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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第二章 記憶に挟んだ日常の栞と共に
18/22

File2-8 再会を待つ人の下へ


 ニイナは毎朝のルーティンをこなす為に誰よりも早く起き、シャワーを浴びた後に事務所の周りの掃除を始める。


 今朝は隣に眠る茉莉香を起さないようにして、そっと部屋を出てきたことは未だ記憶に新しい。安心したように眠る同年代の姿というのは茉莉香にとっては新鮮なものだった。


 夏の朝は日が昇るのも速い。五時も過ぎれば雲一つない快晴と澄んだ空気を纏った世界が広がり、程よい気温は身体の覚醒を促してくるようであり、ニイナは身体が求めるままに大きく伸びをしながら肺に空気を満たしていた。


「あ、あの……」


 聞こえてきた声は、いつも挨拶をする煙草屋の老女ではなく、男、それも声変わりも定かではない少年のものであった。


「?」


 ニイナは目の前に現れた少年の姿をまじまじと見つめ、その人物が昨日、茉莉香のことを姉と呼んだ少年であることに気が付いた。短髪に切りそろえられた髪と、部活動で使われる指定のジャージに身を包み、肩から下げた大きな用具入れのバッグには学校名と共に小さく本人の名前と、籠玉の文字が刺繍されている。


正樹(まさき)さん、ですね?」


 ニイナは正樹に対して確認を行うと、自分の名を呼ばれた正樹は少し緊張が高まったように見えた。


「はい……えっと、昨日、姉ちゃ……いえ、姉さんと一緒にいた人、ですよね?」


「ええ。泉ニイナと申します。この泉記憶管理事務所で記憶管理士として働いています」


 正樹はニイナの自己紹介を聞いて面食らったようであったが、なんとか持ち直し、どこかぎこちないながらに敬語でニイナに応える。


「あの、少しお話よろしいですか?」


 ニイナは正樹の瞳を見つめながら、正樹が求めるものについて考えを巡らせ、答えを返した。


「茉莉香のこと、ですね?」


 それを聞いた正樹は、やはりといった顔で小さく頷いた。


「やっぱり、姉さんだったんですね……」


 正樹はニイナの言葉を聞いて、確信に満ちた表情を見せる。しかし、それも直ぐに曇り顔になりどうしたものかと小難しい表情を浮べ、ちらりとニイナの出方を窺っていた。

 

「少し歩きましょうか」


 ニイナはそう言うと、唐突に踵を返し歩き出した。


 蝶のようにふわりとした足取りに正樹は思わず見惚れたが、勝手に歩き出したニイナを直ぐに追い掛けて歩き始める。


 舗装がされてから随分と時間が経ったであろう色あせたアスファルトの道を二人は肩を並べて歩いていた。ニイナは昨日と同じく夏らしい薄緑色のワンピースを着こんだラフな恰好をしているが、今日は髪をサイドテールに纏めている。歩く度に揺れる髪からはシャンプーの淡い香りが漂っており、正樹はそれに気づかない努力をしていた。


「茉莉香は若年性健忘症に罹っています。そのせいで、あなたやお母さまの記憶を思い出せずに苦しんでいる……。そのことはお母さまから聞かれていますね?」


 だからこそ私の下に来たのだろうというニイナの推測であったが、正樹の様子からしてもそれが間違いでないことは自明であった。


「はい、昨日あの後暫くして家に帰ったら、母さんがいつもと様子が違くて……もしかして姉さんが来たんじゃないかって……でも、姉ちゃんは何も思い出さなかったって……」


「正確に言うと、お母さまは茉莉香を手助けする事を拒んだのです。事情はあるのでしょうが……記憶管理士の私としては困ったものです」


 ニイナは淡々とした口調で状況を説明したが、ニイナの言葉に正樹は何を言っているのかと驚いた表情を浮べていた。それは少なくとも、正樹が恵から聞いた内容と、ニイナが告げた内容に齟齬があることを意味している。


「そうか……母さんはきっと……」


 正樹は何か自分の中で得心がいったように頷いていた。


「正樹さん、あなたはどうですか? お姉さんの記憶を取り戻す為に協力してもらえませんか?」


 ニイナは正樹へと依頼を行う。それはきっと、正樹自身も望んでいることであるとニイナは感じていた。


「勿論です。僕はその為にあなたに会いに来たんですから」


 ニイナは正樹の横顔をちらりと見ながら、僅かにほほ笑んでいた。


「ありがとうございます。部活動が終わったら、事務所に寄っていただけますか?」


「わかりました。今日は昼過ぎには終わると思うので、終わり次第向かいます。ニイナさん、姉ちゃんをお願いします」


 正樹はそう言うと、ニイナへ深々とお辞儀をして、学校へと向けて走り出した。


 ニイナは正樹の背中を見送りながら、自分のやるべき事を理解し事務所へと来た道を戻り始めた。





 朝の支度を終えて、ニイナは真人へと茉莉香についての相談を始めていた。


 それは、記憶管理士として茉莉香の今後の治療に関する提案であり、ニイナにとっては初めての経験でもあった。


 真人は快くニイナの相談に応じると共に、健忘症に関わる記憶治療の論文を幾つか提示しながら、事の是非についてニイナに率直な感想を述べる。


「母親、そして弟に直接会っても記憶は戻らなかった……一方で既に健忘症治療における記憶領域の回復は進んでいる以上、記憶ネットワーク上において、過去記憶については失われてしまっている可能性は高い」


 人の脳内のどこに記憶が保存されているか、現在では大脳皮質内における有機的に結合した脳内シナプスが作り出す複合的な記憶ネットワークの中に経験記憶が保存されているとする説が多勢を占めている。一部の脳細胞が失われたとしても、そのネットワーク内に記憶が存在していれば、記憶の復元可能性はゼロではないとされるが、茉莉香に関して言えば、記憶欠落の対象である弟と母親と直接会っても記憶が復元しなかったのが現状である。それ故に外部的な補完が必要な段階であると真人はニイナへ自身の推測を意見する。


「はい。本来であれば根気よく親族との接点を持つことで記憶復元を促したいところですが、ご家族の関係上それは難しいかもしれません。そこで記憶同期による処置を提案します」


「記憶補完か……難易度が高い上に、補完された記憶が上手く定着するとは限らないことは知っているな?」


 記憶補完とは、記憶欠落者に対して、その人物を知る第三者の記憶を基に記憶管理士が欠落記憶を補完する情報を埋めた上で再度の記憶同期を行う治療方法であり、一般的には事実認識を記憶欠落者に促す補助行為とされていた。


「はい、それは分かっています。私が茉莉香の記憶を同期した上で、弟さんの記憶を同期し補完記憶を作り出します」


「記憶管理士による擬似記憶の複製……君は実際に手掛けるのは初めてだろう? 茉莉香さんはなんと?」


「茉莉香は私に任せると。それに訓練では十分に結果を出してきました」

 

 真人は腕組みをしながら、どうしたものかと考える。治療に関してこれまで話を行ってきたのは真人と、茉莉香の父親である(まなぶ)であった。それ故に、治療行為をニイナに任せて良いものか改めて真人は責任者として判断をしなければならなかった。


 ニイナは落ち着いた様子でありながら、どこか昂揚感を覗かせている。それは普段のニイナを見ていなければ分からない程度の変化であるが、記憶管理士としての責任感としての変化であればそれは喜ばしいものであると真人は考えていた。一方で些か入れ込み過ぎでもあるようにも真人は感じており、判断を天秤に掛けながら会話を続けた。


「その様子だと、正樹君も納得済ということか……だが身内とは言え、未成年者に対する治療行為の協力には親権者の同意が必要な事は理解しているな?」


「はい。私が説得してみせます」


 ニイナはきっぱりとそう宣言してみせた。それを聞いた真人は特に表情を変える事もなく、ニイナの言葉に小さく頷き同意を見せる。


「ふむ……いいだろう。父親の方は私が話をしよう。ニイナ、君は母親の方を頼む」


「ありがとうございます」


 真人の同意を得て、直ぐに動き出そうとするニイナへ真人は待ったをかける。


「ニイナ、一つ聞いていいかい?」


 ニイナは怪訝な顔つきで真人へと向き直った。


「はい」


「どうして茉莉香ちゃんの為にここまで?」


 それは、一日、二日、出会ったばかりの少女に対して情が移り過ぎではないかという懸念を孕んだ質問でもあった。単純に記憶管理士としての責任感というよりも、少し個人的な感情が入っているのではないかという疑念がそこにはあった。


「わかりません」


 ニイナは真人の質問に対して正直に答えた。


「……わかりませんが、私がそうしたいと思うのです」


 真人はその言葉に目を見開いた。ニイナが義務ではない、自身の感情によって動かされているということを真人は知り、単純に驚いたからであった。


 それは、これまでニイナには無かった、失われていた感情の一つでは無いのかと真人は推察する。


「……それはきっと、彼女のことを好いているんだろうな」


 誰かを大切に思う気持ち、それが今のニイナの原動力になっている。真人はそれを確信していた。


「茉莉香を、ですか?」


 ニイナは昨晩、真弓にも同じことを言われたことを思い出していた。しかし自分の中に渦巻く様々な名付け難い感情が本当に「好き」という感情なのかどうか、実感を持てずにいることも事実であった。


「ああ、きっとそうなんだろう…… 一つ、覚えておいて欲しいんだ。人は感情で他人の為に動くことが出来る。それは時に掛け替えのない価値のあるものなんだ」


 真人は諭すようにニイナに言うと、ニイナはどことなく嬉しそうな表情を見せる真人を見て、少し自分もまた嬉しい気持ちになっていることに気が付いた。


「……ありがとうございます。……何故かはわかりませんが、こうした感情も悪くないと少し思えました」


 ニイナはそう言うと、どこか照れくさそうに席を立ち部屋を出て行った。それを真人は頷きながらただ見送っていた。


「……そろそろか」


 真人は、ぽつりとつぶやくと共に、ニイナの成長を確かに感じていた。

 

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