第四章 願いと代償(3)
「貴方のその目……すごく、綺麗ね」
やり直しを始めたばかりの頃に、リーシャから告げられた言葉。その初めて出会った時と変わらぬ彼女の言葉に、ツルギが身を震わせる程の歓喜を覚えたのは記憶に新しい。
グィニードとの契約通り、リーシャはツルギのことを覚えていなかった。それでも、彼女は変わらず彼の瞳を好いてくれたのだ。
リーシャが、目の前で生きている。そして自分を拒まずに受け入れてくれている――それだけで、ツルギは何もかもを捧げても構わないと、心の底から思ったのであった。
――そうして始まった二週目の人生。しかし、その進む方向は思ってもみないものであった。
ツルギが変えようとしていた彼女の破滅の未来を、リーシャは自身の力で変えようと動き出したのだ。そうして自らの意思で運命を切り開いていくリーシャの行動力は、かつての姿とはかけ離れたものであった。
以前の彼女は周囲に気を遣い、求められる己の役割を果たすことを自らの使命としていた。
しかし、今は違う。彼女は自分を道具としてしか捉えていない周囲に見切りをつけ、殺される未来に抗うために戦いはじめた。
強い意思を持ち、やりたいことに挑戦するリーシャ。その姿は今まで以上に美しく、そして魅力に溢れていた。
嬉しそうに輝いた顔、楽しそうに唇を綻ばせる笑顔、期待と緊張に張り詰めた真剣な顔――そんな初めて見せる彼女の表情ひとつひとつにツルギは魅了され、目を奪われた。その輝きが、眩しかった。
そして同時にそれが苦しさを伴うものであることに気がついた時、ツルギは雷に打たれたような衝撃を受けたのであった。
――リーシャを支えられれば、それで良いと思っていた。そのはずだったのに。
自分を信頼して見せてくれる彼女の心からの笑みを、そして他の誰にも見せたことのない彼女の悲しみの涙を。いつまでも自分のものにしたいと……いつしかそんなことを願ってしまっていた。
それが危険な願望だということに、ツルギはすぐに気がついた。この気持ちが膨らんでしまったら、きっと自分はリーシャのそばを片時も離れられなくなってしまう。彼女が自由に羽ばたいて自分を忘れることを恐れて、リーシャを鳥籠に閉じ込めてしまいたくなる。
彼女を自分だけのモノにしたいという醜い欲望がじわじわと心を侵しつつあることを、ツルギはしっかりと自覚していた。
――それこそが、悪魔との契約の恐ろしいところなのだ。
彼らは間違いなく公正だ。願ったことは遺漏なく実行されるし、求めた以上の対価を奪っていくこともない。
しかし、彼らの求める対価は契約者の心の柔らかいところを確実に抉っていて、契約した人間の心を蝕むのだ。望みの叶った契約者の先に用意されているのは、破滅へと続く綺麗な一本道。
それ故に、悪魔との契約はどこまでも慎重に行わなければならない。
だから、これ以上自分の欲望が膨れ上がる前に。取り返しがつかなくなる前に一旦リーシャと距離を置こうと、ツルギは苦渋の決断を下したのであった。
ハロルドによる断罪が回避された今、リーシャの身を脅かす危険はひとまず去ったと考えて良いだろう。少しの間彼女から離れれば、契約の効果通りリーシャは自分のことを忘れるはずだ。
そうしたら、ただの使用人と主人の関係に戻ることができる。
一度二人の信頼関係をゼロに戻して彼女の特別な一面を目にすることがなくなれば……心を許した笑顔が自分に向けられなくなれば、こんな醜い衝動からは逃れられる――そう、考えたのだ。
張り裂けそうな心の痛みを無視して、ツルギは足を急がせる。
今頃はきっと、リロイ王太子がリーシャを称えて彼女への特別な想いを明らかにしていることだろう。リーシャはまだ迷っていたが、社会的にも人間的にもリロイは望ましい男性だ。彼と一緒になれば、彼女が幸せになれる可能性は高い。
そして相手が王太子であろうともし彼がリーシャを泣かせるようなことがあったら、ツルギは容赦なく彼を排除するつもりであった。
リロイの横で幸せそうに微笑むリーシャを想像すると、心臓が苦しくなる。ああ、そういえば自分だけが彼女の特別で居たいと思うようになったのも、リロイがリーシャへの愛を口にするようになってからだった。
いけない、とツルギは挫けそうな己の心を叱咤する。止まりそうになる足を懸命に動かしながら、パーティの喧騒が届かない屋敷の外へと進んでいく。一度足を止めてしまったら、そこからもう進めなくなってしまいそうだ。
そうして必死の思いで逃げるように庭へと出たところで……「待って!」と、聞こえるはずのないリーシャの声が後ろから響いたのであった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「お願い……待って!」
遠ざかっていく背中に向かって、リーシャはあらん限りの声を振り絞った。
見覚えのある背中は、その声を聞いて静かに足を止める。しかし、前を向いたまま背中の主はこちらを向こうとはしてくれない。
振り向かない彼を前に、リーシャは気持ちを落ち着かせようと静かに深呼吸を繰り返す。――何を探しているのかもわからず、ただ自分に足りない「何か」を追って駆け出していたリーシャ。それは深い霧の中を手探りで進んでいくようで、足元すらおぼつかない不安な探索であった。
でも、その背中を見た瞬間に不安は確信へと変わった。欠けているのは彼だ、と相手の名前もわからないのに実感を掴む。
「お願い……こっちを向いて」
呼びかける名前がわからなくて、震える声でリーシャは懇願した。
少しだけ躊躇いを見せてから、目の前の彼はゆっくりと振り返る。黒い髪がふわりと風に靡き、その顔を露わにした。キリリとした眉、すっと通った鼻筋、薄い唇……そんな精悍な顔立ちがリーシャの記憶に残ることなくするするとこぼれ落ちていく中で、ただ彼女を見つめる灰緑の瞳だけがリーシャの魂を撃ち抜いた。
優しく、甘く、それでいて苛烈な程に熱の籠もった灰緑の瞳。リーシャをずっと見守ってきてくれた、忘れたくないその視線。
――間違いない、彼だ。私の執事だ。
「お嬢様、どうして……」
執事の言葉を最後まで待たず、リーシャはその身体に飛びついていた。
淑女らしさなんて気にする余裕もなく、似合わない化粧や髪型が崩れることも構わなかった。ただ、彼が離れてしまうことだけが不安だった。
震える彼女の身体を抱き止めてから、彼は躊躇いがちにリーシャの肩に手を伸ばす。
「まだ、パーティの途中では? リロイ様のことはよろしいのですか?」
驚きを滲ませながらも落ち着きを保った彼の言葉に、リーシャはイヤイヤと首を振った。
「そんなことより、貴方のことの方が大事だったの。私を置いて、何処に行こうとしていたの? お願いだから、居なくならないで……私のそばに居て……! 私は……」
一瞬だけ言い淀んでから、リーシャは激情を迸らせるように言葉を放つ。
「貴方のことが、好きなの! 貴方の名前も顔も覚えられない私がこんなことを言うのおかしいってわかっているけれど……でも、ずっと貴方だけが私の心の支えだった。先の見えない真っ暗な現実で、貴方が私の手を引いてくれた。そんな貴方のことを、私の大切な半身を忘れたくないの!」
「お嬢様……」
呆然とリーシャの告白を聞いてから、執事は苦しそうに首を振る。
「そんな、一介の使用人の俺では貴女を幸せにできません。俺は、お嬢様に幸せになって欲しいんです。そのために、俺は……」
「貴方のそばに居られれば、それで幸せよ!」
噛みつくような勢いでリーシャが断言すると、執事は驚いたように目を瞬かせる。
「前に言ってくれたじゃない、『本当に望むなら、私を連れて逃げてくれる』って。あの言葉は嘘だったの?」
「いえ、そんなことは……」
それ以上言葉を濁して、執事は口を噤む。
しばらく訪れた沈黙が、リーシャの高ぶる感情を静かに現実へと引き戻した。
「……ごめんなさい、貴方の気持ちも聞かずに勝手なことばかり言って。よく考えたら私、自分の都合ばかりだったわ。今の言葉は、忘れてちょうだい」
初めて彼から「逃げても良い」と言われた時は彼に迷惑を掛けられないなんて考えていたくせに、いつの間に自分はこんなにも我が儘な人間になってしまっていたのだろう。誰かを好きになることが、こんなに身勝手な考え方に繋がるなんて思ってもみなかった。
辛そうに目を伏せて、リーシャはそっと彼から離れようとする。しかし、その身体を執事はそっと引き留めた。
「本当に……俺なんかで、良いんですか。ここで貴女が頷いてしまったら、俺はもう二度と貴女を離すことができなくなるでしょう。いつか貴女が自由を願っても、その時には逃がしてあげられなくなってしまいます。それでも……構いませんか」
囁くような掠れた声がリーシャの耳朶を打つ。
力がこもっているわけでもないのに、その声にリーシャはぞくりと背筋を震わせた。彼の言葉が誇張でないことは、その熱く絡めとるような視線が雄弁に物語っている。
その執着に満ちた視線を受け止めて、リーシャは迷わずに真っ直ぐ頷く。
「えぇ。構わないわ。家を捨てる覚悟だって、できている。たとえ貴方が悪魔でも……喜んでこの身を捧げましょう。貴方を、愛している」
「悪魔でも、ですか……」
その言葉に低い声で笑う執事の呟きに、リーシャは首を傾げる。
――彼女は、知る由もない。実際に悪魔と契約した彼が何を望み、何を失ったかなんて。彼が絶対に手に入らないだろうと諦めていた存在が、欲しいと思うことさえ己に許さなかった対象が自分だったなんて、彼女はまだ知らない。
それでも、リーシャは彼を選んだ。もう彼から離れることはできないだろうなと予想しつつも、その甘やかな拘束に喜んで身を差し出した。もう二度と、彼のことを忘れたくなんてないから。
リーシャの言葉を聞いて、執事は覚悟を決めたようにリーシャの手を取った。彼の長い指がリーシャの手をゆっくりと確かめるように絡めとっていく。
「えぇ、お嬢様。俺も貴女を愛しています。貴女のためなら、何を失ったって構わない。……約束します、必ず貴女を幸せにすると。そのために、俺はここに居るのだから」
彼の手をしっかり握り返して、リーシャは顔を上げた。二人の視線が交差し、言葉はなくともお互いの感情が、熱が伝わっていく。
静かに頷いて、リーシャはひと言だけ口にした。
「何度でも、貴方も名前を教えてね」
ええ、と答える彼の声は囁きにすらならず、見つめ合う二人の距離は徐々に近づいて……そして、そっと唇が重なった――。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「ふーん。結局オジョーサマが新しい恋に走ることも、あのコの執着が暴走することもなくハッピーエンドになったのねー」
二人の姿を眺める、第三の声。
中空に浮かぶ鏡を通して彼らの動向を見物していたグィニードは、彼らの出した最終的な結論に無責任な感想を洩らしていた。
彼らの動向を逐一監視しては、楽しんでいたグィニード。それがひとまず落ち着いてしまったことに、少しばかり肩透かしを覚えてしまう。ハッピーエンドが好きな彼ではあるが、結局のところ悪魔である彼はそこに至るまでの苦悩が大好物なのだ。
その結果痴情のもつれによる事件が起きても、もしくは本当の気持ちを押し殺した歪な終着を迎えても、それはそれで楽しめると思ったのだが……意外にも彼らは迷いなく一番良い選択肢を掴み取っていった。それは些か、人間の苦悩を娯楽としている悪魔にとっては物足りないくらいで。
「うーん……ロマンス小説だったら、愛のキスで呪いが解けるのがお決まりではあるけれど……」
グィニードとしも楽しませてもらった分、奪った代償を返すこと自体はやぶさかではなかったのだが。
「もうちょっと……彼らには苦しんでもらった方が、楽しいかも?」
気まぐれなのは、悪魔の性分。
幸福に緩む二人の空気を一瞥して、グィニードはあっさりとそんな結論を下す。
「それにしても、面白いモノね。相手の姿もわからないままで、好きになるなんて」
そう呟いて首を振るグィニードは、結局人間のことがわからない。わからないからこそ、時々彼らを観察したくなるのだ。
「せっかくワタシのチカラを貸してあげたんだもの、もう少し楽しませてもらうわ」
そんなことを口にしながらも、グィニードは薄々察していた。
どんな困難が降り掛かろうと、きっと彼らが挫けることはないのだろうと。想いが通じ合った彼らに、もう恐れるものなど何もないのだから。
異界へと繋がる鏡は、ただ静かに仲睦まじく寄り添う二人の姿を映し続けている――。
これにて本編完結です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
下部の星マーク、ブックマーク登録にてぜひ応援をよろしくお願いします。(これがめっちゃ励みになるんです……!)
「お嬢様に一途な使用人×お嬢様」の組合せがイイネ!という方は別作品の『悪役令嬢は、護衛騎士の裏切りの理由を知りたい』もオススメです。
https://ncode.syosetu.com/n9697hm/




