第五話 疲労骨折は突然に 1
はっ、はっ、はっ、はっ――
土曜日の早朝、結は久しぶりに自宅近くの川沿いを走っていた。
結は中学一年生から大学三年生まで、陸上部に所属していた。種目はハードル走。
優勝は出来なかったが、全国大会まで行ったため、陸上関係者では今も名前を覚えてくれている人もいるようだ。
部活を引退し就活を始め、そして社会人になってからも休日のジョギングは習慣だった。
精神統一にもなる。
しかし、最近はサボりがち、というよりも他にしたいことがあったため、あまり走っていなかった。
『「ほどほど」を知りなさい』
昨日の、直属の上司である清水のセリフが頭から離れない。
鬱々としていても仕方がないため、今朝は走ることにした。
この川沿いの道は、車道、自転車道、歩道ときっちり分けられており、事故も少ない。
そして、何より四季を感じられる場所だ。
行政により街路樹が丁寧に剪定され、定期的に樹木医が状態を確かめている。
実家もそれなりに都会で、緑豊かだったわけではないが、やはり東京都内で季節ごとの自然が見れる場所に暮らせるのは嬉しい。
ゆっくりと穏やかに流れる川には、渡り鳥もやって来る。
東京の会社に内定が決まり、一人暮らしを始める際に、治安も良く暮らしやすい地域だと不動産屋に勧められた。
ここに決めて良かった、と暮らし始めて半年以上経った今も感謝している。
走るペースを保ちながら、成績が伸び悩んでいる理由を確かめるように、頭の中で今までの流れを追った。
お盆休みが明けた頃。――八月末に、清水先輩と美門家具に。
九月半ばまでは気が滅入っていて、何も動けなかった……。
なんとか九月末までに気持ちを入れ替えたが、成績はゼロ。
十月中頃に、やっと一件契約が取れた。
十月末には、もう一件成約できた。
十一月初旬は良い感触を得られたが、契約には至らなかった。
十一月中旬はニ件取れた。
十一月が終わろうとしているが、中旬のニ件以降は取れていない。
今は十一月末。気が早過ぎるが、街中はクリスマスムードだ。
日本の商業施設や雑貨店などは、ハロウィンが終わるとともにクリスマス仕様になることもある。
本番までは、まだ一ヶ月半以上あるというのに。
花見や花火大会などを除けば、クリスマスは一年で最も華やかな時期かもしれない。
人工のライトといえども、やはりあの煌めきは人を惹きつける。
(恋人のいない私は、私生活では関係ないけどね)
はんっ、と自分を嘲笑う。
そして十二月に入れば、クリスマス商戦が本格的に始まる……。
(そういえば。今、日経の株価下がってるんだっけ……)
もしかしたら――
(つっ……!)
ヒントが浮かびそうになった時に突然、足首に太い針が刺さるような、引き攣れるような痛みが走った。
倒れ込まないように、とっさに川側の柵を握った。
ハッ、ハッ、ハッ、ハァ、ヒッ……ヒッ、ハッ……
急激な痛みから、走っていた時より呼吸が乱れて、軽い過呼吸になり始めている。
(落ち着かなきゃ。しっかり口から吐いて、それから鼻から吸う……)
息は吐かないと吸えない。急いで吸おうとするから苦しくなる――
酸素を効率良く取り込むための呼吸法を、公式でも導くかのように頭に描きながら、なんとか息を整えた。
「大丈夫ですか?」
川側の柵を持って膝を付いてへたり込み、まだ少し乱れた呼吸を繰り返していると、若い男性が声をかけてくれた。
「あ、ありがとうございます……。大丈夫です」
「足が攣ったんですか?」
「えっと、はい……。そんな、感じです」
(知らない人に迷惑かけるわけにはいかない。でも、これはたぶん……)
左足首を掴むようにしながら、何とか受け答えをする。
しかし、少しずつ視界にモヤがかかり始めた。
「足首ですか? 少し失礼しますね」
男性が結の手を優しく退けながら、軽く足首を握った。
「ツッ!」
「すみません、痛かったですね。熱も持ってるし、腫れ始めてる。筋ではなくて、たぶん、これは骨だと思います。救急車、呼びましょうか?」
「い、いえ! そんな大事ではないので!」
救急車なんて、とんでとないとスマホを出した男性を慌てて止めた。
「たぶん、剥離骨折とか疲労骨折だと思うので」
「以前にも経験が? かかりつけの病院はありますか?」
「かかりつけ医は地元の病院なので、こちらには、まだ……」
「じゃあ、休日診療もしている総合病院にしましょう。僕も、そこの整形外科には時々お世話になっていて……。ここからも近いんです。そこまで付き添いますので」
そう話しながらも、男性はスマホをタンタンタンッと素早く操作している。
「タクシー呼びますけど、良いですか?」
一応、とでもいうように尋ねられたが、もう結に拒否権はない。
「お願いします……」
結がそう言うと、彼は頷きながら画面を2、3回タップした後にスマホをポケットにしまった。
おそらく、タクシーの配車アプリだったのだろう。
「もうすぐ到着すると思います。ちなみに今、健康保険証は持っていますか?」
そう聞かれて、ハッとした。
保険証どころか、現金もほとんど持っていない。
最近は、スマホ決済ばかり使っている。
そのため所持金は、もしもの時のための数千円だけ。
もちろん、クレジットカードも自宅に置いてきている。
「あのっ! 私、保険証も手持ちも少なくて。病院ではなく、タクシーで自宅に帰ります。その後、様子を見て、病院に行きます」
「頼れる人はいらっしゃいますか? たぶん、その状態だと、夜には自力で歩けなくなっていると思いますよ」
(私も、そう思いますよ……)