第九話 車椅子での再会
車椅子で待合室に向かうと、助けてくれた男性がスマホを触りながら座っていた。
待合室は携帯電話の使用が可能なようだ。
検査や診察でかなり時間がかかったはずなのに、イライラしている様子を微塵も感じない。
「すみません、ずいぶんお待たせしてしまって。えっと、たち、ばなさん?」
声をかけると、スマホをポケットにしまいながら、笑顔で振り向かれた。
「はい、橘優太です。お怪我の状態いかがでしたか?」
優太は立ち上がろうとしたが、座ったままのほうが車椅子の結と目線が合いやすいことに気付いたのか、もう一度腰を下ろした。
「それが……。一週間、少なくともニ、三日は入院が必要とのことで」
「そうですか……。でも、初期の段階でしっかり休養と治療をするのは賛成です。無理をすると、後々まで響きますからね」
「でも、仕事が中途半端になってしまいます」
「お仕事は何を?」
「営業です。確か、橘さんも……」
(名刺に『リーダー』って書いてたはず)
「はい、営業部に所属してます。そうか、同じようなお仕事だったんですね。取引先のこともあるし、商談がまだ纏まっていないものもあるのでしょうか?」
「そう! そうなんです! だから、本当は入院してる場合じゃないんです」
「でも、その足では、しばらくは外回りは難しいと思いますよ。先方も驚きますし。同情で契約が取れるほど甘くはないでしょう? それに、松葉杖をついた人を寄越さないといけないほど人員が足りないのか、もしくは社員を大事にしない会社なのか……と、心証が悪くなる可能性もあります」
この人なら仕事に穴を開けられないことを分かってくれるかも、と期待したがバッサリと切られてしまった。
しかし、言われたこともその通りだと思った。
松葉杖で商談に行って、「気の毒だと思うなら、契約してください」みたいな魂胆だと思われかねない。
真剣に勝負に挑んでいるのだから、それは癪だ。
「確かに、おっしゃる通りです……。上司と相談してみます」
「それが良いですね。部下が困っている時に隠されるよりも、相談してくれるほうが僕は嬉しいです。信頼されてるのかなって」
「そうなんですか。今後、気をつけます」
結がそう答えると、優太は口角を上げた。
(後輩だけではなく、やっぱり部下がいる立場なんだ)
もやもやとしながらも、清水の勝気な笑顔が浮かんだ。
清水も「困った時は、何でも相談しなさい」と言ってくれる上司。そして「何で相談しなかったの?」って悲しそうな顔で怒る人だ。
(そうか。相談しないって、社会人の基礎ができていないだけじゃなくて、『信頼していない』って相手に思わせることもあるのか……)
普段は反抗したくなることも、なぜか優太から聞かされると納得できた。
何だろう、この信頼感は。
ルックスは先ほどの医師と比べると、やはりそこまで格好良いというわけではない。
しかし休日でも、ワックスなどで遊ばせていない黒髪。耳にかからない長さが爽やかだ。
相手に好感を持たれやすく、実に営業職らしい。
自然な笑顔も優しい。結が苦手な甘ったるい笑顔ではない。そして、イケボだ。
ズバッと強めのことを言われても、嫌な気分にはならなかった。
これは声が良いからということではなく、経験も含めて真摯に伝えてくれたからだろう。
家電量販店でこの人に営業されたら、予算から二、三万円オーバーしていても、きっと勧められた物を買ってしまう。
そういう不思議な魅力のある人だ。
人たらし、という類の人物か。
結は営業を始めてから、髪型、服装、時計や靴などの持ち物、仕草や表情、話し方を観察する癖が付いてしまった。
(橘さんは成績、相当良いんだろうな……)
「優太! 佐倉さん! お待たせ」
病院関係者しか使えないドアから、先ほどの医師がペタペタと小走りしてくる。
ワイシャツにネクタイ。膝丈くらいの白衣。
コスプレであれば、きっと女子がざわめく。
いや、本物の医師だからこそ、病院内にもファンがそれなりにいそうだ。
合コンであれば、女性の視線を独り占めだろう。
しかし、そんな人の足元はサンダルだった。
玄関や庭先で履くタイプのもので、いわゆる、つっかけと呼ばれるものだ。
診察中は気付かなかった。
(イケメンがサンダル……)
このルックスで白衣なら革靴、贅沢を言えば皮紐を結ぶタイプのものを履いていて欲しかった。
別にフェチがあるわけではないが、結は何となく残念に思いながら近付いてくる医師を見つめた。
「さくら、さん? 名字ですか?」
「何、お前。まだ名前聞いてなかったの?」
結たちのそばに到着した医師が、呆れた声を出す。
「あ、いえ! 私が名乗リもせずに、失礼いたしました。佐倉結と申します。人偏に左、倉庫の倉、結は『結ぶ』と書きます。このたびは本当にお世話になり、ご迷惑をおかけしました」
結は車椅子に座ったまま、深く頭を下げた。
「いや、そんな! 頭を上げてください」
焦った優太の声が、頭の上あたりから聞こえてくる。
「――あ」
医師の短い言葉で、二人のやり取りが中断した。
「すみません。私も忘れていました。入院中と退院後の通院で、佐倉さんの主治医を務めさせていただく、相良と申します。不安や困ったことがあれば、私や看護師に相談してくださいね」
そう言いながら、相良は首から下げたネームプレートを結に見せた。
(相良、透先生……)
「よろしくお願いします」
結が相良にも頭を下げると、太く恨みがましい声が聞こえてきた。
「透、お前……。人に散々言っておいて」
「あははは、すまん」
相良は軽く笑いながら、優太から目を逸らした。
しかし、すぐに結のほうへと向き直り、入院に関する書類の説明に入った。
「会計事務に確認したところ、入院費用は退院後の後日支払いが可能だそうです。その際に、保険証と印鑑、診察券をお持ちください。個室の差額ベッド代や食事代、病院貸与の寝間着などは保険適応外です。入院費用は高額になりますので、後日にご自身で高額療養費の払い戻し申請をしてくださいね」
結は入院にも慣れているので、おおよその流れは分かる。
違いがあるとすれば、前回までの入院時はまだ学生だったため、父の扶養に入っていたことだ。
「分かりました」
結は受け取った書類にザッと目を通した。特に問題はなさそうだ。検査や入院費用が後払いになったことで、ずいぶん気が楽になった。
優太に高額な金銭を借りずに済んだことに、心底ほっとしている。
「あとは、コップ、歯ブラシ、お箸、タオル、シャンプー、ティッシュ、飲み物などが必要ですね。病棟に上がる前に、売店へ行きましょうか」
先ほどまでのやり取りを黙って見守っていた看護師が、説明を付け足してくれた。
「売店、電子マネーは使えますか?」
「ごめんなさい。クレジットカードのみなんです」
看護師も、結が少しの現金とスマホしか持っていないことを把握してくれていた。
仕方ない、と結は手持ちのお金で足りる分だけの買い物をしようと、頭の中で商品価格の計算をした。
「あ、買い物代金をお貸ししますよ。治療費は後払いになりましたし、それくらいは力になります」
結は迷ったが、治療費を借りる予定だったのだから、手持ちで足りない分だけお世話になろうかと考えた。
入院生活で生活用品がないと、とても不便だということも体験している。
「ありがとうございます。手持ちで足りない分だけお借りしても良いですか?」
「いえ、全額で大丈夫ですよ。そのほうが、レシートで分かりやすいでしょう?」
確かにそうだ。自分がいくら払って、足りない分を借りて……。計算できないわけではないが、ややこしくはなる。
「佐倉さん。入院中、急に必要になるものがあるかもしれませんから、手持ちのお金はそのままで、優太に全額任せると良いですよ」
生理用品などが急に必要になる時があることを、結は思い出した。
「えっと、じゃあ、お言葉に甘えます」
「はい!」
お金を貸す側の人に気持ちの良い笑顔を向けられて、変な気分になる。
「あ、じゃあ優太。ついでに保証人のところにサインしといて」
「おぉ」
「え?!」
コンビニのレジで、「あと、チキンもください」とでも言うような軽さで頼む相良にも驚いたが、何の迷いもなくペンと書類を受け取っている優太に驚愕する。
(保証人ってあれでしょ?! 私がもし費用を払えなくなったり問題があれば、責任取るやつよね?)
また一気に血の気が引いた。
「え、や、それはさすがに」
「できれば、あったほうが手続きがスムーズなんですよ」
「元々、お貸しする予定でしたから問題ありませんよ?」
二人の冷静さに、あたふたしている自分がおかしいのか? と錯覚しそうだ。
(もう、この際仕方ないっ!)
「ご迷惑をおかけしないよう、必ずお支払いしますので!」
息を切らしながら、そう言うだけで結は精一杯だった。
そして、怪我とは別の不安でいっぱいの入院生活が始まる。
お読みくださり、ありがとうございました。