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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第二章 記憶に挟んだ日常の栞と共に
14/22

File2-4 そして何に記憶は宿るのか


 ニイナと茉莉香は市内を二分にする川にかけられたコンクリート製の簡素な橋を通り過ぎ、歩みを進めて行く。


 暫く無言のまま歩き続け、茉莉香の足が突然止まり、ニイナはその視線の先にある一軒の家が目当ての場所であることに気が付いた。


 住宅街の一画、駅から遠くない場所に茉莉香の生家は建っていた。


 両親の離婚の際に母親側へ譲渡され、未だにそこでは茉莉香の母親である(めぐみ)と、弟の正樹(まさき)が住んでいると茉莉香からニイナは聞いていた。


 表札には既に別の苗字が刻まれているが、その理由について茉莉香が語ることは無かった。母親の元々の性か、それとも既に再婚して別の性に変わっているのか。ニイナがそれを知ることは出来なかった。


「ここが?」


 ニイナの問いかけに、茉莉香は静かに頷いていた。一言だけ「懐かしい気がする」という言葉を口にするとそれ以上の言葉は茉莉香からは出てこなかった。


 ニイナは場所の記憶は残っているということを不思議に思ったが、父親との記憶は引き続き保有している以上、生活の中で不要となったものから徐々に記憶が失われていったのだろうと理解した。


「行きましょう」


 ニイナの言葉に、茉莉香は返事をしなかった。ニイナは茉莉香を見遣るが、仕方ないとばかりに、二の足を踏む茉莉香の代わりにインターホンの呼び鈴を押した。


『はい、どちらさまでしょうか?』


 暫くすると、訝し気な女性の声がインターホン越しに響いた。ニイナはどことなく茉莉香の声に似ていると思ったが、特にそれ以上気に留めることもなく自己紹介を始めた。


「泉記憶管理事務所の泉ニイナと申します。娘さんの茉莉香さんをお連れしております。いきなりで大変恐縮ですが、今、お会い頂くことは出来ますか?」


 インターホン越しでも息を呑む声がはっきりとわかるほどに、茉莉香の母親――恵は驚きを以てニイナの言葉を受け止めていた。そして少しの沈黙の後に、少し震えた声音で恵は返答をした。


『え、ええ、少しお待ちください……』


 インターホンが切れると、慌てたような足音が直ぐに聞こえてきた。ニイナは少し緊張した面持ちを見せており、茉莉香の様子をちらと窺うが、茉莉香はニイナを見る事はなかった。


「……なんだか懐かしい匂いがする。今日はそうか、煮物の日なんだ」


 茉莉香は心ここに非ずといった様子で、何か記憶に繋がりそうな情報を、五感の全てを総動員して導きだそうとしているようであった。


 玄関のドアが開くと、そこには四十歳過ぎに見える身なりを小奇麗に整えた女性が狼狽えた様子を見せながら姿を現した。その視線は正面に立つニイナを捉え、違うと見るやすぐさまニイナの後ろに立つ茉莉香の姿を捉えた。


「茉莉香なの……?」


 恵の視線に茉莉香はようやく気が付き、見つめ返していた。その表情には悲しみと緊張の感情が強く表れており、弟の正樹と出会った時と同じような言葉にならない苦悶の表情を浮べていた。


「はい……」


 振り絞った言葉に、恵は衝撃を受けていた。何を言ったらよいのかと、考えあぐねているようにも見え、茉莉香と恵の間に時が止まったように沈黙が流れた。


「お母さま――恵様でよろしかったでしょうか? 宜しければ中で落ち着いてお話をさせて頂けますでしょうか?」


 間に入ったニイナの言葉は止まった空気を一瞬にして霧散させるには十分であった。


「あ、ええ、そうね、そうしましょう。さ、中へどうぞ」


 恵の手招きに応じてニイナと茉莉香は玄関で靴を脱ぐと居間へと向かった。先ほどまで鼻腔を占めていた食事の匂いとは違う、その家特有の匂いにニイナは気が付き、目を細めた。ニイナはそっと茉莉香を見ると、茉莉香は何かを感じたのか、ぎゅっと胸元のペンダントを握り締めていた。


 今につき、六人用のダイニングテーブルに座ると、恵が口を開いた。


「懐かしい? 五年ぶりだものね」


 茉莉香が落ち着かない様子で室内のあちこちへ目線を送っているのを見て、恵は言葉を掛けた。


 茉莉香の表情は先ほど正樹と会った時と同じように強張りを見せ、表情は優れない。


「……」


 なんと答えるべきなのか迷う茉莉香を見て、ニイナは言葉を引き取った。


「……恵様、茉莉香は現在記憶治療中でして、過去の多くの記憶に混乱をきたしている状況です。それも特にご家族と過ごした記憶が特に欠落しているようです」


 恵は血の気の引いたような表情で心配そうに茉莉香を見つめ、どんな言葉を掛けるべきかが分からずに固まったまま動けないでいる。


「こうした記憶欠落の症状に有効な治療方法として、所縁(ゆかり)の地、所縁の人、所縁の物、そうした記憶のトリガーとなるものに触れることが重要になります。記憶が戻るかどうかは分かりませんが、試してみる価値はあります」


 ニイナは説明を続け、自分が何故、茉莉香をここに連れてきたのかという理由を説明する。その話を恵は真剣に聞いていた。


「……つまり、茉莉香は私のことが分からない、ということですか?」


 お腹を痛めて生んだ我が子が、自分のことを忘れている、その事実がどれだけ恵を傷つけているのか、想像に難くない。しかし、ニイナは淡々と事実を告げていた。それは状況を隠したところでニイナの状態が良くなることは有り得ないと理解しているからであり、恵に対して協力を仰ぐためには誠実な対応であると言えた。


「はい、残念ですが、お母さまだけではなく、弟さんの正樹さんも同様です」


 恵は、申し訳なさそうに俯く茉莉香と、茉莉香が握り締めるペンダントを暫くの間、感情の色が見えない表情で見つめていた。


 恵は逡巡を振り払うかのように、ニイナに茉莉香の詳しい症状の確認を始めた。


「……それで茉莉香はそうした状態で私達家族の昔の記憶をどの程度理解しているのですか?」


「大まかには茉莉香のお父様から話しを聞いているようです。ですが、そうした口頭での話で得られる情報と記憶が一致しないというのが現状ですから、現実味のない、まるで他人の話を聞かされているように感じている部分が多くあると思います」


 そのニイナの言葉に茉莉香も無言で頷き肯定を示した。


「そう、ですか…… ニイナさんは、私達家族がどのような家族だったかを知っていらっしゃるのですか?」


 それは恵からの唐突な問いであった。家族関係における過去の話を聞かれていると理解したニイナはそれに対して首を横に振って応える。


「いえ、過去のいきさつ等は知りません。仮に茉莉香さんの記憶を見ることになったとしても私は記憶管理士としてここにおりますので、情報管理についてはご安心ください」


 ニイナは躊躇いなくそう答えた。それを聞いた恵はどこか安堵したかそれでいて悩んでいるような曖昧な表情を見せる。暫くの間を置いた後に恵はニイナの目を見ながら、はっきりとした口調で告げた。


「それであれば……このままお帰り下さい。私からお話することは何もございません」


 ニイナはそれを怪訝な表情で聴くと共に「何故?」と咄嗟に聞き返していた。


「これ以上、私を苦しめるのは止めて欲しいのです。私と正樹は今、幸せに暮らしています。過去のことを忘れて、ようやく落ち着くことが出来たのです。どうか、私達を煩わせるのをお止めください」


 その言葉は切実だった。ニイナは理解が出来ない困惑の表情を浮べ思わず茉莉香を見遣る。それが主導権を渡す行為だとニイナが気づいた時には遅かった。茉莉香は何も言わずに立ち上がると、家の外へと飛び出して行った。


「茉莉香!」


 ニイナは茉莉香が飛び出すのを制することが叶わず、追い掛けようとしつつも、残された恵に視線を戻した。


 その時、彼女の瞳から零れる涙を確かに見た。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 顔を覆い、涙をしながら謝罪の言葉を漏らす恵の姿を、ニイナはその時、全く理解することが出来なかった。


「ッ! それなら、なぜ貴女は!?」


 ニイナは湧き上がる衝動に任せて恵を詰りたかった。しかし、すんでのところで罵倒の言葉を飲み込み、一礼だけすると、すぐさまに茉莉香を追い掛けることとした。


  

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