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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第一章 とある記憶管理士の日常
1/22

File1-1 記憶管理士 泉ニイナ

「ニイナちゃん、おはよう」


 泉ニイナは一軒隣に煙草屋を構える紫髪の老女から、いつもと同じく朝の挨拶を受け、おもむろに顔を上げた。


 ニイナと呼ばれた少女は、感情の見えない表情を浮べ老女を真直ぐに見つめると軽く会釈をした。


「おはようございます」


 彼女のくっきりとした二重瞼(ふたえまぶた)、整った長い睫毛(まつげ)に人形のように白い肌、しかし美人と呼ぶには未だ幼い相貌……そして降り注ぐ太陽光に反射するやや金色掛かった灰色の髪が、彼女の持つ清楚な雰囲気と相まって不思議な印象を見る者に与えていた。


「朝から今日も精が出るわね?」


 ニイナに声を掛ける老女の名前をニイナ自身は知らずにいる。にもかかわらず何故この老女がニイナの名前を知っているのか、それは彼女にとって知るところでは無かった。


 しかし、決まって挨拶をされるうちにそんなことも気にならなくなっていくもので、毎日のように繰り返されるやり取りに、漠然とではあるが、恐らくは自分の後見人である泉真人(いずみまさと)が趣味の煙草を買いに行くたびに何気ない会話の中でニイナの名前を出したのであろうと想像し、それ以上は自分が考える必要はないと判断を下していた。


「いつものことですから」


 ニイナの凛とした返答に老女は満足気に笑顔を見せると、膝が悪いのか、若干足を引きずるような仕草で己の店へと踵を返し引き上げていった。わざわざニイナへ挨拶をするのは、老女にとっても日課となっているようであった。


 朝の時間は、ニイナにとって日々の業務をこなす中で大切な時間であった。事務所の管理者である泉真人(いずみまさと)が起きるまでの間、彼女は誰に頼まれる訳でもなく、事務所の周りを掃除し、そして朝食を作る準備を始める。


 茹だるような暑さは未だ鳴りを潜め、朝特有の心地よい時間が時を止めたように揺蕩っている。花壇に咲いた向日葵は太陽を求めるようにその花弁を大きく開いているが、ニイナは、僅かに視線を送るとすぐに興味を無くしたように、掃除へと戻っていく。


 ニイナにとって、朝のこの時間は誰にも邪魔されることの無い自由な、そして孤独な時間であった。唯一、煙草屋の老女とのやり取りがあることを例外として、ではあるが。


 どうしてニイナは本来自分の仕事ではないはずの掃除に勤しむのか――家、として考えれば相当な広さを持つ敷地の掃除を一人で行うのは容易ではない。週に二度、契約を結んでいる清掃業者が敷地に入り全体的な清掃を受け持つものの、細かい部分は事務所の者がそれなりの頻度(ひんど)を以て対応する必要があり、ニイナは誰に言われるわけでもなくそれを自分の仕事としていた。


 記憶管理士が個人の事務所を持つに当たって制限が幾つかあるが、その中でも専任の記憶管理士資格者及び記憶抽出装置の操作に従事する記憶媒介(ばいかい)技術士がそれぞれ一名以上いること、そして記憶管理に十分な設備を有すること。この二点について取り決められた基準が満たされていることが開業における必須事項であった。


 その為に、敷地的な面から個人事務所の多くは郊外に立てられることが多く、都心に事務所を構えるのはそれこそ大手の法人会社ぐらいのものであった。


 朝七時半、朝食の支度に取り掛かるニイナの耳に上階から僅かに響く物音が届き、その気配から新城真弓(しんじょうまゆみ)が起床したことに気が付いたようであった。


「ふわあ……ニイナ、今日も早いわね。今日のアポイントは十一時からだったかしら?」


 階段を下りる足音と共に、新城真弓(しんじょうまゆみ)がもこもことしたパジャマの上下に身を包み、寝ぼけ眼で姿を現した。化粧の無い素顔は年齢以上に幼く見える程度には確りと手入れされているように見える。しかしその一方で、濡れたままの髪を放置して寝床に入った結果、あらゆる方向へとぐしゃぐしゃに跳ね散らかした髪が彼女のずぼらさを表してもいた。


 真弓はうっとしそうに乱暴に髪を撫でているが、一向に寝ぐせが取れる様子は見られなかった。


「おはようございます。はい、本日は二ノ宮様のご予約が十一時、十三時から丸山様、十五時に滑川(なめかわ)様、計三件の予定です。念のためですが、滑川(なめかわ)様はご新規のお客様で、記憶医療処置をご希望です」


 あくび混じりに声を掛けた新城真弓へとニイナは本日の予定を()(つま)んで伝えると真弓はげんなりとした様子を見せた。


「はー、相変わらずこんな郊外まで物好きが多いわね……。まあいいわ、ニイナも久しぶりの補助担当でしょう? 無理はしないようにね?」


「はい。ありがとうございます」


 現在、泉記憶管理事務所には事務処理や機器整備を担う派遣職員を除けば計三名が在籍(ざいせき)している。


 その中で新城真弓は記憶媒介技術士として記憶の移動に関する一切を取り仕切っている。


 といっても技術士が一名しか在籍しない以上は彼女がやるしかないというのが実情であった。


「真人のやつにも言ったけど、これ以上顧客を増やしたいなら私以外の技術士も雇わないとね。とは言え銀行から資金を引っ張るにしても時間は掛かるのよね……。まあ、ニイナに愚痴ってもしゃあなしよねー、いずれにせよ真人には給料交渉はしておかないと……」


 真弓のほぼ一方的な喋りを聞くこともニイナにとっては日常の一コマであった。


 そうこうしているうちに朝食が出来上がる。ベーコンエッグに味噌汁、そして納豆と白米、お歳暮に貰った瀬戸内海産の海苔を添え、ニイナは先程まで何も置かれていなかったダイニングテーブルに配膳を済ませる。


 配膳も終わり、ニイナはちらと二階を見上げ、身近な者にしか分からない程度に少し不審げな表情を浮べていた。


 いつも通りであればこの時間には降りてくるはずの泉真人(いずみまさと)が未だ姿を見せない。それはニイナにとっては異常事態であり、ニイナはそそくさとエプロンを外すと、静かな足音を立てながら二階に上がり、少し躊躇いがちに真人の部屋の前へと向かうと、二度のノックをした。


 しかし暫くそのまま待てど、中から声は無かった。ニイナはもう一度ノックをするが、真人からの返事はなく、仕方なく部屋の中へと入ることとした。


「真人、朝食ができました」


 泉真人(いずみまさと)の部屋に入ると、びっしりと棚に並んだ古今東西(ここんとうざい)の本が目に飛びこんできた。ちょっとした図書室といった印象を受けるような部屋であり、古紙のややカビ臭い匂いが漂いはするが、ニイナはその香りが嫌いではなかった。


 声かけには反応がなく、ニイナは再び室内に視線をさ迷わせると、事務用の机と、数日前に自分が水を変えた、花瓶に入れられたピンク色に咲いた菊の一輪挿しに目が留まる。飾り気の無い、真人の部屋の中で唯一と言っていい彩りであった。


 それ以外の家具はベッドが置かれるのみの簡素な部屋であり、部屋の主である泉真人は未だベッドの上で横になったままであった。


「……ニイナか」


 物音に気付いたのか、真人は身体を起こしベッドの端に腰掛け、疲れの残る表情でニイナを見ていた。普段とは違う様子にニイナは真人のおでこに手を当てる。


「熱いです。体調不良ですか?」


 ニイナが確認すると、真人は頷き肯定した。


「どうも目眩がする。真弓に今日のアポイントを延期するよう伝えて貰ってくれないか?」


「はい……新規の滑川様もお断り致しますか?」


 真人は少し考えた後に首を振った。


「滑川医院のご子息か……ニイナ、君が担当してくれ。君はもう立派な記憶管理士なのだから」


 ニイナは少し驚いたように逡巡の表情を見せた後に、躊躇(ためらい)いがちに(まなじり)を上げると、しっかりと頷いて見せた。


「分かりました。それでは滑川様は私が対応します」


 ニイナから出た言葉に真人は無言で頷くと、ニイナの頭を優しく()でた。それを最後に、真人は若干(じゃっかん)苦しそうな表情を浮べると再び寝床に潜り込み、ニイナに部屋から出るよう促した。


「朝食は後ほど部屋にお持ちしますから、落ち着いたら少しでも食べて下さい」


 ニイナはそれだけ言い残し部屋を後にした。


 部屋を出ると会話を盗み聞きしていた真弓と出くわし、ニイナはこれもまた変化に(とぼ)しいながらにそれを(とが)めるような視線を向ける。


「二ノ宮さんは今日は経過観察だけだから私が担当するとして、丸山さんのとこはキャンセルはやむなしか……。私から連絡入れておくわね。ニイナは午後の準備をしっかりしておきなさい?」


 ニイナの視線は全く意に介さずに、真弓は最初はどうしたものかと不安気な表情を浮かべていたが、切り替えたとばかりに、ニイナへと指示を出し階下へと姿を消した。


 ニイナは真弓の表情を分析しながらに思う。


 その不安は真人に対してのものか、それともニイナ自身に対してのものなのかを――

 


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