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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第一章 とある記憶管理士の日常
3/22

File1-3 記憶抽出


 記憶と記録の違いは何か。


 記憶とは自分が『体験』したものであり、それも個人の意識を通して得られた感覚として他者に帰属することなく、己のみに帰属しているものである。一方で記録とは、何等かの形で物理的に残されたものであり、『残す』ことそのものが目的とされたものであるとして定義されている。


 だが、他人の体験――即ち他者の記憶は、本当に別の個人にとって記憶として分類が出来る可能性はないのだろうか。あくまでも他者という記録媒体に収められた記録でしかないのだろうか? 


 ひょっとすると根幹にある違いは再生機器の違いではないだろうか? 自分が撮影した映像をネットにあげればそれは自分の記憶といえるだろうか?――実際のところ記憶抽出技術が普及した現代において、この違いは記憶の属性によって定義が分けられている。 


 現代における認知分野において明確に記憶と記録を分け隔てるのは身体に対する帰属の有無であると一般的には定義されている。仮に自分の記憶を抜き取り外部保管した場合、人はそれが自分の記憶であったとしても、その記憶をあくまでも『記録』として認識してしまう。


 つまり結局のところ、誰が|()()《記憶》を()()見るかによって変わるということになる。


 そうした言説がまかり通るようになるまで、多くの学者を悩ませ、そして夢中にさせたのは、他者の記憶を別の個人に同期し、そして想起を行った際に起きる自己同一性の問題にあった。


 先ずは二つ肉体を用意する。片方は脳死状態の人間であり、もう一方は健康な成人男性とする。その脳死状態の人間の肉体にもう片方の生きた健康な脳を移植した時、異なる身体に異なる記憶が移植されることとなる。その時に、目覚めた人物は身体と記憶、どちらに紐づくことになるのかという、同一性に関わる思考実験が過去より語られてきたことは記憶に新しい。


 結論として、答えは、全て脳に保管された記憶に結び付くことが実証された。そして、現代記憶認知論においては更に一歩踏み込んだ、より深く、階層が異なる問題を議論の中心に据えている。


 それは、()()()()()()()()()()に、()()()()()()()()()()()()どういった問題が起こるのか、という思考実験の域を超えた科学的分析についてであった。


 記憶理解における諸々の問題の中でも特に槍玉に挙げられた危険性として、一つの身体に二つの記憶が存在するという矛盾が問題視されてきた。記憶抽出技術分野が広く知られるようになる度に、この問題は大きく取りざたされる事になり、記憶抽出装置の実用においても実際に多くの問題を抱えてきたのも事実である。

 

 他人の記憶であったとしても、それが自分の身体に帰属するものであれば、人は他者の記憶を自己記憶かのように錯覚してしまう。Memory(記憶) Confusion(混同)と呼ばれたこの症状が及ぼす影響は根深く、時として人格形成に深刻な損傷を与え、時として廃人を生み出しかねない。


 それほどまでに自己と他者の境界線は曖昧であり、それ故に記憶の取り扱いは厳格な管理規定が設けられている。


「滑川様、暫くの間ごゆっくりとお休みください」


 ニイナは記憶抽出の為に真弓の補助役として滑川に幾つかのタブレット型の導入剤を水と共に運び、滑川にそれを飲むように促した。タブレットは記憶抽出時の脳活性を補助する為の薬剤であった。滑川はその効用についてニイナに尋ねると、暫くの間タブレットを眺めていた。


 滑川は意を決したのか錠剤を流し込むと記憶抽出専用のベッドに横たわり、ニイナによって全身にウェアラブルデバイスを取り付けられつつ、その間はぼんやりと虚空を見上げ続けていた。


 記憶抽出の準備を進める真弓が今度はニイナに代わり、滑川の腕へと静脈注射による麻酔薬の準備を滞りなく終えると、再び記憶抽出装置のコンソール前で各デバイスの状態を確認し始める。


「ニイナさんは何故、記憶管理士に?」


 不意に、滑川はニイナへ質問を投げ掛けた。


 滑川は眠気が襲ってくるまでの間、ニイナとの対話を試み始めた。それは一見すると他愛のない会話の一つでしかなかったが、滑川にとっては重要な意味を持つ行為であった。自分の記憶を覗くことになるニイナがどのような人物であるのか……担当者の人格が自身の治療とは直結しないことは理解していたが、それであったとしても年端もいかない少女が相手であれば、思うところがあるのは人として当然の心理と言えた。


 そして、それ故に滑川の口から出た疑問は、ニイナが何故、この年齢で記憶管理士になったのかという、根本的な理由を探るものとなっていた。


 ニイナはその整った化粧気の無い顔を滑川へ向け、淡々とした様子で返答する。


「私は、いつか自分の記憶と向き合う為に、記憶管理士になりました」


 その様子は、ニイナが今考えて回答をした、というよりも、どこか言い慣れたように淀みないものである様に滑川は受け取ると共に、自身が想定していない答えであったが故に滑川は思わずオウム返しに聞き返していた。


「自分の記憶、ですか?」


 ニイナの飄々とした様子を滑川は不思議と嫌な気がしなかった。それは、ニイナが真摯に滑川に向き合おうとする意図を感じたからであり、それ故にニイナにはコミュニケーションの面で何等か問題を抱えていることを察し取るには十分であったが故であった。


「はい。私には記憶切除により欠落している記憶がありますので、いつかその記憶と向き合う必要があります」


 しかし、ニイナの端的な回答はより一層、滑川の思考を疑問の渦に巻き込むものとなった。何故、自分の記憶と向き合う必要があるのか。そもそも、何故ニイナの記憶は欠落しているのか、そして、それをニイナは当たり前のように受け入れているのは何故なのか……


 滑川にとって平然と言葉を紡ぐニイナの姿は異常に映って見えていた。そしてそれは、これから滑川自身に起こる記憶抽出と、その切除に関してニイナが身を以て経験しているという事実に愕然としたからに他ならない。そしてその時、医者としての滑川晴明には、ニイナが疾患を抱える患者のように見えている自分に気が付き、同情と共に自分の身が一層情けなくも感じられていた。


「記憶の欠落は君にとって不安ではないのかい?」


 記憶の欠落は人格に強く影響を与える可能性が有るのは周知の事実であり、滑川も治療の中でこれまでと同じ個人として、自身の自己同一性を保てない可能性があることを十分に理解していた。それ故に、滑川は底知れぬ生理的な恐怖が自身の中で湧き上がるのをニイナへの質問と同時に強く意識せざるを得なかった。


 しかし、そんな滑川の内心を余所に、ニイナは首を振って屹然と応えた。


「例え記憶が欠落していたとしても、私が私であることに変わりはありませんから」


 凛とした眼差しは少女のものとは思えない力強さが溢れていた。それを言葉で表すのであれば、それは恐らく意志の強さの表れであるように滑川は感じていた。


「そう言うものなのかな……」


「滑川様もすぐにお分かりになりますよ」


 ニイナの返答に滑川が答えることは無かった。記憶抽出の為に用いられる麻酔薬により既に彼の意識は途切れ、深い眠りに落ちていたからであった。


「ニイナ、貴方も記憶抽出装置への同調の準備をお願いね?」


 新城真弓は睡眠に落ちた滑川の身体状態をモニターでモニタリングしながらニイナに記憶同調の準備を促した。それは滑川から抽出した記憶をニイナが自身の脳に取り込む行為であり、記憶管理士にのみ許された、肉体的に他者の記憶を取り込む専業行為であった。


 真弓は慣れた手つきで記憶抽出装置の操作を行い、先ずは滑川の記憶を事務所の地下に設置された独立サーバーへとダウンロードを開始する。数分もせずに記憶抽出が完了すると、次に行われるのは抽出された記憶をニイナへと同期する作業へ移ることとなる。


「はい、いつでも大丈夫です」


 ニイナは不安など微塵も感じさせない凛とした表情で真弓に応え、自らのウェアラブルデバイスの設置を終えると真弓は頷いて合図をした。


「それじゃあ貴方も、良い旅路を」


 真弓が手元の機器を操作すると記憶抽出装置が静かな駆動音と共に稼働を開始する。ニイナはその音に耳を澄ましながらゆっくりと目を閉じ、己に転移される情報へと徐々に没入していった。

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