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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第一章 とある記憶管理士の日常
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File1-10 ある記憶管理士の日常


「滑川様の症状は快復に向かっています」


 ニイナは滑川の診察と治療を終えると、真弓と共に、真人の部屋に訪れていた。


 既に熱の下がった真人は、真弓から提出された滑川の記憶安定性の数値に問題が無いことを確認しつつ、ニイナの言葉に静かに頷いていた。


「最愛の人に自ら引導を渡すという経験か……滑川氏にとってそれは強烈な体験だろうな。それまで積み上げたものが崩れさったように感じたとしても不思議では無いな」


「経過は観察しつつ、現状は記憶保管とする方がいいわね。記憶復元を本人が希望すればその限りではないけれど、今後の相談かしら。トリガーとなる記憶が記憶だけに、正直に言えばぶり返しの可能性が非常に高いと考えるべきね」


 真弓は内心では『このまま記憶保管とした方が、記憶管理代行業としても助かるし』と付け足していたが、ニイナの前ではそれを口にすることは無かった。


 真人はそうした心理を読み取ってか、真弓を一瞥しつつ、珈琲に口を付けた。芳醇な香りがニイナの下にも届いており、やや酸味の感じられる柔らかな香りが鼻腔をくすぐっていた。


「ありがとう二人とも。ニイナも記憶に呑まれる事なく滑川氏の根幹記憶を上手く探り当てる事ができたようだな、真弓の所感をもとにると記憶保管に移るのが妥当に思えるが、ニイナはどう思う?」


 不意に意見を求められたニイナは小首をかしげ不思議そうな顔を浮べていた。それは何故自分にそんなことを聞くのかという、純粋に疑問を呈しているようであった。彼女はこれまで、真人と真弓のサポートを行うことが主な業務であり、二人の意見に従うことが多かっただけに、特に医療行為としての記憶管理業務において意見を求められるという事が(ほとん)ど無かった。


「ニイナ、君は今回初めて主担当として記憶管理士の仕事を行った。それであれば、今後の治療方針についても自分の考えで結論を出す必要がある。真弓の方針に違和感があればそれを表明するのもまた、記憶管理士としての義務だよ」


 真人は丁寧な口調で諭すようにニイナにそう伝えると、ニイナは暫く考え込み、確りと真人の目を見ながら考えを伝え始めた。


「……それであれば、問題ありません。真弓の方針は正しいと思います。滑川様は記憶を取り戻す前に、紫苑さんとの別れを確りと受け入れる必要があります。自分の記憶に向き合うのは、その後でも問題は無いと、そう思います」


 真人はニイナの答えに頷くと、ちらっと真弓に視線を送り小さく頷いた。


「いいだろう、それであれば真弓の言う通り先ずは記憶保管を前提に治療を進めるよう先方には伝えるようにしよう。滑川氏の紹介元へも連絡を入れておくように。カウンセリングはこちらの専門外だからな」


「分かったわ、それは私がやっておきましょう。ニイナには書類の整理をお願いするわね?」


 真弓は満足気に答えると、ニイナも合わせて小さく頷いた。


「ニイナは記憶混同の無い様に念の為、明日は事務仕事をしつつ、経過観察としよう」


「はい、わかりました」


 ニイナは感情を表に出すことは無かったが、その瞳にはどこか嬉し気な気配が漂っていることを真人は見逃さなかった。





 次の日となり、いつもと同じようにニイナは日の出と同じ時間に目を覚まし、決まりきったルーティンをこなしていた。


 からっと晴れた夏日であったが、朝の時間は未だ気温が低く外での掃除をするには丁度いい時間と言えた。雲一つない空は青く澄んでおり、ニイナは心地よさを覚えていた。


 事務所の敷地周りを掃除していると、花壇に咲いた向日葵が目に留まり、その黄色で染められた花弁をまじまじと眺めていた。


「ニイナちゃん、おはよう」


「おはようございます」


 掃除を続けるニイナに老女がいつもと同じように声を掛けてきた。変わらない日常、変わらない世界、記憶にはどのようにしてこの情景が蓄積されて行くのか、ニイナは少し疑問を抱いたが再び老女の言葉に意識を奪われる事となった。


「今日は何だか、少し楽しそうね?」


 老女は軽くウインクをしながら、ニイナにそう告げるといつもと同じように煙草屋へと戻って行った。ニイナは目を丸くしながら、自分の頬をその細い指で思わず撫でていた。


「楽しそう、ですか……」


 何か、普段と自分が違うことがあっただろうか。


 記憶を思い起こす前に、何故か自然と先ほど見た向日葵へと視線が奪われていた。


 それは、記憶の中で微笑む女性の笑顔と共に想起される幸福な時間の象徴の一つであった。


「ああ、そうでしたか……」


 ニイナは自分の中で答えを見つけると、小さく言葉を零した。滑川晴明が持っていた滑川紫苑との記憶、ニイナが垣間見た他人の記憶に刻み込まれていた幸福は確かにニイナの中にも小さな喜びを残していた。


 ふと、ニイナは事務所へ戻り、如雨露に水を入れ、再び花壇の前に戻ると、そっと水を撒き始めた。緑色の茎に滴る水は艶やかに向日葵を彩り、湿った土からは確かに夏の香りが漂っていた。


 ニイナは静かに、けれど確かに微笑みを湛えていた。


第一章 『記憶管理士 泉ニイナ』これにて終章となります。最後までお読みいただき誠にありがとうございました。


ニイナの今後に幸福な記憶が残るよう、ブックマークとご評価、感想を頂ければ幸いです。第二章も引き続き何卒よろしくお願い申し上げます。

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