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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第一章 とある記憶管理士の日常
8/22

File1-8 滑川紫苑


 人の記憶は物語として捉えるには甚だ不完全であると、泉真人は以前ニイナにそう語った。人に蓄積された記憶には実のところ濃淡があり、詳細に至るまで、全てを完全に記憶している人間は稀である。


 そして、それ故に記憶管理士はその記憶に隠された行間を読み解く能力が必要とされている。時には無意識に潜む行動論理を読み解く為に、より深く、より理知的に情報を捉え個人の経験を俯瞰する能力が求められる事になる。


『真人はそう言うけれど、そこまでの考察が必要になるのはそれこそ犯罪捜査に協力するときぐらいなものよ。真っ当な人間は私達も共感が持てる程度に、まともな記憶を持っているのが普通なんだから』


 新城真弓は笑いながらそう言った。ニイナも当初はそんなものかと話を聞いていたが、他人の記憶を観測するようになってからと言うもの、真人のいう事が正確であったということを思い知ることとなった。


 ニイナは人の記憶を深く覗く際に、過度の同調は禁物だということを知っている。しかし、対話を通してのみ求めた結果が得られる事もまた、ニイナは理解していた。


「久しぶり……。いえ、初めましてというべきかしら?」


 滑川紫苑(なめかわしおん)、彼女は柔らかな微笑みでニイナを見つめていた。


 庭先のテラスで紅茶を楽しんでいる彼女の姿をニイナは滑川の記憶を通して幾度となく想起している。美しい黒髪がそよ風に靡くたびに、その僅かな切っ掛けニイナに幾つもの記憶を思い起こさせる。

 

 それは彼女に対する親愛の情、憐憫の情、後悔の情、そして郷愁すら感じさせる複雑な感情であり、ニイナの中で無秩序に渦巻いては感傷を求めている。滑川晴明と言う人間と、泉ニイナという人間が別人格であると認識が出来ていなければ、ニイナは滑川と同じ自己追求の果てに正気を失っていたかもしれない。

 

 それほどに強烈な()()をニイナは感じ取っていた。時として人は、他人の記憶の中で生き続けるということを、記憶管理士は良く理解していた。


「記憶の中に住まう人格、貴方は滑川晴明の作り出した幻影にすぎない。貴方も知っている通り、病気で既にその身は失われている」


 ニイナは認識の確立を行う為に、明確に境界線を引き、目の前に存在する紫苑を記憶の中の存在として定義した。これは記憶管理士として当たり前に求められる技能であり、記憶混同を防ぐ為の手段であった。


「そうね、私は晴明の中に存在している欠片に過ぎない。けれど同時に彼の人格の一部でもある。いつか記憶の彼方で忘れ去られるかもしれない空虚な亡霊とでも言うべきかしら……」


 ニイナの言葉に反応するように、紫苑は紅茶を再び口に付けながら遠くを見つめるようにしてそう嘯いた。


「滑川様は貴方を自らの手で送り出したことを心から悔いています」


「……可哀想な人。それが私にとっての救いであったことはよく知っていた筈なのに……。彼も知っているはず、私がどれほど彼を愛し、そして、それ故に彼に見送って欲しかったということを」


「二人はどうやって出会ったのですか?」


 ニイナは記憶を解き明かす様にして紫苑へ疑問をぶつけ始める。それに嫌な顔一つせず、紫苑は滔々と答えを紡ぎ出して行く。それがあたかも二人の初めての共同作業であるかのような、奇妙な光景がそこにはあった。


「私は生来身体が弱かったの。父は心配性で何かあるとすぐに病院に連れていかれたのを覚えている。晴明は、私が掛かりつけにしていた医院の一人息子だったの。出会いは病院の受付で、私が好きだっと児童書を彼から受け取ったのが始まりだった……」


「貴方が六歳、滑川様が八歳の頃のお話ですね?」


「そう、それから私達はよく遊ぶようになったの。彼は私が病弱なせいで、外で遊べないからと色々なものを持ってきてくれた。春先は花を、夏には花火を、秋には紅葉を、冬には……」


「冬には小さな雪だるまを作って、貴方の家に持って行った」


 紫苑は懐かしそうに眼を細めると頷いた。


「そう、窓際に私はそれを飾っていたわね。寒い日が続いたから、一週間ぐらいは形を保っていたの。それが徐々に溶けだして、私は焦って家の冷凍庫に入れて保管しようとしたの、可愛いでしょ? そしたら……」


「お母さまに怒られた、でしたね?」


「そう、でもそれも今となってはとても良い記憶だわ。母は私が二十歳の時に病気で死んでしまったから。私の結婚式を見る事もできなかったの。父は晴明との結婚を喜んでいたわ」


「滑川様にご提案された、ご両親へのお手紙に綴った感謝の言葉に、お父様は涙を流されていた……」


「ええ、晴明のご両親も私達を祝福して下さった」


 ニイナは突然、対話の流れを断ち切り、一つの質問を紫苑へ突き付けた。


「紫苑さん、貴方は、滑川様のことを愛されていましたか?」


 紫苑は紅茶を口に運ぶ手を止め、ニイナへと鋭い眼差しを送っていた。


「貴方は滑川様から与えられたもの全てに喜びを見せていた。滑川様が喜びそうな本を読み、詩を書き、時に愛を囁いた。髪の手入れも、僅かに香る香水の匂いも、全て、滑川様が喜ぶと分っていて、そのようにされていましたね?」


 紫苑は何も答えなかった。無表情のまま、ニイナを見つめている。先ほどまでは血の通った温かな表情を浮べていたはずが、今では冷たい死者の青白い肌がやけにくっきりと見え、ニイナは眉間に皺を寄せた。


「貴方の喜びはどこにあったのですか?」


 紫苑は、どこか遠くを見るような眼差しを見せながら、先ほどまでと変わらぬ柔らかな声音でニイナの質問に答えを出した。


「……鳥籠の外、もっと外の世界を見て見たかった。私は晴明を通してでしか世界を見る事が出来なかったから」


「だから、いつも寂しそうな、ここに居ない様な面持ちでどこかを見つめていらっしゃった」


 これは本当の滑川紫苑ではない。あくまでも滑川晴明の記憶に生きる想像の人格であり、あえて言うのであれば、それは、滑川晴明と言う人間の自責の念が形になったものでもあった。病弱で、自分の思い通りに世界を見て回ることの出来ない守るべき人。それが晴明から見た、紫苑の評価であった。そしてそれは、時として彼女が()()()()()()()()()()()のではないかという疑念を晴明の心の奥底で抱かせることとなっていた。


「そう、それ故に私は私を演じなければならなかった」


 けれど、と紫苑は再び柔らかな微笑みを浮べ、ニイナに言葉を紡ぎ始める。


「けれど、そのことに後悔はありません。愛とは、見方によっては想いの押し付けに合いにも映るのでしょう。晴明が私にそうあれかしと望んだように、私もまた彼に愛情を求めていた。晴明は私にとって、愛すべき人であり、掛け替えの無い人であり、最良の夫でした。そして、だからこそ、私は晴明の手によって見送ってもらうことを選んだのです」


 それは仲睦まじい夫婦の間に結ばれた、決して解けぬ信頼の情の表れであり、愛に他ならない。


 ニイナは険を解いて、その言葉に理解を示した。


「愛ゆえに、ですか」


「そう。それが彼を苛むことを分かっていても、そうしたかった。それほどまでに、どうしようもなく、彼を愛していたから。これは私が彼に残した、最後の我儘です」


ニイナは一瞬、自己の記憶領域へと晴明の記憶が濁流のように押し寄せるのを感じていた。幾つもの記憶、その中で笑顔を浮かべる紫苑は溜息が出る程に美しかった。記憶のどこを探しても、彼女の笑顔が溢れていた。彼女を愛していた。()()愛すると同じように、彼女もまた()()愛していた。それを疑う余地は、無い。


 一瞬、ニイナは自分の中で、滑川晴明の記憶が強く表層に現れるのを感じ、自己同一性を保つように強く努めていた。自己と他者の区別の確立、それこそが記憶管理士としての真価であり、ニイナの手腕が試される部分であった。そして更に言えば、晴明の記憶に流されそうになる情動を抑え込みつつも、それでも尚、溢れ出る彼の想いに考えを巡らせ、寄り添う事こそがニイナの役割であった。


「……滑川様は、貴方の一挙手一投足を愛おしいと感じていた。あどけなく眠る横顔も、自分より一回り小さい手も、たまにみせる悪戯も、その全てを愛していました」


 そう、記憶の中には幾つもの感情が潜んでいる。それを掬い出し、理解し、元々の記憶保持者へと、それを届けることが他人の記憶を覗くことの意味でもあった。


 紫苑はニイナの言葉を聞くと頷き、そして席を立つとそのまま庭から外へと抜ける、腰ほどの高さの門扉を手で押すと共に、一歩踏み出した。


 紫苑は振り返り、ニイナに向けて柔らかな笑みを浮かべた。愛情の込められたその表情は幾度と無く滑川へと向けられてきたものであり、ニイナはその笑顔に触発され、はっきりと最期の記憶を想起することが出来た。


「さようなら晴明。私はきっと誰よりも幸せでした」


 今わの際で紫苑が囁いた最愛の人へと手向けた言葉が、いつまでもニイナの脳内で残響していた。


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