File1-5 記憶の底で生きるモノ
四季に合わせて花が咲く、そんな庭を作るのが夢だった。
そう言いながら彼女は笑っていた。
春には桜が、夏には向日葵が、秋には庭から観る紅葉が、冬は温室育ちの薔薇が咲く。それが彼女にとっての理想の世界だった。
そんな話を聞いて、「土いじりなんてした事もないんだろう?」と怪しむ私に「これから覚えるからいいでしょう?」と事もなげに言い返す姿を私は笑って見ていた。
ふとした瞬間に、じわりと胸の奥に幾度と無く味わった苦い痛みがはしり、目眩がする。
彼女の弾く調子外れのピアノが好きだった。昔は教員になるのが夢だったらしい。どうしてその夢を諦めたのかを彼女は詳しく語りたがらない。けれど、それは明白だった。
そんな時はいつも、彼女は紅茶を飲んで一息ついた後に、少し遠くを眺める様な眼差しを見せる。そんな達観した様な、厭世的な気怠さを見せる彼女が好きだった。
絹の様な黒髪、陽射しを反射するピアス。白く細い指にはシックなデザインの指輪が控え目に嵌められている。あれは私が彼女に手渡した婚約指輪だ。
再び痛みが走る。粟立つ肌に遅れて、体の奥底からやってくるような怖気が止まらない。気が付くと、全身に広がる震えと止む事の無い頭痛が酷く私を悩ませる。
決定的な瞬間から逃れるように、ずるずると記憶は混迷を極め、あてどなくさ迷い続けている。幸福だったあの頃の思い出を求めて、深く、遠い記憶が呼び起こされて行くのを、どうしようもなく止められないままでいる。
「私、こうやってい歩くことが夢だったの」
再び景色が変わると共に、強烈な日差しに目が眩み、鼓膜には潮騒が響く。塩の匂いが海に来たことを思い出させる。夏の日の午後、彼女にせがまれて訪れた海岸沿いを歩いた記憶が不意にフラッシュバックし、私の胸をぎりぎりと締め付けている。
外にあまり出る事の出来なかった彼女が望んだ風景は、不思議な程までに美しい記憶として刻み込まれている。寄せては返す銀色の波間を遠巻きに見ながら彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
そんな彼女を、私は何故、殺してしまったのだろうか。
ぐるぐると渦巻く、悔恨と罪悪感に口が乾き、苦みを伴った頭痛が思考能力を奪っている。
そうして気が付けば、私はいつも、あの場所へ立ち戻っている。
「貴方がいつもやっていることじゃない……」
彼女はか細い声で、苦しそうな声で、既に薬も効かなくなった身体で私にそう言った。確かに私は医者として多くの人を見送った。けれど、それは愛する人を己の手で殺す事とは訳が違う。本能的に顔をそむけたくなるのを理性が拒み、無駄だと分っていながら説得の言葉とも、懺悔ともつかない言葉を彼女へと投げかける。
「嫌だよ、僕は救うために医者になったんだ。君を殺すためなんかじゃない」
昔、感染症に罹って生死を彷徨った際に私を担当してくれた先生が言っていた言葉が何故か今になって脳裏に過る。
『人の死は避けようがない。けれど、それを先延ばしにするのが医者の務めだと私は思っているよ』
私は、あの先生の在り方とは真逆の立ち位置にいる。苦しむ人々に安らぎを与える為に医療を司っている。助かる見込みの無い人々の苦しみを、可能な限り身体に苦痛の無い様に延命させながら、一線を越える手前で、静謐に、精神が健やかに、不幸の中でも可能な限りの幸福の中で送り出す。それが私の仕事だ。
けれど、私の愛する人にも同じように仕事として接することなど、出来るわけがない。
「晴明、ごめんね? だけど、もう無理みたいなの。もう、昔のことも上手く思い出せないんだもの」
彼女は笑っていた。痩せこけた頬に流れる涙と相反して、私を気遣う為に笑っていた。身体を起すことですら精いっぱいの今の彼女には、私へと伸ばそうとした手も最早満足には動かないようだった。
「ああ……。なんで……なんで君なんだ? ――何で僕がその役割を担わなくてはならないんだ……僕は君のことを愛しているんだ、生きて欲しいと願っているんだ。誰よりも、何よりも君が幸せになって欲しかったのに、どうして……、どうしてなんだよ!?」
絶望の叫びが室内に無常に響いていた。
彼女のやせ細った腕を取り、頬に寄せる。うつむいた矢先に涙がこぼれ、視界は滲み続ける。暗い、出口の無い穴に堕とされたかのような絶望感を覚えながら、それでも尚、どうしようもない現実が目の前にはあった。
八畳ほどの部屋の中、ベッドに横たわり、幾つかの管に繋がれた彼女は私に判断を迫った。
「晴明……」
その時彼女が何と言ったか。私は覚えていない。感情は冷え切っていた。顔を上げた時に私の顔は、彼女の夫としてではなく、主治医としての顔を見せていたと思う。
「……」
そして、私はそれ以上逡巡することもなく、彼女を永遠の眠りへと誘う為の投薬を行った。そして、それが彼女が生きた最期の姿だった。