執着がある限り、誰も幸せになれない。時間をかけて、この執着を消化して、ただ純粋に好きという気持ちだけを取り出して、それを大事に抱えていきたい。それであれば、独りよがりではなく、彼女の今の幸福を応援できる気がするからだ。彼女はきっと今幸福なのだろう。彼女を幸福にする役目を誰かが担っているのならば、俺に出来ることはない。で、あれば俺はこの空いた両手で他の誰かを幸せにすることが出来る。今度こそ、執着せず、依存せず、自立した好きという気持ちだけを抱ける自分になりたい。しかしながら、その”誰か”が彼女であったならば、俺は彼女を幸せにするためになんだって出来ると確信がある。今はまだ、何も未来はわからない。しかし備えることが出来る。いつか俺がこの両手で支える”誰か”を幸福にするために、今俺は俺の出来ることをし続ける。