File1-7 絶望は記憶と踊る
幼少期には良く父親から、医者のなんたるかについて薫陶を受けて過ごしてきた。それもあってか、物心ついた時には医院に入り浸る事が多かった。漂うヨードの香りも気が付けば慣れてしまい、毎日のように訪れる年配者に孫のように可愛がられる日々が日常だった。
母親の意向で通っていた私立の学校は居心地が悪い場所であった。無機質な教育、それに伴った人格を持つ同級生、彼らに迎合することなく、孤独な時間を過ごすことも少なくなかった。
そんな中で、紫苑と出会えたことは私にとっては僥倖だった。年下の紫苑と共に過ごす日々は新鮮で、私の中に温かなものを育んだのは間違い無い。逆に彼女にとって私との出会いが幸福であったのかについては、今となっては確かめようがないことではあるが……
紫苑は生まれつき病弱で、その代わりといってよいものか、両親にそれは大事にされて育ってきた。そのせいか、いつもどこか遠くへと、思いを馳せる事が好きな女性だった。
そうした彼女の気質は私が大学を卒業し、研修医として仕事に従事するようになっても変わる事は無かった。
私にとって、彼女は守るべき人であったと同時に、私の世界を作る為に不可欠な人であったと言える。それは私が医者という、敷かれたレールを進む上で欠かせない車輪のようなもので、いつだってお互いを支え合いながら歩みを止めずに進んできた。
けれど、それも唐突に終わりを迎えてしまった……。私に残されたのは途方も無い空虚さと、埋める事が出来ない喪失感だけであった。理不尽を私は恨んだ、そしてそれ以上に彼女を失った
ことで生まれた、この埋めようの無い喪失感が私を苛んでいた。
それでも、私は医者としての責務を全うし続けていた。それは、責務を負った者の義務であり、そう在らねばと己が思ったからであり、そして、そうしなければいつ発狂したとしてもおかしうない程に、私の内面は荒んでいたからでもあった。
「午前三時十二分……御臨終です」
無機質に響く言葉はあくまでも役割を演じる為に必要なものであった。
「力及ばず、残念です……ご立派な最期でした」
そんな慰めにもならない言葉を何度となく吐き続けてきた。
人を救う一方で、同様に多くの人を見送ってきた。医者としての職務を果たすことは何も人を治療するだけではない。人の死を看取る事も、そして時にはその補助をすることもまた、私の役割であった。
「ご本人の希望により延命措置は行いません。こちらに署名をお願いします」
事務的なやり取りの後に行われる機械的な行為によって、先ほどまで現世に繋がれていた命を停止させる。
無感動に、無感情に、出来る限り深く考えないように手を動かし、決まり文句を用いて処理を行う。
私は人殺しだろうか?
一度でも浮かんだ疑問はヘドロのように心の奥底にこびり付いて離れない。
ふとした瞬間に罪悪感が身体を支配し、先の見えない暗闇の中で目眩を覚え、気が付けば前後不覚に陥ったように動けなくなる。慣れ、という言葉によって塗りつぶされたように見えて、常に奥底で罪の意識が私を舐めるように眺めては、万力で挟むように離さないでいる。
『お前が殺したんだ』
自分を責める声が気づかぬうちに大きくなり、日に日に眠れない時間が増えていった。気が付くと深夜に目が醒め、こびりついた自責の念が脳裏から離れない。
そんな時に、心を気持ちを、全てを共有することの出来た彼女は既にいない。その現実に幾度と無く気づかされ、そして同時にそれを手放したのは自分の決断であったことに愕然とする。
私は何の為に医者になったのか……両親の期待か、それとも自分の良心に従ってか。いや、これは全て彼女の為だった。彼女がいるから、彼女がいたから、私は医者となり、人を救いたいと強く思った。
それも最早無意味となってしまった。全ては彼女の為に選んだはずだったのに、彼女がいたから、私は全てを受け入れていたのに、どんな矛盾を抱えていたとしても、彼女がいれば耐えられた。彼女の笑顔を、喜んだ顔を見ることが私の生き甲斐だった。けれど、私は全てを失ってしまった。
「なぜ私は生きているんだろうか……」
不意に零れ落ちた言葉に、全身がどうしようもない無力感に支配されていく。
彼女を失った今、最早、全てが無価値だとしか思えなかった。
「紫苑……」
声に出した彼女の名前が空しく、伽藍洞の部屋に響く。二人で買いに行ったダイニングテーブルも、一人になった今では広すぎる。
どこを見ても、彼女の思い出が染みついていた。彼女が好きだった猫の写真ばかりが載ったカレンダーはあの日から既に捲られる事なく、あのときと変わらぬ日付のまま、誰も捲る人がいなくなっている。
『毎月の楽しみなの、私が絶対に捲るからね?』
そんな日常の一コマを彼女は大切に生きていた。
「紫苑……」
どれほど涙を流しても、どれほど名前を叫んでも、どれほど声を枯らしても、どれほど夜を明かしても、もう彼女が帰ってくることはない。
もう、彼女は、私の名前を呼んでくれはしない。
私は彼女の最期をどんな顔で見送っただろうか。どんな顔をして手を下したのだろうか。本当に彼女の救いになると信じて機器を操作したのだろうか。未だに生々しい機械的な感触が手に残っているかのように感じられ、思わず指先が白くなるほどに強く握り締めていた。
「紫苑…… どうして、どうして君を私は……」
何故、私は彼女をこの手で殺したのだろうか。
彼女は私を恨んではいないだろうか。彼女を外の世界へ連れ出す事の出来なかった私を、恨んでいるのではないだろうか。彼女の病気を治すことの出来なかった無力な私を呪ってはいないだろうか。
どれほどの後悔も、どれほどの自責も、今となっては虚しさが増すばかりで、胸の痛みは強さを増して行くのを止める事が出来ない。
今の私はどうしようもなく、愚かで、無価値な存在でしかない。
それでも、私は生きなければいけないのだろうか?