File1-2 心の痛み、記憶の世界
真人の担当顧客に関してはキャンセルの連絡を真弓から入れ、その間にニイナは事前準備として今回の担当顧客である滑川晴明の情報について頭に入れていた。そうして気が付けば滑川の来訪時間がやってきていた。
滑川は都内でもそれなりに大きな病院の跡取りとして働く、しっかりとした家柄の出身であり、医者になるまでの経歴は、一見すると精神を病むような問題を抱えるようには思えない輝かしいものであった。
何が彼をこの場に辿り着かせる原因となったのか――ニイナは事前情報以上に想像を膨らませつつ、どのような内容であったとしても動揺しないようにと平静を保っていた。
記憶管理士であるニイナには、紹介状に添えられた診断書の内容は現時点では共有されていない。それを医療従事者として理解するのはあくまでも医師としての資格を持ち、尚且つ記憶媒介技術士でもある真弓の仕事であり、ニイナに求められるのは原因特定の為に行われる事実の確認のみであった。
果たして上手くやれるだろうか?
普通であれば経験の無い中で、自分が初めて主担当として業務を行う事に対してそのような心配を持つのであろうが、ニイナにとって、今はそのような心配は些末とすら言えた。全ては彼女の保護者にあたる、泉真人の意志の下、彼女が十分に担当として役割を果たせる事を保証しているのだから。
「はじめまして滑川様。担当をさせて頂く、記憶管理士の泉ニイナと申します」
ニイナは心の中で幾度か練習をしてみた通りに挨拶をする。
習った通りの言葉、習った通りの表情を浮かべつつも、そこに僅かながらに違和感を覚えていた。それは担当を持つ緊張か、それとも他人との接触による不安によるものなのか……少しばかり表情が硬いようにニイナは感じていたが、その違和感もまた正しいかどうかニイナ自身にはもはや分からなかった。
「本日、記憶媒介技術士として同席させて頂く新城です、宜しくお願いします」
「ええ、よろしくお願いします」
初々しさを残すニイナと、対照的に慣れた様子を見せる真弓に交互に挨拶を終え、滑川は緩慢な動作で席に着いた。
滑川晴明は三十代半ばの男性であった。酷く痩けた頬に、目元は泣き腫らした跡なのか、はれぼったさが残っている。明らかに心身の状態は優れない状態が如実に表れている中でも、髭はしっかりと手入れされており、質の良い生地で仕立てられたストライプの入ったシャツと、それに似合う腕時計が鈍く光って見えるのは彼なりの矜持なのかもしれない。
席に着き、一息ついたタイミングを見計らって、真弓から記憶治療について説明を開始する。
「滑川様は記憶保存治療をご希望と伺っております。保存治療に伴う記憶抽出及び、記憶の切除ついては既にご説明を受けていらっしゃるかと思いますが、一時的な記憶の混濁等、副作用が現れる可能性がございますので、念の為再度ご説明を申し上げます」
記憶管理士の仕事は、依頼人の記憶を保管するだけではなく、滑川のような精神疾患を持つ者に対する治療の一環としての記憶の改変、除去、結合もまたその仕事の一部であった。真弓は極めて淡々と治療に関する内容の確認を滑川へと求め、数分の内に滑川から治療に関する同意書への署名を求め始める。
「ええ、新城さん、私も医師の端くれですから、内容については十分に理解しています……。それでも……それでも、私はもうこれ以上、紫苑のいない世界に耐えられないのです……」
滑川の表情は苦渋に満ちていた。その表情を真弓はよく見知っていた。親しい者を亡くした人間が見せる、耐え難い喪失、滑川はその淵から抜け出そうと藻搔いている。
記憶が人を蝕む、そんな論文が出始めたのは百年は昔。精神病が根性論で語られていた時代には見向きもされなかった病巣として語られるようになり始めて数十年。
滑川は重度の心的外傷後ストレス障害に侵されているとの診断が下っていた。そして鬱病の併発により日常生活においても支障が出始めている。こうした病人が精神科医の診断の下、記憶治療に踏み切る事は珍しくはない。
「治療の大まかな方針としては記憶抽出後に症状の改善状況を確認させていただいてから判断をさせて頂きます。時系列を逆転させ、徐々に記憶をもとに戻す事で根本原因となる記憶の克服を行う場合もあれば、それが不可であると判断した場合は継続的な記憶除去を行います。先ほども申し上げましたが、記憶抽出時には倦怠感や一部認識の齟齬、体験記憶の欠落感など人によっては副作用が現れる可能性が御座いますのでご留意ください」
新城真弓は淡々と治療内容と副次的な作用について改めて説明を行う。記憶媒介技術士はあくまでも技術士であり、顧客の実際の記憶に寄り添うのは記憶管理士であるニイナの仕事である。
「滑川様の記憶については管理士のニイナが拝見させて頂きます」
記憶管理士は記憶保存の為に他人の記憶を覗き見る。従来コンピュータに任されてきた記憶保存が人の脳を介して行われる様はえてして奇妙なものであると言えた。
人の心を理解する為に、その者の記憶を読み解く作業を実行し、治療という最適解を産み出す。そうした意味では人工知能にも未だなし得ないセンシティブな領域を記憶管理士は任されていると言える。これは同時にアナログからデジタルへと変遷を遂げつつある医療行為において、記憶分野の治療は大凡その潮流に逆行しているとも言えた。
他人の記憶をデジタル処理し保存行為を行うことは実際のところ技術的に可能であり、加えて言えば映像記録として抽出することもまた確かに可能である。しかしながら、そうしたデジタル機器を媒介とした記憶閲覧について、三次元的な感覚が機器を通してでは数値としてでしか処理できず、それを読み取る側にとって100%の正しい理解を行うのは時として困難であった。それ故に、記憶管理士はその齟齬を限りなく0とする為に対象者の記憶を垣間見る。そして必要に応じた処理を記憶抽出装置を通して行う事が求められることとなる。
「……」
滑川はまじまじとニイナを見つめていた。年端もいかない少女に自分の記憶を覗かれるということに対する忌避感か、それともそのような状態に陥った自分自身に対する憤懣か、いずれにせよその視線に込められた意味をニイナは理解するつもりは無かった。
「では、問題が無ければ同意書へ署名をお願いします。その後、別室で記憶抽出に取り掛からせていただきますので……。ニイナ、先に準備をお願い」
真弓が二人の間に流れた空気を引き取るとそそくさと指示を出した。それに対してニイナは特に気にする風でもなく、躊躇することもなく席を外し、記憶抽出を行う準備に取り掛かり始めた。
ニイナが去るのを見送りながら、滑川は真弓に向き直り心中を吐露し始める。
「まさか、私の記憶管理士があんな少女だとは……」
滑川はやつれた顔に更に困惑の色を滲ませつつ、真弓を非難するように見遣った。真弓は滑川をの言葉は最もだと心中で同意する。十四歳になったばかりの少女に自分の記憶を預ける気分を考えればそれは妥当と言える。齢三十を超えた一人の個人として、不甲斐なさを覚えたとしても不思議ではないであろうと。
しかし、真弓はそんな内心に抱いた想いをおくびにも出さずに滑川へと事実を伝え、にこやかに微笑んだ。
「滑川様。彼女は最年少で管理士試験に受かった秀才です。何も心配には及びませんよ」
真弓の言葉に、滑川は静かに頷くしかなかった。