第八話 疲労骨折は突然に 4
病院でのシーンがもう少し続きます……。
すべての検査が済み、診断結果が出た。
「やはり骨折していますね。今日、足を捻って折れたというようなものではなく、少しずつ負荷がかかったのでしょうね。陸上選手時代の古傷も関係しているかと思います」
「そうですか……」
検査後すぐに痛み止めの点滴をしてもらっているため、今は骨折しているという実感はあまりない。
しかし、微熱はまだあるため少しだるい。
経験上、時間が経過するとともに熱が上がり、吐き気も出始めるかもしれない。
それを考えると、少し憂鬱だ。
「あ、脳に異常は見当たりませんでした」
「良かったです」
その結果には、少し安心した。
「ただ、やはり記憶がまだ曖昧なので、念のために少なくとも2〜3日、記憶や足の状態によっては1週間は入院してください。怪我の急性期には安静にすることが何より大切です」
「え、少なくとも2〜3日……ですか? 今夜だけお世話になって、明日に退院することはできませんか? 足はテーピングを強めにすれば歩けると思います」
今日は土曜日。
早朝に病院に着いて、現在はお昼過ぎだ。
一晩だけ入院して、明日の午前中に退院すれば月曜日には出勤できる。
サッと今後の動きを計算したが、医師の言葉によって、それは崩れ落ちた。
「医師として、それは許可できません。しばらく松葉杖での生活になります。学生時代にも経験があるでしょうが、それはご実家にいらっしゃった時ですよね?」
「――そうです」
「現在は頼れる人がいないらしい、と待合室にいる友人から聞いています。ご実家はどちらですか?」
「横浜です。ただ、都合で家族はしばらく留守にしているので……」
「そうですか。それでは、何かあった時に助けてもらうことはできませんね」
その通りだと、小さく頷く。
「そのご事情であれば、なおさら退院の許可はできません。転倒して、今度こそ頭を打つ危険性もあります。お風呂で溺れる危険も」
確かにそれは否定できない。
今までも松葉杖で転倒したことは何度か……いや、それなりにある。
入浴中の溺死数は、たしか交通事故死の約ニ倍だ。
「それに、松葉杖をつきながらの勤務は想像以上に大変ですよ。学生の時とは状況が異なります。現役の時よりも体力や筋肉も落ちているはずです。患部の炎症が治まり、松葉杖にも病院の中で少し慣れてからでないと」
学校では移動の時に荷物を持ってくれたり、助けてくれる友人がいた。
しかし、社会人は皆それぞれの仕事が常にある。
(私自身がお荷物になる? でも、体力や筋肉が落ちていても松葉杖は初めてではないし、他の人よりは動けるはず。それに社会人だからこそ、これくらいで休んだら駄目なんじゃ……)
「あと、テーピングを補助的に使うのは良いですが、それだけで生活することは、完治までの時間をズルズルと伸ばすだけです」
「そんな……」
穏やか表情ではあるが、少し強い口調で矢継ぎ早に今後の生活や治療について説明される。
理解はできている。しかし、頭の中は仕事のことでいっぱいだった。
「休みにくい会社ですか? 診断書もお出ししますよ。それとも、治療費や入院費用など他に心配事がありますか?」
「いえ、福利厚生もしっかりしていて、理解のある会社です。治療費についても、自宅に戻れば大丈夫です」
「では、なぜ?」
なぜ、ここまで入院を拒むのか? そう尋ねられれば、答えは一つしかない。
「仕事で試したいことがあるんです。できるだけ早急に」
先方に今までとは異なった提案をしてみたい。
ジョギング中にせっかく閃いた案なのだ。
早く試したい。そして、そのチャンスは期間限定だ。
入院など、している場合ではない。
その答えを聞いた医師は、ふぅっと溜め息をひとつついた。
「いいですか? 佐倉さん。もう、あなたはアスリートではない。怪我を痛み止めでごまかしながら、大会に出るような状況ではありません。何事に対しても努力できることは才能の一つです。しかし、無理をして体調を崩せば、本当に大切な時にチャンスを逃してしまう。自己管理を努力することも、社会人には必要な才能なんですよ」
(それも、よく分かってる。でも、今回のアイデアのチャンスは今しかないの――)
素直に頷かない結を見つめる医師の視線が痛くて顔を背けた。
表情は見えないが、医師の溜め息がもう一度聞こえた。
「身体は年齢を重ねるとともに、どうしても無理がきかなくなってくる。若い頃と同じような無茶をし続けると、当然どこかから綻びが生じる。そこから大きな病気や怪我に繋がることも珍しくはないんです。頑張り過ぎるのも、ほどほどにしないと」
(――また、『ほどほど』)
「これを見てください」
顔を背け続ける結の前に、数枚の紙が置かれる。
念のためにと受けた採血の結果だ。
「白血球の数値が上がっているのは当然なので、今回は気にしなくて大丈夫です。気になる点はこちらです」
別オーダーの採血検査であろうシートに書かれた数値を指で示された。
「佐倉さんの年齢にしては、女性ホルモンの数値が低い。今すぐ治療を、という段階ではないですが少し気になります。疲労骨折の原因の一つとして、女性ホルモンの低下が関係していることは医学的に証明されています」
内容に驚き、医師の顔を正面から見た。
すると、医師が少し安堵したような表情になった。
「主には、閉経後の女性に多く見られる症状です。しかし、不摂生やストレスなどで若い方でも可能性はあります。失礼ですが、月経などに問題はありませんか?」
直近三ヶ月くらいの記憶を遡ってみる。
「今のところ、問題はありません」
「そうですか。もし、何か気になることがあれば、いつでもおっしゃってください。婦人科に院内紹介の手続きをしますから」
「ありがとうございます」
そう言って、軽く頭を下げる。
頭を上げた時に、医師の後ろで記録のようなものを付けていた看護師と目が合った。
女性同士だからこそ理解できるような表情で、優しく何度か頷かれた。
四十代くらいの女性看護師。
激務の上に、年齢的にホルモンの状態も変わりやすいだろう。
(この看護師さんも不調があった経験があるのかな。もしくは、現在進行系なのかも……)
頷く仕草が、「気を付けて」「少しでも気になることがあれば、必ず婦人科を受診して」というジェスチャーのようにも感じた。
「そして、不服でしょうが、一週間が難しくともニ、三日は入院してください」
これ以上ごねても、きっと結果は変わらない。
「分かりました。お世話になります」
やっと折れてくれたか、というように医師に微笑まれてしまった。
小さな子どもがむくれるような態度を取ってしまったことに、今さらながら恥ずかしくなってきた。
パソコンのキーボードをカチャカチャと打ちながら医師に尋ねられる。
「今、整形外科の病棟は大部屋も個室も空いていますが、どちらがよろしいですか? 個室は差額費用がかかりますが……」
学生時代なら大部屋で十分だった。
しかし、今は仕事の電話をしなければいけない。
この足でとっさに通話可能エリアまで行くのは、おそらく難しいだろう。
「個室でお願いします」
「分かりました。お部屋をおさえておきますね。入院手続きは受付になりますので、待合室で少しお待ちください」
医師はそう言って、また看護師に目配せをした。
看護師が私が移動しやすい位置まで車椅子を持ってきて、一度ストッパーをかけてから、足置きを上げてくれた。
結が車椅子に座って進み出そうとした時、思い出したかのように医師に呼び止められた。
「あ、あいつに今後の予定を軽く説明しておいていただけますか? 私からも後で詳しく伝えますが……」
「あ、費用……」
(しまった! 個室、選んじゃったよ)
「立て替える、というお話だったらしいですね」
「はい……」
(保険証を持っていない私はそれだけでも高額になるのに、個室に数日入院なんて、いくらになるの……?)
当然、自宅に戻った後に全額返すつもりだが、借りる金額の多さに一気に血の気が引いた。
医師がその顔色を読み取ったようだ。
「一人暮らしで緊急入院される方もいらっしゃいますからね。私からも受付に事情を説明しておきます」
「よろしくお願いします。あの男性にも詳しくお話しないと……。えっと、お名前が――」
名刺で名前をきちんと把握する前に倒れてしまった。
「橘です。橘優太」
あぁ、そういえば、そんな名前だったような気がする――
お読みくださり、ありがとうございました。
ラブい展開は……、もう少しお待ちいただけましたら、幸いです。