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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第二章 記憶に挟んだ日常の栞と共に
17/22

File2-7 二人の静かな夜の時間


 張られた湯舟に浸かり、ニイナはぼんやりと天井を見上げていた。


 湯舟から上がる水蒸気が天井に触れると、水滴が溜まり徐々にその大きさを拡げて行く。


 泉記憶管理事務所の居住区には風呂場が二つあり、ニイナと茉莉香は別々に入浴中であった。


 水滴が天井から湯舟に落ちるのを見る時間がニイナは好きだった。誰にも邪魔されない、静かな夜の時間であり、考え事をするには最適な時間と言えた。


 体育座りをしながら膝を抱えていると、自分の鼓動が静かに身体に響くのが聞こえ、自分が生きているという実感をニイナは抱いていた。


 川で冷えた身体も今ではすっかり暖かくなり、きめ細かい、透き通るような白い肌にも赤味が差している。


「ニイナ、ここに新しいタオル置いてあるからね。あと、少しだけいいかしら」


 不意に洗面所側からドア越しに声が聞こえ、ニイナは声の方に顔を向けた。


「はい、大丈夫です」


「今更だけど、茉莉香ちゃんのこと、ありがとうね。大切にしてたペンダントを拾う為に川に飛び込んだって? 無茶なことをするって真人心配してたわよ」


 ニイナは真弓の言葉を受けて、川へ欄干から飛び込んだ時のことを思い返していた。あの時に自分が抱いた昂揚感と、そしてそれを為した原動力が何だったのか、その答えは未だでないままだった。


「自分でも不思議でした。でも身近な物は、記憶を引き出す鍵の一つですから」


 人の記憶はそれを想起する為に様々なものに紐づいている。匂いや音、そして物、情報が情報に紐づく形で記憶の補完が行われる。それは脳内に形成された記憶ネットワーク上の情報処理における優先度を外部的な情報によって引き上げることを意味する。それ故に、記憶欠落を起している人物にとって身近な物はその記憶を取り戻す為の鍵となり得る、重要な材料とみなされている。


 それをニイナは十分に理解していた。それ故に、自分の行動は記憶管理士としては正しい行動だったことは間違いないと考えていた。


「そうね。貴方は記憶管理士として立派だった。……でも、それだけじゃないんでしょう?」


 ニイナは真弓に自分でも整理が付かない部分を指摘され、自分が駆けだした時の感情を改めて想起するが、相変わらず答えは出ないままだった。しかし、あの時に抱いた感情をニイナは何故か心地よく感じていることもまた事実であった。


「正直なところ今でもよくわかりません。……分かりませんが、茉莉香の笑顔を見るのは悪くないと思いました」


 真弓はニイナの言葉を聞いて思わず微笑んでいた。


「ふふ、それは好きってことよ」


 ニイナは真弓の言葉に思わず反応をしてしまう。


「好き、ですか?」


 好きとは何か、という問いをニイナは真弓に尋ねていた。その感情はこれまでニイナが抱いてこなかった感情の一つであった。


「茉莉香ちゃんはニイナに似てるからかもね」


 どこが、とニイナは口に出そうになるが、真弓はあたかも答えを知っている様子であり、少しは自分で考えるべきだと頭を捻るが、やはりニイナには分からなかった。


「そうでしょうか?」


「そういうことは自分では気づかないものよ」


 真弓は見透かしたようにニイナにそう告げる。ニイナは真弓が詳しく説明するつもりがないことを察すると、すこし拗ねたように再び湯舟の中で膝を抱え込んだ。


「……そうかもしれませんね」


 それと、と真弓が別の話題を口にしたのを、ニイナは少し身構えつつ、耳をそばだてていた。


「真人と話をして、ニイナを正式に茉莉香ちゃんの記憶管理担当とすることにしたけど、引き受けてくれるかしら?」


「ええ。問題ありません」


 それは、ニイナにとっては願ってもいないことだった。茉莉香と仲良くなったことで、彼女の力になりたいと感じていた矢先であり、担当者として任命されたのであれば、大手を振って動くことが出来るからだった。


「ありがとう。今日はゆっくり休んでね」


「はい」


 ニイナは真弓のドア越しの言葉を心地よく感じていた。


 そして、その浮き立つ様な感情を落ち着ける為にニイナは再び天井を見上げ始めた。



 


「ニイナ、入るね?」


 ニイナの部屋に真弓に借りた寝巻姿で入った茉莉香は他人の部屋に入ることに慣れていないのか、恐る恐ると言った体で入室する。


 先に風呂から上がっていたニイナは既に髪も乾かし終わりベッドの端に腰掛けながら本を読んでいた。


「明日はどうするの?」


 ニイナはベッド脇に置かれたサイドデスクに本を置くと、茉莉香に向き直り尋ねる。


正樹(まさき)に会ってみようと思う」


「弟さんね?」


「うん」


 短い会話だったが、ニイナは頷いた。


「ねえ、ニイナは自分の記憶がないことを怖いと思ったことはないの?」


 ニイナは茉莉香の問いに真摯に答えた。


「自分の記憶の欠落が怖いと思うのは、自分が知らない自分の存在を他人を通して感じてしまうから。私には、私を待ってくれている人はいないから……大事なのはその記憶とどう向き合うかだと思っているのかもしれない」


「ふうん……なんだかお祈りみたいだね」


 茉莉香の感想はニイナにとってこれまで初めてのものだった。ニイナが自分の記憶に抱く感情はひょっとすると、手の届かないものに対する期待が込められているものなのかもしれない。


「どうかしら……ひょっとしたらそうなのかもしれない。そこに何かがあると信じているだけなのかもしれない。でも、茉莉香は私とは違う。あなたには待っている人がいるもの」


 ニイナの返しに茉莉香は不安げな声を上げる。


「そうかな? お父さんもお母さんも、私の記憶が無いこの状況を都合よく感じている気がする。どうせ戻らない関係性ならいっそなくなってしまえばいいと思っているのかもしれない」


 茉莉香の言葉は恵の対応からニイナが感じたものと同じものであった。しかし、ニイナはそんな茉莉香の推測に対して、捉え方を変えるべきだと主張した。


「他人がどう思うかは関係ない。記憶はその人を象る形そのものだから……茉莉香の記憶は、茉莉香だけのもの」


 しかし、人の実際の関係性と言うものはそう簡単に割り切れないものであることをニイナはこれまでの経験から学んでいた。それ故に、茉莉香が抱く不安は仕方がないものだとも感じていた。


「正樹は私のことをどう思うんだろう」


 それは会ってみれば分かる。ニイナは口から出そうになる言葉を呑み込み、ただ茉莉香の出ない答えに身を寄せていた。


「今日はもう寝ましょう」


「そうね。今日はだいぶ疲れちゃった……」


 茉莉香はふらふらと、ニイナが座るベッドに倒れ込むと、ニイナに手招きをして見せる。


「今日は一緒に寝ようニイナ」


「……わかりました」


 ニイナは少し困ったような表情を一瞬浮かべたが、茉莉香の眠そうな表情を見て、抵抗する気が失せ、その誘いのままにベッドに横たわり、今にも寝息を立てそうな茉莉香の顔を眺めていた。


 そして暫くすると、静かな夜の時間の中で、二人は身を寄せ合いながら深い眠りについた。

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