第三話 私が、「私」でいれた頃。
短編や1話(現在)から遡って、結が新入社員だった頃の様子を描いた回です。
結の勤務先は、大学在学中のインターンでお世話になったインテリアデザインの会社、ブラックボックス。
社名の「ブラックボックス」は、「手探り」や「想像力」でデザインする、という意味合いで付けられたらしい。
社名を名乗ると、八割方は不思議な顔をされる。
ブラックボックスは現在の社長が立ち上げた、わりと若い会社だ。
創設から、まだ五〇年に満たない。
しかし、業績も信用もそれなりにあり、今後はもっと大きな企業になっていくのだろう。
先輩方の仕事に対する姿勢や、年齢や勤務年数に関わらず、アイデアが面白ければ社内外を問わずコンペに応募を許されるような自由さ、お互いを尊重するような社風が好きになり、迷わずエントリーした。
そして、幸いにも入社できた嬉しさもあり、がむしゃらに働いた。
入社一年目の時は右も左も分からず焦ったりもしたが、新しいことを覚えるのは好きだったため、そんなに苦でもなかった。
実践は、また別物だったが……。
新人研修後、配属されたのは営業部だった。
その中でも、結の業務は主に雑用。
書類整理やデータの入力に、電話番。
会議室の準備に議事録係。
時代のためか、さすがにお茶汲みはなかった。
その代わり、外へお遣いに行くことはわりとあった。
買い物の内容は、商談相手への手土産だ。
老舗の和菓子屋から、最近できたばかりのオシャレな洋菓子店など様々。
店によっては、三〇分近く並ぶこともあった。
そして、お盆休みが明けた頃のことだ。
いつもとは少し違う声のトーンで、5つ上の女性の先輩、清水から声を掛けられた。
「佐倉さん。明後日の午後から、美門家具の美門常務とのアポ取れてるよね?」
「はい。明後日の15時に、美門家具の東京本社で商談の予定です」
「そう。じゃあ、明後日は佐倉さんも一緒に来てね」
「え?」
そんなわけがないとは思いつつも、これから先も延々と雑用業務をこなすような錯覚を起こしていたため驚いた。
営業部にも、データ処理や管理が専門の人がいる。
自分もそうなるのかもしれない、と少し感じ始めてもいた。
「なに、その驚いた顔。延々と雑用させられるとでも思ってた?」
清水がイタズラっぽく笑う。
「はい。あっ、いいえ」
「どっちよ。美門常務への手土産、頼んで良い? 何か分かる?」
クスクスと笑いながら、クイズのように質問された。
「粒あん栗入りのどら焼き、ですか?」
「正解。お店も分かるね?」
「はい。明後日の午後までに受け取れるよう、手配しておきます」
「それから、プレゼン資料はPCに入ってるから。提示して説明しやすいようにまとめておいて。美門常務はタブレットより紙の資料を重要視される方だから。資料の内容は読んだことあるよね?」
「はい。データ整理の時に何度か」
「ん。じゃあ、先方からの質問にも答えられるように、明後日までに何度か読み直しておいね」
「はい……」
思わず弱々しい声を出すと、先輩に軽く肩を叩かれた。
「大丈夫! 完璧にこなそうと思わなくて良いよ。困った時は私がフォローするから。まずは、名前と顔を覚えてもらおう」
「はい」
先程よりは、しっかりとした声を出せたと思う。
そして当日、結は学生時代のテストや部活の試合並みに緊張していた。
いや、それ以上かもしれない。
美門家具は明治の頃からある老舗だ。
戦後に一時は衰退したが、前会長が盛り返した。
現在は中部、関西、九州にも支社がある。
経営体制は完全世襲制。
会長、社長、副社長はもちろんのこと、専務、常務、支社のトップなど、役職のほとんどが美門一族で構成されている。
驚くほどの男系で、兄弟、子ども、従兄弟、甥など、ほとんどが男性だという。
また、長寿の家系でもあり、頭と身体が動く限りは引退しない。
そして、結婚して妻や子どもができても、やはり姓は「美門」だ。
役職が違うだけで、どこを見ても美門、美門と、少しややこしい。
しかし、聞く限りでは派閥争いもなく、業績も安定している。
社員の勤務状況もホワイトらしい。
完璧過ぎて、かえって胡散臭いというか気後れする。
今から会う美門常務は、たしか現会長の四男だったように記憶している。
(できるだけ優しい人だと良いな……)
会社の敷地内に入る前に、外観が鏡張りのような高層ビルを仰ぎ見た。
受付で名乗ると、秘書の女性に応接室へと案内された。
三回ノックをした後に、秘書は訪問客が到着したことを伝える。
美門常務は私たちよりも先に、応接室にいらっしゃったようだ。
「あぁ、お通しして」
そう、返事があった後に扉を開いた秘書に、笑顔で入室を促された。
「やぁ。久しぶりだね、清水さん」
「ご無沙汰しております、美門常務。お変わりないようで……」
清水は少しだけ他所行きの声だが、二人の様子を見ているとずいぶん親しげだ。
二人のやり取りを静かに眺めていると、美門常務と目が合った。
「おや、初めて見る顔だね」
「はい! 佐倉と申します! どうぞよろしくお願いいたします」
私は鞄を両手で持って、90度とまではいかないが勢い良く頭を下げた。
そして、慌てて名刺を差し出す。
すると、美門常務は滑らかな所作でスーツの内ポケットから名刺入れを出して、丁寧に名刺を交換してくれた。
知的な笑顔が似合う細見のロマンスグレー。
若い頃はさぞモテたのだろう。
「我が営業部の期待の新人なんですよ。どうぞお手柔らかにお願いしますね」
(そんなこと言われたことないですよ! 先輩、ハードル上げないで……)
二人の間のお遊びのような会話だと分かってはいても、笑顔が引きつる。
「佐倉さん。私も新人の時に、美門常務にはとてもお世話になったのよ」
そう言った先輩がニッと笑った。
(なんだろう。普通の紹介なのに、何か含みを感じる……。そうだ。美門家具の美門常務って――)
清水がまだ新人だった時に烈火のごとく怒らせ、一度契約を切られそうになったという話があった。
我社の創設以来、何十年と続いてきた関係を反故にするところだったのだという。
思わず身震いがした。
しかし、清水は自力で関係を修復したのだという。
営業部では、ちょっとした伝説だ。
ただ、どんな失態を犯して、どのように信頼を取り戻したのかは聞いたことがない。
どうして、今の今まで忘れていたのだろうか。
この営業は言わば、最初の関門だったのだ。
「まぁまぁ。固い話は座ってからにしよう」
(固い話って言っちゃうんだ。そりゃ、そうだよね。商談なんだから)
高級そうなソファに着席を促され、結は慌てて手土産を紙袋から出して清水に差し出した。
しかし、清水は静かに首を振り、小声で「あなたから、お渡ししなさい」と囁いた。
「あの、こちら、お口に合うとよいのですが……」
声と手が震えないように必死で我慢した。
「あぁ、私の好物だよ。ありがとう」
もちろん、好物だということは把握していた。
そのために用意したのだから。
しかし、常務が穏やかに微笑んだことに、ひどく安堵した。
そのやり取りの間に、無駄な音を立てずに秘書がお茶を置いていく。
しかし、常務が真顔で発した言葉で、室内に緊張が走った。
「佐倉さんはキレイな脚をしてるね」
秘書の手が、分かりやすくピタッと止まった。
(しまった。私も先輩みたいにパンツスーツにするべきだった)
頭の中で早口で後悔したが、社会人として笑顔は崩さない。
セクハラを受けたことが、今まで全くなかったわけではない。学生時代には、チカンに遭ったこともある。
だから、こんなところで笑顔を崩すほど軟じゃない。
しかし、今の結の表情は「親しくはないけれど挨拶くらいはする」という人に向けた笑顔に近いような気がする。
その表情や空気に気付いたのか、美門常務は慌てて付け足した。
「あぁ、すまない! 言い方がまずかったね」
そして、膝に両手を付いて頭を深く下げた。
私も「いえ……」と小さく答えたが、おそらく表情は固いままだろう。
「不快な思いをさせて、本当にすまなかった。私の孫娘がね、陸上部で短距離をしてるんだ。佐倉さんの脚の筋肉の付き方が孫に似ていたもので、ついね……。何かスポーツをしているのかな、と」
美門常務はそう言いながら、ばつが悪そうに人差し指で頬を掻いた。
秘書の女性も、止めていた息をほっと吐いた気がする。
「そうでしたか……。私も学生時代には、陸上部に所属していました。種目はハードルでしたが。今は軽いジョギングをするくらいなので、現役の頃とはずいぶん違いますが、気付いていただき嬉しいです」
そう言って、結も表情を少し和らげる。
常務も安堵し、詰めていた息を吐いたようだ。
本当に悪気は無かったらしい。
秘書の女性も、もう大丈夫だと判断したのか、扉の前で「失礼いたします」と一礼して、静かに退室して行った。
そして、やはりまだ先程の気まずさが残り、全員が苦笑いのまま商談が始まった。
結果を言えば、商談は成功した。
最初から反応が良かったため、失言の贖罪として、我社の商品を取り扱ってくれるのかとも思ったが、美門家具への営業はそんな生温いものではなかった。
必死にプレゼンをする結の話に頷きながら、常務は紙の資料の端から端まで視線を動かし、時々、痛い質問もしてくる。
どうにか言葉を紡ごうとするが、とうとう頭が働かなくなった時には、清水が言葉を付け加えてくれた。
それに対して、「ふぅん、なるほどね」と、納得したのか妥協したのか、それ以外の感想なのか、腹の中が読めない返事と問答を何度か繰り返している。
しかし最後には、知的なようで少しイジワルな笑みを浮かべて「うん、良いね。うちで扱わせてもらおう」と言った。
(絶対、敵に回したくない人だ)
商談が済むと、秘書だけではなく、常務もエレベーターまで私たちを見送りに来た。
それは、おそらく珍しいことなのだろう。
そして、エレベーターが到着する寸前に常務が口を開いた。
「今日は私のうかつな発言で不快にさせてしまい、本当に申し訳なかった。懲りずに、また来てくれると嬉しい。佐倉さんのプレゼンは初々しくも、とても面白かった」
セクハラで訴えられないように、お世辞を言っているわけではなさそうだ。
女は、そのあたりに関して勘がはたらく。
そのため、「面白かった」という言葉を素直に喜ぶことができた。
また、「初々しく」というのは「未熟」を柔らかく表現してくれたのだろう。
そして、失言への詫びと、仕事能力への評価にはきっちりと線を引いて伝えられたことが、むしろ快いとさえ思った。
(この人にまた、うちの商品を欲しいと言わせてみたい)
そう強く思った。
「お疲れ様。頑張ったね」
晴々とした顔の清水に労われながら、結たちは美門家具の本社ビルをあとにした。
そして、この日の出来事で営業としてのやりがいを初めて知り、大き過ぎる自信を得てしまったことを、結は後々に少し後悔することになる。