第ニ話 時間を巻き戻したい彼女の事情
「結。あんたさぁ、いい加減にしなよ? また逃げるみたいに帰ってきて……。そのうち、本当に優くんに捨てられても知らないから」
「優太は、そんな人じゃないし……」
半同棲中の彼氏と口論とも言えないような内容の喧嘩をした。
そして、彼の家から逃げるように実家に戻ってきた結の部屋の前で、両腕を組んだ姉が咎めるように話しかけてくる。
「まぁ、分かってても感情をどうにもできない時があるっていうのは、私も覚えがあるけどね」
結にとって姉は友達みたいで、母のようでもある。
当たり障りのない言葉よりも、姉の棘棘しい言葉のほうが妙に心地良いことさえある。
心身ともに受けとめる余裕さえあれば、だが。
また、姉とは反対に、両親は結に甘いところがある。
それを補うように、口うるさいけれども、きちんと結の感情も慮りながら、忠告やら説得という名の説教を姉がしてくれる。
本当に、口うるさいけれども。
昔から、そんな人だったけれども、少し前まで姉自身も弱っていたため、彼女は他人の感情の機微にさらに敏感になったように感じる。
「叔母さんがちゃんとお嫁に行ってくれないと、君も困るよねぇ」
歌うような軽い口調で、姉が大きくなり始めたお腹を擦った。
名前がまだ無いため、姉は胎児のことを「君」と呼んでいる。
「この後、まだニ、三人できるかもしれないから、子ども部屋も欲しいのよね。まぁ、本棚や机は置いといてくれても良いけど、他は整理してもらわないと」
当然のように姉は、結が使っているこの部屋を狙っている。
「何人、産む気よ。私が帰る部屋が無くなるんだけど……」
「客間があるじゃない。そんな広い家じゃないんだから、嫁いだ妹に空けておくスペースはありませーん。つまんない意地張っちゃって。本当はずっと優くんのところに居たいくせに、可愛くないんだから。女は愛嬌よ、愛嬌!」
「まだ嫁いでない」
使い古された格言だかなんだかに、応える気もない。
すると姉は、わざとらしい溜め息をついて部屋を出て行く。
「あ、忘れてた」
一拍置くか置かないかの間で、姉が首を傾けて、廊下から顔だけを出した。
「本棚の中身、小説とか童話はそのままで良いけど、TLやらBLやら薄い本は持って行ってよね。教育に悪いから」
結は、それにも無言を貫いた。
姉も嫁いだ身だが、結婚してすぐに子どもを授かった。
また、悪阻が思った以上に重く、しばらく実家で療養していたのだ。
底抜けに明るく、楽観的な姉でも悪阻は重くなるのか、と初めて知った。
いや、気質と悪阻に関係性がほとんどないことを、当然知ってはいたけれど。
姉が本格的に弱っているところを初めて見たため、色々な意味で衝撃的だったのだ。
今は悪阻も治まり、すっかり元の姉である。
しかも、両親、姉夫婦どちらにとっても一緒に暮らす方が都合が良いため、そのまま二世帯で同居することにした、というのも彼女らしい。
義兄が毎日のように姉の様子を見に来ていたため、両親と本当の親子のように打ち解けていたことも知ってはいた。
義妹の結から見ても、それは嬉しいことだ。
高齢になっていく両親の心配も少なくなる。
しかし、休職中の結の肩身がこの家では、ますます狭くなっていくだろう。
姉の体調も戻ってきたため、結が実家の家事を手伝う必要もなくなってきた。
至急何かすることもなく、実家なのに居心地が悪い。
心がザワザワとしたままスマホに目をやると、優太からメッセージが来ていた。
『ごめん。ラグ、汚した。また買いに行こう』
「――はぁ」
スマホを軽くベッドに放って、自分もダイブする。
「馬鹿じゃないの? 私がカップ倒したせいでしょ……。なんで優太が謝るのよ」
仰向けになって、もう一度、画面に表示された文字を見る。
たった三文。ニ行足らずの言葉に、彼の人柄が表れている。
「あんまり優しくされると、どんどん自分が嫌な女になっていくじゃない」
スマホ画面がタイムアウトとなり暗転すると、卑屈に顔を歪めた女の顔が映った。
彼の家を出る前、カップが倒れて、テーブルにコーヒーが溢れているのが見えた。
きっと、それがテーブルを伝って、ラグに染みを作ったのだろう。
まだ、彼は気付いていないようだった。
結は見えていたのに、知らないフリをしたのだ。
カップが倒れた原因は、自分が結婚情報誌を乱暴に置いたからだと分かっていながら。
彼の優しさは痛いほど滲みている。
それに甘えられたら、どんなに心地良いのだろう。
それでも、この性格が許さないのだ。
――違う。私は十分、彼に甘えている。可愛らしく甘えられないだけだ。
私が悪態をついても許してくれるか、離れないでいてくれるかどうかで、彼からの愛情を測っているのだ。
なんて汚い女だろう。
「私が可愛くないなんて、お姉に言われなくても嫌ってほど分かってるわよ」
先ほど、本の整理をするように言われた時、仕事の実用書について姉が口に出さなかったのは、彼女なりの気遣いだ。
両親は休職、復職のことも、結婚についても何も言わない。
喧嘩の内容も聞かれない。
優太が先に、結の実家に連絡してくれているからだ。
こんなふうに、結が優太のマンションを飛び出した時、彼からの電話は取らない。メッセージも返さない。
最近の結の行動パターンを、彼は呆れるくらい把握している。
そのため仕方なく、結の両親に安否確認をしてくれていることも知っている。
私なんかには、もったいない男。
いつ切り離されても、おかしくない。
それでも、彼は結を放り出したりすることができない人だと知っている。
やはり、私は汚いのだ。
「夜遅くに突然帰って来るのはやめなさい。どうしてもの時は、必ずタクシーを使いなさい」とだけ、いつも母は注意する。
二十二時〜二十三時なんて電車は動いているし、休職する前なら、まだ会社にいることもあった。
大学生だって、飲み会だカラオケだと、まだ遊び歩いていることも珍しくない時間帯だ。
結は仕事が終わらなくて残業している、というよりも何か使えそうなアイデアが浮かんでしまうと、このまま帰宅するのは惜しい、と思っていた。
いや、今すぐに形にしておかないと、きっと忘れてしまう。
そんなふうに、いつも何かに追いかけられるように仕事をしていた。
そんなことを繰り返しているうちに、体調を崩してしまった。
「最近、顔付きがおかしい」と、最初に指摘したのは優太だった。
姉は妊娠してから、顔付き変わった。
母親らしいというか、何といえば良いのか。
そういう女性は多いらしい。
そういえば、生理が遅れている。
自分も、もしかして? と思ったが違った。
それからすぐに突然の動悸やめまいの症状が出始め、感情の起伏も激しくなった。
ホルモンバランスが著しく乱れているらしい。
放っておくと妊娠しにくくなり、日常生活を送ることも困難となる、と産婦人科で診断された。
「まずは、十分な休養を」
そして、結は会社と好きな仕事から一時的に離れることになった。
短編時には名前もなかった、彼と彼女。
「結」と「優太」が幸せになるように、作者も頑張ります!