第六話 疲労骨折は突然に 2
座り込んだままの結の視線に合わせるように、片膝を付いて話しかけてくる仕草に、少しドキッとした。
(こんな状態で、なに考えてんだか)
「頼れる人は……、いません。でも、治療費が十割負担になってしまうので」
「治療費ならお貸しできますよ? 後日に保険証を提出すれば返金されますし。それとも一度、ご自宅に寄ってから病院に行きましょうか?」
(自宅マンションまでは、ちょっとな……)
「あぁ! 見ず知らずの男に自宅を知られたくないですよね。すみません、うかつでした」
本当に「しまった」という表情をしていることで、少しだけ警戒心が緩んでしまいそうになる。
「あぁ、いえ……。そちらこそ、初対面の人間にお金を貸すだなんて、ご不安では?」
「演技ならともかく、実際にケガをなさってますので気になりませんよ」
「そう、ですか……」
「タクシー、来たみたいですね」
こちらに向かって来たのは、都内でよく走っているタクシーだ。
「あと、やはり素性の分からない男とタクシーに乗るのはご不安でしょうから、名刺をお渡ししておきますね。あと、これ身分証です」
結がまだ、訝しむような渋い顔をしていたのだろう。
彼はそれに嫌な顔ひとつせずに、名刺と運転免許証で顔と名前が一致するように見せてくれた。
これでは、かえって、こちらが悪いような気分になる。
いや、このご時世これぐらい疑うくらいが、ちょうど良いとは思う。
「ありがとうございます。お気遣いくださって……。お世話になります」
「いえいえ」
そう言って、彼は痛めたほうの足に負担を掛けないように、座席に座るまでエスコートしてくれた。
「ここから一番近い、総合病院までお願いします」
このあたりをよく走るのか、タクシーの運転手も心得たとばかりに軽い返事をした。
おそらく1メーターの距離だが、彼と同じように嫌な顔をしない。
これがプロなのか、それとも結がケガをしているからなのか。
「あの、整形外科に時々かかるって……」
「会社のフットサルチームに入っていて、時々ケガするんですよ。学生時代はずっとサッカー部だったんですけど、フットサルもなかなか面白くて」
「そうなんですね」
軽い相槌を打ちながら、無意識に彼の脚を見てしまった。
(キレイなふくらはぎの筋肉……)
足の痛みにより、あまり正常に回っていない頭から出た自分の感情に、ひどく驚いた。
なるほど。美門常務が言ったことが分かってしまった。
やはり、あの発言に他意はなかったのだ。
安心したと同時に、無意識に彼の脚を見てしまった自分が恥ずかしくなってきた。
「名刺、いつもお持ちなんですか?」
気分を変えようと、疑問に思っていたことを彼に尋ねた。
「あぁ。僕、営業職なんですよ。それで、何というか……。どこで誰に会うか分からないので、いつも持ち歩いていて」
「へぇ……」
「それでも、ランニング中に持ってるのはやっぱり不自然ですよね。これも職業病みたいなものなんでしょうかね?」
そう言った彼は、恥ずかしそうに笑った。
(なんでそんな謙遜みたいなこと言ってるの? 絶対、仕事できる人だよね。私には……。そんな発想なかった)
急速に流れ始めた薄暗い感情を持て余しながら、右手に持ったままだった名刺に目を落とす。
先ほど、名前と顔は確認したが、社名や肩書きなどまで見る余裕はなかった。
名刺には、大手化粧品メーカーの社名とロゴマーク。
『営業部 販売企画リーダー』
(『リーダー』……。若く見えるけど、この人いくつなの?)
「お客さん、着きましたよ」
運転手の言葉で我にかえった。
窓の外を見ると、もう病院の正面玄関入口に着いている。
のろのろとシートベルトを外しているうちに、彼がサッと支払いを済ませてしまった。
タクシー代くらいは払える、と声を出す暇さえ無かった。
「少し待っててくださいね」
彼は結にそう言うと、後部座席の右側のドアから出て行った。
そして、タクシーの後方から回り込んで、コンコンと結が座っているほうの窓を軽くノックした。
それに合わせるように、運転手がドアを開けるスイッチを押したようだ。
ドアが開くと、乗る時と同じように手を差し伸べられる。
土曜日のまだ早い時間。平日よりはまばらだが、少しくらいの人通りはある。
紳士的に差し伸べられた手の上に、自分の手を重ねる様子をチラチラと見られて恥ずかしい。
いや、二人ともランニングウェアを着ていることが気になるだけだ。
(そういうことにしておこう)
足に負担がかからないように支えてもらっていたが、左足首に冷たい外気が当たった途端に激痛が走った。
(ツッ! ウッ……)
とたんに視界から色が無くなり、白黒の世界になる。
病院のガードマンが血相を変えて駆け寄る姿がちらっと見えたが、結はそのまま意識を手放してしまった。