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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第二章 記憶に挟んだ日常の栞と共に
15/22

File2-5 それは誰の為の記憶なのか


 きつい陽射しも徐々に鳴りを潜め、徐々に夕暮れ時に差し掛かろうとしている中、一人の少女がどこに向かうでもなく、走り続け、やがてその足を止めた。


 家から飛び出した茉莉香を探すのに、ニイナにはさほど時間はいらなかった。


 青とオレンジ色が混ざり合う黄昏色に染まろうとする空の下、ニイナは茉莉香が橋の欄干にうなだれるようにして肩を震わせている姿を見つけ、小走りに駆け寄った。


 橋の上を吹き抜ける生ぬるい風と、汗ばんだうなじを鬱陶しく感じながら、ニイナはどんな言葉を掛けるべきか考えあぐねていた。


「なんでだろう……私、勝手に歓迎されると思ってた。記憶をなくしちゃってごめんなさいって言おうと思ってた。そしたら、きっとお母さんも協力してくれるって勝手に思ってた」


 茉莉香は独り言のように言葉を零し始める。それは自分の罪の意識と、そして後悔の形であった。


「でも、きっと間違っていた。お母さんにとってもう、私は必要がなくて……今更になって話をしようとしても困っちゃうんだね」


 茉莉香は泣いていた。眼鏡の奥で絶え間なく流れる涙の粒をニイナはどうすることも出来ずに眺めていた。


「……茉莉香は今、悲しいの?」


 ニイナは何故、茉莉香が泣いているのか、その感情を読み取ることが出来なかった。拒絶された悲しみがあるとしても、今の茉莉香にとって、恵という存在は他人と同じではなかったのかとニイナは考えていた。


「分からない。私にもわかんないよ。でも、家について、会って思ったの。懐かしい匂いがして、あの家で過ごした懐かしい記憶は確かにあって……本当かどうかは分からないけれど、でも、あの人が私のお母さんなんだって、そんな実感があったの……でも、それは私だけのものだった。この繋がりを求めていたのは、私だけだったんだ」


 茉莉香は首から下げた、エメラルド色をした四葉のクローバー型のペンダントを外し、それを涙目で見つめていた。


「これね、お母さんからもらったものだって、お父さんが言ってた。何で貰ったのかはお父さんも知らなかったけど、いつもお母さんが身に付けていたものだったんだって。きっと、それをくれたお母さんは私のことを思ってくれていると思ってた。でも、五年も会いに来なかった娘に、もう愛情なんてないよね」


 ニイナは茉莉香に掛ける言葉が無かった。


「だから、これはもういらない」


 茉莉香は呟くように言うと、ペンダントを橋の上から投げ捨てた。放物線を描いて、空中に投げ出されたペンダントは音もなく止まることなく流れる川の水面に吸い込まれ、そして水底へ沈んでいった。


 ニイナはその様を複雑な表情で眺めていた。


 その時ニイナは、自分の中に湧き上がる感情があることに気が付いていたが、その形容し難い感覚に、適切な言葉が出なかった。


 だが、確かに、茉莉香がペンダントを投げ捨てたことに対して、それを正しいとは思えずにいた。


 それ故に、ニイナは茉莉香へと問うた。


「本当に茉莉香はそれでいいの?」


「……」


 ぴくり、と茉莉香は反応を見せるが言葉を発することは無かった。ニイナからは欄干に突っ伏した茉莉香の表情は見えない。


「家族で過ごした記憶、貴方のお母さまはいらないのかもしれない。けれど、貴方にとっては必要な記憶ではないの?」


「……」


 茉莉香は俯いたままであったが、ニイナの言葉に反応するように一言、呟いた。


「……だよ」


 ニイナは風に紛れて掻き消えそうになる茉莉香の絞り出した小さな声を聞き逃さなかった。そして、気が付いた時には走り出していた。


 茉莉香は、次の瞬間に叫んでいた。その小さな身体で、胸中に渦巻く感情を夕暮れ時の空に向けて叫んでいた。それは、茉莉香にとっての心の叫びだった。


「そんなの、そんなの、あたりまえだよ……!!」


 タンッ! という軽やかな音につられ、茉莉香は欄干を足蹴に空中へと躍り出た者の姿を確かに見た。


 黄昏色に世界を染める陽光に紛れ、金灰色の髪が光を反射し、あたかも羽が生えたかのように軽やかに空を舞うニイナの姿は幻想的なまでに輝きを放っていた。


 その光景に茉莉香の金縁の丸眼鏡の奥で涙に濡れた瞳が大きく見開かれる。


「綺麗……」


 数舜の後に大きな水飛沫が舞い上がる音が橋の上まで響き、茉莉香は慌てた様子で欄干から身を乗り出し、ニイナの姿を確認し始める。


「ニイナ、大丈夫!?」


 六メートル程の高さから飛び込んだニイナを気遣い、茉莉香は叫ぶも、ニイナは水面から顔を出し手を上げてその声に応えた。そして、その右手に握られていたのは茉莉香が投げ捨てたペンダントであることに茉莉香は気づき、思わず口を手で覆った。


 そして、意を決したかのように茉莉香は丸眼鏡を外してその場に置くと、欄干を軽やかに乗り越え、川へと飛び込んでみせた。その茉莉香の思いがけない行動に今度はニイナが驚く番であった。


 いたいけな少女然としていた茉莉香の突然の行動にニイナは狼狽えるも、彼女が宙を舞う姿をみつつ、どこか胸がすく様な気分を覚えているのも確かだった。


「ぷはぁ! ニイナ! 私、こんなに怖いとは思わなかった! あなた、なんてことしたの!?」


 茉莉香は水中から顔を出すと共に、今になって怖くなってきたとニイナを非難する。一方のニイナもそれは茉莉香も同じでしょ、と茉莉香に応える。


「私も茉莉香が飛び込むとは思ってなかった。正確に言えば、飛び込む必要は無かったのに」


 ニイナはずぶ濡れになった黒髪の少女を窘めるように告げる。しかし、茉莉香は首を振ってそれは違うとニイナに言った。


「そのペンダントは私のものだもの……私が自分でちゃんと見つけなければいけないはずのものだから……」


 ニイナは茉莉香の言葉に理解を示し、そうね、と頷いた。


「茉莉香、これは貴方の記憶に繋がる鍵。だから、無くしてはいけない物なの」


 ニイナは四葉のクローバを象ったペンダントを茉莉香の首に掛けながら、そう言い聞かせる。


「うん……でもどうしてニイナはそこまでして私の為に?」


「それは……」


 ニイナは少し考え込みながら答えを探していた。茉莉香の言葉を聞いて思わず飛びこんだ、それが何是だったのかと聞かれても正確が言葉をニイナは答えることが出来なかった。しかし、一つだけ言える事があると、ニイナは茉莉香へと自信を覗かせる笑みと共に告げた。


「それは、私が記憶管理士だからだと思う」


 それを聞いた茉莉香は思わず笑い声を上げてしまった。


「ははっ、変だよ、ニイナ」


 突然笑い出した茉莉香を見ながらニイナは不思議そうな表情を浮べた。


「そう?」


「うん、そうだよ。でも、ありがとう」


 茉莉香は未だ少し赤い瞳のままではあったが、これまで見せる事の無かった笑顔を浮かべ、ニイナへ感謝を述べた。


 その笑顔はニイナがこれまで見た様々なものの中でも、とても美しい類のものであった。


 


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