8 もう一人の雇われ人
空が茜色に染まる頃、
「じゃあ、またな。アリシア」
「いつでもこいよ」
「また味見させてあげるねー」
見送ってくれる彼らに手を振って、アリシアはヒューイと工房を出た。鍛冶作業場を横目に見て歩く。
「どうだった?」
「すごく美味しかったです。皆さん、親切でしたし」
「そう。よかったね。――あっ、そこ、大きな石があるからつまずかないように」
アリシアの行く十歩ほど前に、確かに石が転がっている。けれどこぶし大ほどの大きさだし、何より――。
子供じゃないんだから。
苦笑した。心配してくれるのは嬉しいけれど、さすがにこれにつまずいたりはしない。
本当に『妹』なんだなあ。
ヒューイにとって自分は。そこで前から疑問に思っていたことを聞いた。
「菓子工房の修道士さんたちと、前に悩み相談にこられた方も言っていたんですが、私の前にいた女性というのはどんな方だったんですか?」
修道士たちは彼女にいい思い出がなさそうだったし、悩み相談の奥様は「最悪だった」とさえ言っていた。
ヒューイが振り返り、真顔でアリシアを見た。
「――聞きたい?」
今まで聞いたことのない低い声音に心臓が波打つ。軽い気持ちで質問しただけなのに、ヒューイの顔はあまりにも真剣だ。
「本当に知りたい?」
念押しされて、アリシアは唾を飲み込んで「はい」と頷いた。
「どうしても?」
「……はい」
「本当に?」
「……」
ここまでくると、からかわれているだけの気がしてきた。顔をしかめると、ヒューイが明るく笑った。
「嘘、嘘。ハンナだよ。ここで働くもう一人の女性」
「私の隣の寝室を使っている子ですか?」
「そうそう」
実はまだ会ったことがないのだ。ヒューイが考え込むように口に出す。
「ハンナはね、うーん、なんと言っていいかわからないけど――ああっ、ちょうどいいところに!」
ヒューイの大声にそちらを見ると、修道院の建物の方から歩いてくる少女の姿があった。
わあ、綺麗な子……。
アリシアと同じ年くらいか。流れるような金の髪に整った顔立ちをしている。見とれるほどだ。
「おーい、ハンナ!」
ハンナがまっすぐこちらに向かってくる。
どんな子なんだろう?
期待と怖れで心臓の鼓動が速くなった。皆はいいようには言ってなかったけれど、たった二人の女性の雇われ人なのだ。仲良くしたいのが本音である。ところが――。
あれ?
ヒューイの呼びかけが聞こえているはずなのに、ハンナは何もない様子でアリシアたちの横を通り過ぎていってしまった。こちらを見ようとさえしなかった。
どうなってるの……?
戸惑うアリシアの前で、
「ハンナ、話があるから止まって!」
そこまで言ったところで、ようやくハンナが足を止めた。無表情で振り返る。
「呼びましたか?」
「うん。結構前から呼んでいたよ」
笑顔で教えるヒューイに、ハンナは全く表情を動かさずに続けた。
「確かに私の名前は聞こえましたけど、まさか呼び止められていたとは思わなかったので。すみません」
アリシアは衝撃を受けた。確かに最初ヒューイは「ちょうどいいところに」とか、「ハンナ」と名前を呼んだだけで、明確に呼び止めてはいない。
確かにこの子の言うとおりかもしれないわ。
思わず感心するアリシアに、ヒューイは全く気にしていない様子で気軽に紹介する。
「こちらはアリシア。一緒にこの大聖堂で働いてもらうことになったから。――アリシア、何かわからないことがあったらこのハンナに聞いて。今知ったけど、呼び止める時はちゃんとそういうふうに言わないと話を聞いてもらえないみたいだから、そんな感じで」
「……はい」
「ハンナ、アリシアはいわば後輩だからちゃんと面倒を見て――あれ?」
ハンナはすでに、左手の菜園の方へ歩いて行ってしまっていた。
アリシアはまだ話の途中だったと思ったけれど、ハンナにとってはすでに終わっていたようだ。またもや衝撃を受けていると、ヒューイが笑って言った。
「ごめんね、アリシア。ハンナはちょっと無愛想で堅苦しいだけなんだ。でも根はいい子だから。仲良くなったらきっとわかるよ。――多分ね。俺は仲良くないからよくわからないけど、おそらくそうなんじゃないかな」
適当過ぎる物言いだ。
「まあ話しかけても九割は無視されるから、本当によくわからないけど。ラウルなんてハンナに会うたびにキレてるからね。『なんであんなの雇ったんですか?』と毎回詰め寄られるんだよ。恐い恐い」
おもしろそうに笑うところではないと思う。
でもハンナを雇ったのもヒューイなのだ、とふと思った。
「告解室は小窓しかなくてほとんど顔が見えないだろう。それなのにハンナは返事はおろか、相槌すら打たないからさ。まあ顔が見えたとしても、表情も変わらずじっと一点を見つめているだけだから、結局一緒だったとは思うけど」
アハハと明るく笑う。
「すごい苦情がきてね。『小窓の向こうに座っているのは人じゃなくて、ただの人形なんでしょう。人形を椅子に座らせて話を聞いているふりをしているのね。なんて失礼なことをするの』ってな具合に。だから困ってアリシアを雇ったんだ」
「……なるほど」
先ほどのハンナの様子を思い出し、納得した。
そこへ、
「ヒューイ司祭! 待ってください!」
息を切らせて追いかけてきたのは、先ほどの菓子工房の修道士たちだ。
「おー、どうした?」
軽く応えるヒューイに、彼らは恐い顔で詰め寄った。
「ヒューイ司祭、棚に入っていた試作品の菓子を盗み食いしたでしょう?」
アリシアはギョッとした。
盗み食い? 司祭なのに?
心の悲鳴がそのまま顔に出ていたようだ。ヒューイが笑って言う。
「ちょっとその顔やめて。盗み食いなんてしてないよ。お前たちもいきなりなんだよ?」
「奥の棚に入れておいた試作品の菓子が、さっき見たらなくなっていたんですよ」
「それが、なんで俺のしわざになるんだ?」
「だってヒューイ司祭が一番やりそうなんで」
「それ、俺に対して失礼だろ」
顔をしかめて大きく息を吐く。
「お前たちがその試作品の菓子を作ったのはいつだ?」
「えーっと、一昨日ですね」
「昨日と一昨日、俺はカーター伯の葬式に出ていて、ここにはほとんどいなかっただろう?」
「あっ、そういえば」
「それに今日は、アリシアを案内してきた時以外はこの工房を訪れていない」
「確かに……」
彼らが顔を見合わせて考え込む。
「他に怪しい奴はいないのか? ここに試作品の菓子があることを知っていた奴もいるだろう?」
「まあ、別に内緒にしていたわけではないですし」
「でも俺、誰にも話してないぞ」
「僕もー」
彼らが次々と頷く中、背の高い修道士だけが目を丸くし、恐る恐る口にした。
「ハービーじゃないかな……? 僕、食堂で試作品のことをトーマスに話したんだけど、その時後ろにハービーが座っていたんだ。話し終わった途端席を立ったから、なんか不自然だなって思ってた」
途端に彼らは平静を失った。
「ハービー……だと? やりそう。あいつ、絶対にやりそう」
「菓子大好きだもんな。つーか食べ物全般?」
「ハービーって、よく失敗したお菓子もらいにくるもんねー。それ全部一人で食べてるって聞いたし」
「前に菓子工房担当だったから鍵も持ってるもんな」
どうやら嫌疑濃厚のようだ。けれど次の瞬間、一斉に士気が下がった。
「でも問い詰めても正直に言うかな……?」
「無理なんじゃないか? 試作品の菓子はもうとっくに食べちまっただろうし」
「あいつの口なら一口で消えそうだもんな」
アリシアが見てもわかるくらい落ち込んでいく。ハラハラしながら見守っていると、腕組みをしたヒューイが口を出した。
「つまり犯人には目星がついたが証拠がないわけだ」
「そうですね。悔しいですけど食べてしまえば終わりですし」
「ハービーのことだから、一欠片たりとも残していないだろうな」
「問い詰めても素直に白状する性格じゃないし」
揃って頭を抱える。
「つまり素直に白状させればいいわけだ?」
修道士たちが一斉にヒューイを見た。アリシアもだ。
その場にいる全員の視線を受けて、ヒューイは楽しそうに笑って続けた。
「罠にかけよう」
罠!?