バク君とごちそう様
「……眠りたくないよぉ……」
真っ暗な部屋の中。お布団に入って、元気の無い呟きが一つ、こぼれました。
小学生の女の子、みのりちゃんには、最近悩んでいることがありました。
それは、ここのところ毎晩、悪夢を見てうなされてしまう、ということでした。
しかし、眠りたくなくても、最後にはいつも自然と目蓋は閉じてしまい、意識は後ろにぐいと引っ張られるようにして、夢の中へと誘われます。
――――怖い世界へと、引きずり落とされます。
そして今日も、悪夢が始まるのでした。
暗い、複雑な造りの大きな洋館の中。沢山のバケモノが、包丁や斧といった恐ろしい刃物を持って、みのりちゃんを追い掛けます。みのりちゃんは、ただ逃げ回ることしかできません。
今までも、沢山怖い思いをしました。
ある時は地球を侵略しにきた宇宙人にUFOの群れからビームを撃たれ、ある時はビルよりも大きな怪獣に自分のいる街を破壊されます。そんな中、みのりちゃんは逃げ回り、大怪我を負うこともあれば、死んでしまうような感覚になったこともありました。他にも、意識が有るまま手術でお腹を刻まれて中身を取り出されたり、街の外れにある有名な幽霊屋敷に閉じ込められて沢山の幽霊に追い回されたり、学校で仲が良いはずのお友達から酷い嫌がらせを受けたり、優しいはずの両親から暴力を振るわれたり。見る内容は様々です。
そんなことが毎晩起きるのです。今では、もう眠りたくない、と思うくらいには、目の下にクマができてしまうくらいには、みのりちゃんの心はとても疲れてしまっていました。できるだけ眠らないように頑張っているので、一日中、昼間でも眠くて大変です。
そして、今。
みのりちゃんは必死に逃げた先で、やっと隠れられそうな場所を見つけることができました。
ごちゃごちゃした部屋の中。学校で見慣れた教壇の中に、身を縮こまらせて息を潜めます。少しの静けさの後、恐る恐る覗くようにして来た道を振り返ります。そして、バケモノ達の姿が見えないことに安心して、ほぅ、と一息吐きました。
もしかしたら今回は、無事に起きられるかもしれません。これ以上は何事も無いように祈りながら、元の位置に戻ります。
その時でした。
「やぁ」
突然頭上から、場違いにも思える陽気な声が降ってきました。
教壇の上にいるのでしょう。思わず見上げれば、逆さになった見知らぬ生き物らしきものが、黒い頭と前足だけを見せて、つぶらな瞳でこちらを覗き込んでいます。
みのりちゃんは、ひぃっ、と声を引きつらせてしまいました。
見つかった。そう思ったのです。
もう殺されるか食べられるかするんだ、という諦めと覚悟が脳裏を過ぎります。それは何度体験しても、慣れないことでした。
ところが。その生き物はそこから動かず、こちらには何もしてこないようです。
「ああ、ごめんね、怖かった? もう大丈夫だよ」
身を強張らせたみのりちゃんの様子を見て、その生き物はにっこりと笑ってそう言いました。
「ボクが、怖いの全部、やっつけてあげる」
ゆるゆるとずり落ちるようにして、とん、とみのりちゃんの目の前に降り立ちます。その姿はよく見れば、動物図鑑で見たことがある、『バク』によく似ていました。
象に似た鼻は象より短く、サイに似た体に、前足は四つ指、後ろ足は三つ指、色は黒と白をツギハギしたみたいです。大きさは大型犬くらいでしょうか。夢だからか、少しファンシーでポップな、可愛らしい印象を受けます。声からしても、自分と同い年くらいの男の子のように聞こえました。
「ボクはバク。夢を食べる生き物だよ。だから、キミの夢の怖い部分を食べて、怖いやつらをやっつけることができるんだ」
「バク……君?」
恐る恐る、みのりちゃんも話し掛けてみます。するとバク君は、嬉しそうに応えました。
「そう! 君は?」
「……人間」
「じゃなくて、名前だよ! ボクは特に無いけど、キミはあるでしょ?」
「……みのり」
「そっか! じゃあみのりちゃん、安心して待っててね」
ぽて、ぽて。ゆったりとした足取りで、笑顔のバク君は教壇の影から出ていきます。
そして遠くから、古びた服の裾やどろりとした液体を滴らせる体をのろのろと引きずる音、それから、それらに重なる呻き声が近づいてきているのが、うっすらと聞こえてきました。
そうでした。今は、沢山のバケモノ達から追われているのです。怖くて強くて、捕まったらひとたまりもありません。バク君だって、どうなることでしょう。
心配になったみのりちゃんは、再び恐る恐る、後ろの様子を覗くことにしました。
部屋の扉は開けっ放しの状態で壊れていて、動かすことはできません。その向こう側からは、バケモノ達の蠢く姿が見えてきていました。廊下を曲がって一本道の突き当りにあるこの部屋に、逃げ道はありません。バケモノ達はこの部屋へ、バク君へとまっすぐよろよろ、近づいてきます。
バク君はそんなバケモノ達を見ても怖がる様子も無く、堂々と向き合っていました。
そして、メトロノームのように、ゆっくりと鼻を左右に揺らしました。
ゆら、ゆら、ゆら、ゆら。
まるで、ゆったりとした子守唄のリズムで寝かしつけるように、赤子の寝かされた揺り籠をそうっと揺らすように、少し長い鼻を動かします。
すると、どうしたことでしょうか。
恐ろしい姿をしていたバケモノ達は一瞬にして、パッ、とその全身を沢山のお花の群れへと変えられてしまいました。その手に持っていた包丁や斧はその場に落ち、床で跳ね返る瞬間にまるで銀の水飛沫を上げたかのように、沢山の鈴となって澄んだ音を響かせます。周囲の音も景色も埋もれる程に反響する綺麗な音色に飛び込むように、服を着ていたバケモノ達は花々が溢れる服をぺしゃんこに靡かせて、無くなったその体を地面に伏せさせます。自分の起こしたわずかな風に舞い散る花々は、ふわりふわふわ、あちらこちらへと吹き飛んでしまいました。残された服は、まるで牡丹雪が朝日で解けるようにして、細かくきらきらと光る粒へと溶け、跡形も無く消え去ります。
これには、みのりちゃんもびっくりです。思わず、感嘆の声が出ました。
「わぁ……!」
「はい、終わり。あとはそうだな、この景色も変えちゃおう!」
振り返ったバク君は、にこりと笑った後、煤けて蜘蛛の巣だらけの高い天井を見上げると、前足で指して言いました。
ゆら、ゆら、ゆら、ゆら。少し長い鼻が揺れます。
今度は、建物が一気に外側へと倒れるようにして崩れました。暗くて狭い場所から一転、光が差し込みます。次の瞬間には一面に、吸い込まれそうな程青い空が広がっていました。
すぐ目の前には、大きな虹が架かっています。その真ん中の一番高いところからは長い長いブランコが一つ、しゅるしゅると七色のツルを編み込みながら伸ばすようにして垂れ下がってきました。虹はその七色から、それぞれの色の柔らかい光を雪のように降らせています。その光が地面に触れると、そこからは透明な水が波紋を重ねながら広がってゆき、あっという間に辺り一面が大きな湖のようになってしまいました。建物の瓦礫は水の中に沈んでゆきますが、みのりちゃんとバク君は水の上に立ったままです。水の中をよく見てみれば、逆さに木々や花々が生い茂り、森になっているように見えます。水面には綺麗なままの青空が映り込み、まるで今いる場所すべてが青空で、自分が空を飛んでいるかのような気持ちにもなります。
みのりちゃんは、いつの間にか笑顔で周りを見回していました。
「空が飛びたければ、それもできるよ!」
まるでみのりちゃんの心を読んだかのように、バク君はそう言いました。
みのりちゃんを怖がらせるものは、もう何もありません。バク君に対しても怖がること無く、話すことができます。
「ううん、大丈夫」
「そっか。あ、このブランコ乗ってみてよ。自信作なんだ!」
「ありがとう。可愛いブランコだね」
「へへへ。あと、沢山漕いだら凄いんだよ。振り落とされないように気を付けてね」
「ふふ。うん、気を付けるよ」
褒められたバク君の照れ隠しのような冗談に、みのりちゃんもつい笑ってしまいました。
ブランコはハンモックのような座り心地で、柔らかいのにしっかりとした安定感があります。少し脚を動かせば、ゆうるりと静かに揺れ始めました。
ゆら。ゆら。
みのりちゃんの脚に合わせて、ブランコは小さく揺れます。
少しして心が落ち着いたみのりちゃんは、ふと表情を落として、ぽつり、話し始めました。
「……私、最近怖い夢ばかり見るから、こういう夢は久しぶりなの。いつも夢だってわかってても何もできなくて、起きるまでずっと怖いまま。だから最近、眠りたくないって思うんだよね。眠らないでいい方法があったら良いんだけど……」
真剣な悩みです。
そんな話に、向かい側でぽってり座っていたバク君は首を横に振りました。
「待って。夢が怖くても、ちゃんと寝ないと健康に悪いよ。人間だって電子で動いているんだから、休まないと心にも体にも不具合が起きちゃう」
「でんし……?」
聞き慣れない言葉に、みのりちゃんは首を傾げました。寝ないと体に悪いだとか、寝ないと脳が休まらないだとか、そういった話は聞いたことがありますが、『電子』とやらは初耳です。
「ええとね。まず、人間の魂はたまに写真とかに写ることもあるけど、赤外線や紫外線みたいに基本は見えない光でできてて、それが満ちて動かしてる肉体は電気信号で動くんだ。つまり、どっちも『電子』でできてるの。魂の光が肉体の外に漏れてる分は、『オーラ』とか『気』とか言われてるけどね」
そう、バク君は説明を始めました。
「で、その電子と原子核の集合体である人間がまともに肉体を機能させるには、まともな電子の働きが必要なんだ。でも、電子は使う程に熱暴走になったり、電気信号が混線したりして、肉体の機能に遅延や誤作動が起きてしまったりする。例えば、認識能力や自然治癒能力が低下したり、酷ければ幻覚や幻聴を見聞きしたりね。そもそも、電子が沢山集まって、その集まりの中でも一番大きな塊で一番強い影響力の『意識』本人からして、体調不良とかで余計な影響を受けると、前提の定まった日常にあるはずの自身の電子の観測が不十分な状態になるんだ。そりゃあ、現実に見える観測結果も曖昧でバラバラになるよね、って話だよ」
やれやれ、といった様子で、バク君は両前足を肩まで上げて、首を横に振りました。
「電子は時々電磁波を出して、原子核に引っ張られちゃうくらいエネルギーを失うんだけど、それにも限界があってね。そのエネルギーを補うのが食事、そして、電子の調子を調整するのが睡眠なんだ。寝ると肉体の動きが抑えられて細胞一つ一つがほぐれて緩むから、起きてる時は忙しなく動いていた電子も、動きを鎮めて休息を取れるってわけ。一応、水で肉体の表面の電子を洗い流したり、地面に直接触れたりして放電することで応急処置もできるけど、これはこんがらがったり高まり過ぎた余分な電子を外に出してるだけで、人間含め生き物との交流ではエネルギーの交換も多少できるけど、結局どれもちゃんと休めてるわけじゃないから、結局睡眠は必要なんだよね。植物なら自ら動かなくても水も栄養も摂れて放電だってできるけど、動物はそれらをするために動かなくちゃならないでしょ? 今じゃあ地面の場所は限られてるし、世界中が電磁波で満たされてる。だから余計に電子はエネルギーを使わなきゃいけなくて、むしろ使われてる状態で、その分休息も沢山必要になってるんだよ。脳の無いクラゲやヒドラだって睡眠を取るんだ。知能も理性も高水準で扱える脳を持つ人間なら、電子だって大変さ。尚更ちゃんとした睡眠を取るべきだよ」
「……でも、怖い夢見ちゃうから……」
細かいお話はあんまりわかりませんが、ちゃんと寝るように言われているのはわかります。それでも、みのりちゃんは渋りました。だって、毎晩、怖い夢を見てしまうのです。怖いものは、見たくありません。
「ああ、それなら、『怖い夢を見ちゃう』って思うのをやめると良いよ。嫌なものは嫌だ、って一度認識してただ受け入れたら、あとは忘れたりするくらいほとんど気にしないようにできるんだ。ただ、肉体には生体恒常性っていう、生きるために肉体の状態を一定に保つ機能があるから、いきなりは難しいだろうけど。でも、少しずつならできるでしょ?」
バク君は、そう提案しました。
「……そんなこと、できるかな……」
みのりちゃんは、まだ不安から抜け出せません。そう思える自身が無いのです。
「電子は意識が『こんなはずだ』って信じるものを実現させるんだよ。例え疑問を持っても、考えられる中での一番信じられる答えを現実に反映させるの。その疑問と答えも繰り返し意識に刷り込めば、観測の条件を確信させて確定、揺るがないものにするのも同然で、外部の電子への働き掛けもそれに合わせたものになるんだ。他人の意識は本人以外に変えられないけど、自分の意識なら変えようと思えば変えられるから、自分が『できない』って思ったら、本当にそうなるように電子は動いてしまう。だから、実際にはできない状態でもまずは『する』とか『できる』って思わなきゃね。求めているってことはそれが無い状態で、拒みたいってことはそれがある状態。で、意識を集中した先にある状態を、電子は実現させようとする。だから、欲しがる程に無い状態を意識してしまって、その欲しいものは遠いものになってしまうんだ。いわゆる、『物欲センサー』の仕組みだね」
「ぶつよくセンサー?」
「みのりちゃんは知らなくてよかったね。うん、ごめんね、忘れといて」
「うん……?」
言葉を濁すようなバク君に、とりあえず、みのりちゃんは頷いておきました。
「とにかくね。『怖い夢を見た』っていう仮定の結果を信じるから、『怖い夢を見る』っていう過程の原因を作っちゃうの。『逆因果』ってやつ。だから、執着して持つのは今自分が頑張っていることの現状維持だけでいいし、諦めて捨てるのはいらないものだけでいいんだよ。あとは目印として気に留めておく程度で十分。その方が効率的で省エネだし、気も楽になるよ」
「ううん……」
みのりちゃんは、どうにも煮え切らない返事になってしまいます。
怖い夢は見たくない。そのためには、怖い夢のことは考えない方がいい。でも、まだまだ、それはみのりちゃんには難しいことです。
悩むみのりちゃんを見て、バク君も少し黙ります。そして、閃いた様子で声を上げました。
「あ、そうだ!」
その声に、みのりちゃんは顔を上げます。
良い案だ、とばかりに、バク君は笑顔で続けました。
「じゃあ、みのりちゃんが怖い夢を見ても、またボクが助けに来るよ! それで、楽しい夢に作り変えてあげる。今日みたいに! ……これなら信じてくれる?」
「ううん……それなら……?」
みのりちゃんは、自信無さげに応えます。それでも、少しは前向きになれたような気持ちになりました。確かに、今日はバク君に助けられましたし、悪夢は楽しい夢へと変わったのです。
バク君は、そんなみのりちゃんを安心させるように笑っています。
「大丈夫! 信じられるようになるまで、ううん、信じられるようになった後だって、絶対に助けに来続けるから」
それは、確信を持ったような、力強い言葉でした。
「……わかっ、た」
みのりちゃんはようやく、ぎこちなくも首を縦に振りました。
少し不安ですが、どちらにしろ、結局眠ることからは逃れられないのです。ならば、バク君を信じてみる方が希望が持てます。少しでも、安心できるかもしれません。
一応は信頼されたからなのか、笑顔がより明るく見えるバク君が、たむ、と両手を叩きます。
「じゃあ、この話はこれでおしまい! 今日は何して遊ぼっか。何かやりたいこととか欲しいものとかある? 夢だからね、なんでもすぐに作り出せるよ!」
「えと、じゃあ、お話……? ここ、綺麗だから、ここでお話したいな……。バク君のことも、よく知らないし……」
元気良く言うバク君に、みのりちゃんは控えめに応えました。
「そういえば、お互いのこと、あまり知らないよね。うん、じゃあ今日は沢山お話しよっか! まずはボクからね!」
バク君は二本脚で立つと、片方の前足を挙げて、続けて自分の胸に当てました。
「改めまして、こんばんは。ボクはバク。夢を食べる生き物だよ。夢っていうのはね、現実で体験した出来事を記憶するために整理する役割があって、その記憶の残骸でもあるんだ。料理で言えば、野菜を剥いたその皮かな」
「……ふふ。何それ」
冗談めいて言うバク君に、みのりちゃんも思わず笑みがこぼれます。
「本当だよ。それで、ボク達バクはそんなわずかな、切れ端にもならない量で満足できるんだ」
「ふぅん。栄養は足りるの?」
「情報量次第かな。沢山の情報が整理されたら、それだけ栄養価も高いんだ」
「そっか、夢は情報でできてるから。だから、バク君は物知りなんだね」
「ボクは沢山の人のいろんな夢を知ってるからね。それに、さっきみたいに、夢を作り変えることだってできるんだよ」
「じゃあ、夢を最初から楽しい夢にすることもできるの?」
みのりちゃんは、少し期待して訊きます。ですが、バク君は首を横に振りました。
「それは無理かな。それだと材料無しで料理を作るようなものだよ。絶対に作れないでしょ? 材料となる夢が無いと、それを『料理』することはできないんだ」
「そっか……」
バク君の答えに、みのりちゃんはしょんぼりしました。もしも夢を最初から作り変えられるのなら、もう怖い夢を見なくていい、と考えたからです。ですが、どうもそう旨くはいかないようです。どうしても、怖い部分は取り除けないのです。
「大丈夫。絶対にボクが助けるから。だから、これからはもっと寝るようにしてね。沢山夢を見たら、それだけ沢山楽しい夢にして遊べるよ。約束!」
「……、うん」
――――じゃあ、また夢で!
沢山お話した後。目が覚める直前に聞いたのは、そんな、嬉しそうに弾んだ声でした。
それからというもの。みのりちゃんは相変わらず怖い夢を見てしまいますが、毎回、必ず、どこからかバク君が助けに来てくれるようになりました。バク君が来れば、怖いやつらをすぐにやっつけてくれます。
そして、笑って言うのです。
「今日は何して遊ぼっか!」
それが、楽しい夢が始まる合図となりました。
ある時は、巨大なヒヨコのふわふわとした柔らかい羽毛に埋もれて、ほのかに温かいわずかな揺れにまどろみました。お布団よりも寝心地が良くて、全身を毛布でくるんだ時よりも安心できる寝床でした。
またある時は、お菓子の家のクッキーの壁や飴の窓を、取り外して食べてみたりもしました。甘い匂いに囲まれて、口の中まで甘い味で満たされて、そうして全身が蜜に浸されるように、まるで自分までもが甘い砂糖菓子にでもなったかのような気分になりました。
静かな森があれば、地面に寝転がって、背の高い木々に縁取られた空の移り変わりを、ただぼーっと見上げたこともあります。時々さわさわとさざめく木の葉の音を聞けば、優しい風が頬を撫で、空が朝から昼へ、昼から夕方へ、夕方から夜へ、そして明け方へ、とゆっくり回るようにその姿を変えていきました。
呼吸ができる海があれば、魚やクラゲ達と一緒に、サンゴ礁や海底遺跡で泳ぎ回ったこともあります。下を見れば鮮やかな色が横切り、自分の影を覆うように網のようになった波の影が揺らぎます。上を見上げれば、眩しく煌めく光が影の代わりに波打っているのが見えました。
煌びやかに賑わう遊園地があれば、だぁれもいない貸切の中、メリーゴーランドやコーヒーカップ、観覧車を乗り継ぎました。楽しげな音楽の中、ピカピカ、チカチカ、眩しいまでに色鮮やかな電気の光が走り、くるくると回ります。ライトや花火が夜空を照らし、ぼんやり染め上げました。
バク君は、沢山の人のいろんな夢を知っています。だから、とても物知りなのです。
そして、そのいろんなものを夢の中で再現することもできるのでした。
美味しい食事、綺麗な風景、可愛いお洋服、格好良い機械、楽しいアトラクション、色々、色々、色々――――。
「次はどんな夢を見ようかな」
バク君と出会ってから、何十回と夢を見た先。
そんなことを笑顔でバク君と話し合うくらいには、みのりちゃんの夢への抵抗感は薄らいでいました。むしろ、楽しみになってきてさえいます。
夜にぐっすり、沢山寝るようになったので、昼間も眠い、といったことが無くなりました。目の下のクマも薄くなり、もうほとんど見えません。頭も冴え渡って、考えることが楽になりました。体も軽く感じます。
だから、もっといろんなことをしたい、と思えるようになりました。それを考える思考力も、それを実行する体力も、元気になった今では十分です。自分から進んで行動するための気力が、意欲をそそります。
時間を忘れて、現実のことも忘れて、楽しく遊び倒した、ある日のこと。
みのりちゃんは、どこからか、女の人の声が聞こえてくるのに気が付きました。
次第に大きくなってゆくそれに耳を澄ませて集中してみると、どうも自分の名前を繰り返し呼んでいるように聞こえます。やがて、怒っているような声色に聞こえてきます。
思い出しました。お母さんの声です。
どうやら、もう朝。起きる時間のようです。
「……起きなきゃ」
晴れ渡った青空の下、四つ葉のクローバーが敷き詰められた原っぱの中。
みのりちゃんはシロツメ草で冠を作っていた手を止めて、呟きました。小さく揺れた頭から、輪になっていた黄色い小さな蝶々達が、数匹飛び去ります。
「なんで?」
同じくシロツメ草の冠を作っていたバク君が、みのりちゃんへと顔を上げました。
「お母さんが呼んでる。朝だ」
「もう少しいたら?」
「ダメだよ。お母さん、怒ると怖いんだって。もう怒ってる。早く起きなきゃ」
そう言って作りかけの冠を地面に置いて、みのりちゃんは立ち上がります。頭にいた蝶々達は、みぃんな飛び去ってしまいました。
「……前は、『もっと夢にいたい』って言ってくれたのに」
少し不機嫌そうな困り顔で、バク君は作りかけの冠を、きゅ、と握りました。
「現実なんて、いくら周りに沢山人がいても、分かり合えないなら独りと同じだよ。寂しいよ? それどころか、嫌な目に遭うことだってあるでしょ。夢なら独りでも楽しくできるし、それに、ボクもいるよ! ……それとも、ボクじゃ足りなかった? 何か不満だった? やりたいこと、欲しいもの、何か間違ってた? ……何がいけなかったの?」
バク君は、悲しそうに尋ねます。少し、焦っているような声色にも聞こえました。
みのりちゃんが今までは起きる時間になっても夢にいようとしたのに、ここ最近はあっさり起きようとするので、少しそっけなく思われてしまったのかもしれません。そんなことは無いのですが、どこか、胸が痛みます。
次に会う時までに、また新しい何かを発見してくれば、誤解を解けるでしょうか。
以前、現実で知ったからと「バク君って、電子をそのまま食べるのなら電気細菌なの?」と訊いた時はさすがに怒られたので、話題の内容にも注意してみます。
物知りなバク君は、いつだって、何を話しても嬉しそうに色々と教えてくれます。現実にはまだまだ知らない面白いものが実在しているのだと、外の世界を広げてくれます。
独りでも、現実を楽しめるのだ、――――と。
「また来るよ。だから、待っててね。じゃないと、誰が私を助けてくれるの?」
みのりちゃんは笑顔でそう言って、小さく手を振りました。
「じゃあ、また夢で。絶対、次も助けてね!」
それは、信じているからこそ出た言葉でした。
「……うん。任せて!」
夢が終わる頃には、バク君にも笑顔が戻っていました。
にこにこ、にっこり。すっかり、ご機嫌に元通り。
そして――――夢の世界が、崩壊します。
みのりちゃんが起きて、現実に帰った後。光も何も無い真っ暗な中で、独り、バク君は次の『夢』を考えます。わくわくどきどき、そしてちょっと、恥ずかしそうに照れながら。
次の『悪夢』はどんなのがいいかな、と構想を練り始めました。
バク君は、夢をゼロから作ることはできません。でも、夢の楽しい部分だけを食べて、怖い部分やつらい部分だけを残し、結果として、夢の主に悪夢だけを覚えさせることはできます。そして、悪夢を食べて、食べかけの悪夢を少し弄って、楽しい夢に作り変えることも。これは食べ物で遊んでいるわけではありません。料理で言うところの、『飾り切り』や『アレンジ』といったところです。
バク君は、そういったことが大の得意でした。
みのりちゃんも喜んでくれて、自分も美味しいものでお腹いっぱいになれて嬉しい。まさに一石二鳥だな、とバク君は笑顔になりました。
黒よりも深く、真っ暗な中。
光は無いのに、バク君の心は灯されたように温かく、柔らかい明かりを感じます。
じんわり、ほっこり。全身を浸すように満たされます。
「次は、どんな夢を見ようかなぁ」
それは、とても幸せそうな独り言でした。
『物欲センサー』を量子力学的な実験にしたら経費を好きなソシャゲのガチャに使えるな、って思ったこともありますけど、そもそも課金層ごとにガチャの確率って絞られるようですし、かと言って思い入れも無いただの実験システムには物欲センサー働きませんし、仮に運営会社の協力があってガチャの確率を平等にしても個人アカウントへの贔屓として問題になったり、後々データを元に戻すとしてもそれじゃ目当てのキャラが出ても結局は消されて意味が無い=物欲センサーの弱体化になって実験になりませんし、難しいところですよね。チッ(代弁)。