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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第二章 記憶に挟んだ日常の栞と共に
13/22

File2-3 誰かの記憶に残るということ

「茉莉香ねえちゃんだよね……?」


 茉莉香は目の前で自分の名前を呼び、訴えかけるように見つめる男の子から視線を外さなかった。胸元に鈍く光る四葉のクローバーを象ったペンダントをぎゅっと握り締めている様は、必死に何かを思い出そうとしているかのようであった。


「茉莉香、もしかして弟さんですか?」


 ニイナは確認を求めるように茉莉香に問いかけるが、茉莉香は固まったまま言葉を発することは無かった。その表情に浮かんだ色は、どこか恐怖に似た感情にさえ思える。血の気の引いた唇からも、酷い緊張が窺えた。


「……ごめんなさい。分かりません」


 茉莉香が絞り出す様にして口にした言葉に男の子は酷く傷ついた表情を見せた。拳をぎゅっと握り締めながら何かに耐えるように口を真一文字に結んだ後に、悲しそうに言葉を漏らした。


「……すいません、たぶん……人違い、でした」


 男の子はそれだけ言い残すと、脇目もふらずに走り出した。ニイナは思わず立ち上がってその後ろ姿を目線で追うが、アスファルトで舗装された道をあっと言う間に駆ける男の子の姿は既に小さくなっていた。


「茉莉香、本当に知り合いじゃないのですか?」


「……分からないんです。そうかもしれないけれど、違うかもしれない。最後に弟に合ったのがいつだったのか、弟がどんな顔をしていたのか、どんな声をしているのか、今の私には分からないんです」


 ニイナは即座に茉莉香の状態を理解し、同時に自分の理解の及ばなさにため息が出そうになるのを何とか堪えつつも、興奮状態にある茉莉香を落ち着かせる為に先ずは事実確認を始めた。


「弟さんの記憶が欠落しているんですね?」


「弟の記憶だけじゃないんです…… 父と母が離婚してから、母と弟とはずっと会っていませんでした。私の病気が発覚した時にはもう二人の記憶は私の中には残っていなかった。残っているのは虫食いになった記憶だけで、本当に二人がいたのかどうかすら私には思い出せない……」


 茉莉香は明らかに混乱した様子であった。記憶にない存在が急に目の前に現れ、自分のことを姉と呼ぶ、そんないきなり自分の身に降りかかった事態に理解が追い付いていないようであった。努めて冷静な口調ではあるが、自らの身体を抱きしめるようにした腕に力が入っているのを始めに、先ほどから僅かに息が荒く、顔色が優れないままでいる。


 ニイナは茉莉香には両親がいて、なんの不自由もなく家族から愛情を注がれ生活しているものだと思い込んでいた。父親がいるからといって、必ずしも母親もいるとは限らない。そんなことは身に染みてよく分かっていたはずなのに、どうしてそこに思い至らなかったのか――ニイナは自分の勘違いを胸中で恥じていた。


「そうでしたか……ですが、よろしかったのですか?」


 ニイナは努めて冷静な口調で茉莉香に問いかける。それは、茉莉香がここに来た理由に検討をつけたが故であった。下校路を知っていたとするのであれば、廃線になっているこの停留所のベンチになんとなく行きついたことも理解ができた。


 恐らくはここで待っていれば部活帰りの弟に出会う可能性がある、そんな淡い期待が茉莉香にあったとしても不思議ではない。しかし、実際にそれが我が身に降りかかることで与えられたストレスは想像以上だったのだろう。


「良いわけなんてない……私はこの為にここに来たんだから……!」


「無くした記憶を思い出す為に、わざわざここに来られた、ということですね」


「そう……お母さんと弟のことを思い出しに来たの……顔も覚えていない、けれど思い出の中に確かに誰かが存在していたってことは分かるんです……。でも分かったの、その記憶が、確証が無いのに二人に会うことなんて出来ない……! 今、弟に、正樹に会って分かった、彼が弟だと名乗っても、私には記憶が無いの、正樹という名前だって父に聞いただけの情報で、心からそれを信じることが出来ないの!」


 ニイナは茉莉香の気持ちが痛い程に理解出来た。記憶が欠落している以上、それが事実だと言われても本人からすれば赤の他人でしかない。両者の間には埋められぬ溝が深々と広がっている。それにも関わらず先ほどの少年が自分のことを姉だと言う現実に、茉莉香は苦しみを覚えていた。


 『私は彼を覚えていないのに、彼は私を覚えている』その重い事実が、どうしようもなく茉莉香にのしかかってた。


「そうでしたか……今日回っていた場所は茉莉香にとって思い出の場所だったのですか?」


「はい……私の記憶に残っている場所に行けば何か思い出すかもしれないと思ったんです……」


「でも、駄目だった。ですね?」


「はい……」


 一度失った記憶は、脳細胞が死滅した以上、元に戻らないことは多分にあることであった。前後記憶すらもない、完全に失われた記憶を元に戻すというのは真っ白なキャンバスに再び絵を描くようなもので、失われた記憶の前後記憶があったとしてもそれが難しいものだることをニイナは理解している。


 一般的に記憶の再活性化に必要な条件は、情報の量と言っても過言ではない。情報さえあれば記憶の欠片を足りない情報を補完しながら繋ぎ合わせることは原理としては可能であるとされている。足りない記憶を不自然なく埋めること、それはキャンバスに絵を描くのではなく、あくまでもジグソーパズルの埋められていない穴を埋めるニュアンスに近い。


「それであれば、尚更お母さまと、弟さんとお話された方がいいと思います。出来れば、大事な記憶の引き金になるような思い出の品などもあればより一層記憶が回復する可能性も高まりますから」


「そう、ですね……」


 茉莉香は逡巡しながらも、ニイナの意見に頷いてみせた。


「私もご一緒しますから、お母さまと弟さんがいる家へ、行ってみましょう」


 ニイナは茉莉香へと手を差し伸べた。その手を恐る恐る取る茉莉香の姿は、令嬢をエスコートする麗人のように見えた。


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