File2-6 記憶を求める者
ずぶ濡れの少女が二人、街を歩く姿は、ひょっとすると見る人によればその様は奇妙に映ったかもしれない。喧嘩でもしたのか、それとも好奇心から川に飛びこんだのか……いずれにせよ子供のした事と、おおらかに見る人の方がもしかすると大半かもしれない。
大人とはまだ言えない、若さを見せつけるかのように二人に恥じらいはなく、寧ろ笑顔を見せながら、あたかもそれが自然であるかのような足取りをしている様はどこか妖艶で、それでいて、やはり何処かあどけなさが溢れていた。
ニイナは首筋に垂れる水滴を最早気にする仕草を見せることはなく、茉莉香と手を繋いで彼女を導くように歩いている。
茉莉香の記憶は未だ、戻ることはなく、母親に拒絶されたという事実は拭いようの無い事実であった。しかし、この時、茉莉香はそのこと以上に、自分の側にいてくれるニイナの存在の大きさに悲しみよりも喜びが湧き、胸が熱くなっていることを不思議に思っていた。
「今日会ったばかりなのに、なんだか不思議。私の病気を知った向こうの友達はどこかよそよそしさがあったの。それは仕方ないことだと思っていたけれど、ニイナはどこか違うのね」
それはニイナが記憶管理士であるから、と言えばそれまでかもしれない。しかし、ニイナが記憶の欠落した人に寄り添うことが出来るのは彼女自身もまたその経験があるからに違いない。
「私には家族の記憶がありません。あるのは記録として渡された自分を取り巻く関係性の情報だけです」
ニイナが突然口にした言葉に茉莉香は黙ったまま耳を傾けていた。
「私と父、そして母が乗っていた自動車が事故に巻き込まれて、助かったのは私だけだった。その時に受けたショックは当時六歳の私にとっては酷いもので、私は精神的なトラウマを抱えて塞ぎ込んでいた。だから記憶治療を受けて関連する記憶を消去してしまった」
それは不可抗力であった、とニイナは当時の状況からその選択に間違いは無かったと信じていた。
「けれど失ったのは記憶だけじゃ無かった。人として当たり前の気持ち、感情、経験、そうしたものが手からこぼれ落ちてしまった。引き換えに失ったものは大きかった。記憶を切り離したことが良いことだったのか、それとも悪いことだったか今はまだわからない。私はまだ、その評価を下す途上にいるから。だから私はいつか自分の記憶と向き合わなければいけない」
「ニイナは強いんだね」
茉莉香はぎゅっとニイナの手を握り締めてそう零した。
「私にとってはそれが、今は無い人との繋がりそのものだから。だから、そのままにしておくことが出来ないの」
ああ、と茉莉香は小さく嘆息した。そして、何故ニイナが自分のペンダントの為に躊躇いもなく飛び込んで見せたのか、その理由の一端を垣間見たように感じていた。
『ニイナは記憶を他人との繋がりそのものだと思っている、だからこそあの時、ニイナは簡単に記憶を手放すようなことをした私に真意を聞いたんだ……』
「ありがとうニイナ……」
ニイナは怪訝な顔をしながら茉莉香を見たが、それ以上何か茉莉香に尋ねることは無かった。それは、茉莉香に笑顔がこぼれていたからであった。思いつめたような表情を常にしていた茉莉香よりも、柔らかな笑顔を見せる姿をニイナは気に入っていた。
二人は濡れながらに足取りは軽く、事務所に戻った時には夕暮れ時も過ぎ、既に空は群青に染まろうとしていた。
そんな二人の帰りを事務所で今か今かと待っていたのは、新城真弓と、茉莉香の父親である、楠木学であった。
「二人とも、おそ……、ってどうしたの一体!?」
真弓は帰りが遅い二人を叱ろうかと思っていたが、二人の姿を確りと見るなり驚きの方が勝ったようだった。真弓は慌てて事務所の奥から二人分のバスタオルを持ってくるとニイナと茉莉香に手渡し、身体を拭くように促した。
「何? 水遊びにしては大胆な濡れっぷりね……もしかして川にでも飛び込んだんじゃないでしょうね?」
じろりと真弓はニイナを睨むが、ニイナは至って真面目な表情で頷いた。
「気が付いたら川に飛び込んでいたの。自分でも不思議だったけれど、そういうこともあるということを今日は学んだみたい」
それを聞いた、真弓は真面目過ぎるニイナを見て笑いが漏れるのを堪えるうちに、怒気も失せ、叱るのをあきらめたようであった。
「茉莉香ちゃんも悪かったわね。ニイナが付き合わせちゃったみたいで」
「いえ、寧ろ私の為に、ニイナは川に飛び込んでくれて……すみませんでした」
真弓は茉莉香が謝る理由が分からず、ニイナに視線を移した。ニイナは後で話すと首を振ってそれに応えた。
「……茉莉香、母さんには会ったのかい?」
ニイナと茉莉香の姿に驚きつつも、学は髪を拭く茉莉香に核心を突く質問をした。父親として学は茉莉香が母親に会いに行くであろうことを予想していたようであった。学の白髪交じりの灰色になった髪がどことなく気苦労を感じさせ、痩せ型の体形も相まって、どこか哀愁が漂うように見える風貌だった。
目の形が茉莉香にそっくりだと、ニイナは思ったが、それ以上にどこか後ろめたさも持つ様な茉莉香への気遣いに少し淋しさを覚えていた。
「うん。でも記憶は戻らなかったの……」
茉莉香は、恵の家で起こった出来事を詳しく語る気が無いようであった。しかし、それを聞いた学はどこか安堵したかのようで、ニイナはその反応に違和感を抱いていた。
「そうか……残念だが、時間はあるんだ。ゆっくり思い出して行けばいいさ」
「うん……」
学と茉莉香の間に流れる空気はどこか苦しいものであるようにニイナは感じていた。真弓も同様に親子の会話、それ以上の何かを感じ、間に割って入り会話を引き取ってみせた。
「楠木様。今日はもう遅いですし、茉莉香さんも風邪をひいてはいけないので、このままお風呂に入ってもらってそのまま泊まってもらおうかと思うのですが如何でしょうか?」
「ええ、構いませんよ。ニイナさんとも随分仲良くなったみたいですからね。色々とまだ話したいこともあるでしょうからね。お手数ですがよろしくお願いします」
学は茉莉香に年齢の近い友人が出来たことを喜ばしく思っているようだった。
「それじゃあ、二人とも、早くお風呂に入ってきなさい?」
ニイナと茉莉香は真弓に追い立てられるようにして、事務所から住居区画へと足早に向かっていった。
二人の足取りはどこか軽く、見送る真弓にはまるで仲の良い姉妹のように映っていた。