7 菓子工房②
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短編から来てくださった方もありがとうございます。
なかなかとれないなあ。
井戸の横の洗い場に座り込み、置いてあった洗い布にレモンの汁をしぼる。そして力を込めて鍋をこすった。
水はとても冷たいけれど、工房の壁で北風が遮られるのはありがたい。それにすることがないのより遥かにマシである。
根っからの貧乏性なんだろうな。
苦笑して鍋をこすり続ける。
遠くで鶏の鳴き声や、かすかな人の声がした。
一人で黙って作業していると、再び故郷の町でのことを思い出してしまった。兄のこと、その恋人のこと、そしてアリシアと結婚するはずだったセオのこと。
淀んだ暗い気持ちが胸に充満して、何もかも放り出したくなる。
それでも唇を噛みしめて一心に鍋をこすっていると、
「貸せよ」
と声がかかった。
驚いて振り返ると、ジェスが片手を出していた。アリシアより少し年上くらいか。吊り目がちの活発そうな顔立ちに、白いレースの帽子がまるで似合っていない。
「後は俺がやるから」
「えっ?」
ジェスはアリシアの横に間隔を空けて座り込んだ。素早く鍋と洗い布を取って、こすり始めた。
「あの……?」
「すげーじゃん。半分以上落ちてる。そんな細腕で大変だっただろ」
こちらを全く見ることなく、ぶっきらぼうな口調でガシガシと鍋をこする。
すごい。
やはり力が違う。あっという間に緑青が落ちていく。
「今、タルト生地を焼いてる。焼き上がったら仕上げをするけど手伝うか?」
「えっ? はい!」
嬉しくなって笑顔で頷く。ジェスは視線をそらしたまま、またもぶっきらぼうに頷いた。
ピカピカになった鍋を持って、ジェスと工房に入る。
「おー、すげーじゃん!」
「本当だ。ピカピカだ」
鍋を見たエプロン姿の修道士たちが歓声をあげた。ジェスがアリシアを振り向いて言った。
「ほとんど、この子がやった」
「ええっ!?」
彼らが一様に目を丸くした。
顔を見合わせて、
「前の子と全然違うじゃん」
「本当に手伝いにきてくれたのか。前の子と違って、いい子なんじゃないか?」
と、ひそひそ話している。
前の子とは、悩み相談の奥様が言っていたのと同じ子なのか。もしや、ここで雇われているもう一人の女性のこと?
ジェスがアリシアを示して言った。
「タルトの仕上げを手伝ってもらうから」
「よろしくお願いします」
アリシアが頭を下げると、
「おい、普通に話ができるぞ!」
「会話が通じるじゃないか!」
と、驚いた声すら聞こえた。
どんな子だったのかしら?
こんな当たり前のことで驚かれるなんて戸惑いしかない。
「タルトが焼き上がったぞー」
その言葉にアリシアは急いで振り返った。大きな鉄板の上に、カップ型に入ったタルトがぎっしりと並んでいる。
「わあ……!」
思わず華やいだ声が出た。
修道士たちが手のひらサイズの型から、手際よくタルトを外していく。その間に別の修道士が、型に入れた新たなタルトを焼いていくのだ。
甘い匂いがただよう場所だけど意外に力仕事なのね。
感心していると、修道士たちからためらいがちに声をかけられた。
「アリシア……だったか? 俺たち、ちょっと誤解していたみたいだ。ごめんな」
「そっけなくして悪かったよ」
「あっ、いえ、そんな。大丈夫です……!」
慌てて答えると、目の前に湯気のたつタルトが差し出された。
「僕もごめんね。味見するー?」
笑顔で差し出していたのは、アリシアと同じ年くらいの人懐っこそうな修道士だ。お詫びのタルトなのだろう。濃厚なバターをたっぷりとのせてある。
「いただきます……!」
嬉しい。こんな高級な焼き菓子を食べるのも初めてだし、さらにこんなにたっぷりの量のバターを食べるなんてこともない。
タルトを口に入れた瞬間、さっくりとした歯応えと、バターの舌の上でとろけるような芳醇な香りが口いっぱいに広がった。
美味しいい!
感動ものである。まだ焼きたてで熱いけれど、そのせいで周りのバターがとろけているのもさらにいい。
「すっごく美味しいです!」
今まで食べたことがあるお菓子とは別物だ。
「そうでしょー?」
「自信作だからな」
夢中で味見するアリシアを、ジェスたち修道士は最初の頃とは打って変わって微笑ましそうに見つめている。
あっという間に食べ終わってしまった。
「タルトの仕上げって何をするんですか?」
気になって聞くと、彼らは色とりどりの瓶を出してきた。きっちりと蓋がしてある。
「もしかしてジャムですか?」
驚いた。
チェスターの教会でたった一度だけ、スプーンに一さじもらって食べたことがある。けれど、これほど色々な種類のものは見たことすらない。苺に林檎、オレンジ、葡萄、ブラックベリーにアンズなど。
「そうだ。コンフィチュールともいう。これは全部ここの果樹園で採れたもので、俺たちで作ったんだ」
「すごいですね」
砂糖で煮詰めるのだから高級品である。それがこんなにもある。すごい。目まいがしそうだ。
「ジャムも人気でよく頼まれるんだよー。これはその残り。修道士たちのおやつにも出すよ。大司祭様は甘いものがお好きだからねー」
「この前の、ジャムをはさんで焼いたパイは絶賛されたよな」
「大司祭様はお優しいよなあ。俺たちとも普通に話すし、偉ぶったところもないしな」
そうなのか。アリシアはまだ大司祭に会ったことがない。
「このジャムをタルトに詰めるんだ」
「ああっ!」
ジェスの説明に大声をあげてしまい、アリシアは慌てて口元を押さえた。
それ、絶対に美味しいわ。
タルトだけでも充分美味だったのに、そんなことをしたら最強じゃないか。
「じゃあ、仕上げにかかるか」
「やろうー。アリシアはジャムを食べたことあるー?」
「前にいた町で一回だけ。教会で礼拝の時にもらいました」
「そうだよねー。普通はそうだよー」
ジェスが色とりどりの瓶詰めのジャムを示した。
「好きなの食ってみていいぞ」
えええっ!?
驚愕である。さっきのバターたっぷりのタルトだけで天国に行けるかと思った。それなのに、さらにこんな高級品まで。なんだか罰が当たりそうだ。
「い、いえ、そんな! 私なんかが滅相もないです!」
恐れ多くて必死に首を横に振ると、ジェスが困惑したように眉根を寄せた。
「……いや、ただの味見だぞ? 全部食っていいとは言ってないからな」
「アハハー。さすがにこれ全部食べたら、お腹を壊すよー」
「ここの伝説になるな」
と、他の修道士たちもうんうんと頷いている。
いや、そんなこと思ってないから!
心の中で弁解するアリシアに、ジェスたちは顔を見合わせて楽しそうに笑った。
「でもここに女の子がいるのは新鮮だよな」
「ああ。驚く光景だ」
「なんかちょっとドキドキするよねー」
比較的若者が多い菓子職人たちは照れたように笑う。アリシアは狼狽した。
「いえ、そんな! 私なんかにそんなことを思ってもらうのは申し訳ない限りです!」
彼らはぽかんとして、それから一斉に噴き出した。
「なんでそんなに卑屈なんだ」
「さっきから、ちょいちょい後ろ向きな発言するよね」
「アリシアっておもしろいねー」
おもしろい、なんて初めて言われた。
不思議な気持ちで、彼らと一緒にジャムを詰める。ジャムのてっぺんには、砂糖漬けの果実やスライスしたアーモンドなどを彩りよくのせていく。
隣で作業しているジェスがぼそっと口にした。
「菓子作りも聖職者の大事な労働の一つなんだ。素材が持っているおいしさは神からいただいたものだから、菓子は心の作品とも言える。食べる人にもきっとそれが伝わる。聖堂でするのは言葉と心の祈り、働いている時は手と足を使った祈りだ、と俺は思ってる」
素敵な言葉だ。素直にそう言おうとしたら、
「語ってるねえ」
「格好いいー」
「お前がそんなこと誰かに言うなんてめずらしいよな」
他の修道士たちも耳を澄ませてちゃんと聞いていたようだ。ニヤニヤと笑いながらジェスを見た。
「うるさいな」
ジェスが顔を赤くする。
「でも素敵でしたよ」
アリシアが笑顔で言うと、ジェスはますます顔を赤くして勢いよく視線をそらした。
「はい、出来上がり!」
「完成だー!」
大皿に並んだタルトは光り輝いているように見える。こんな綺麗で美味しそうなお菓子を、アリシアは今まで見たことがない。
「宝石みたいですね」
目を細めて言うと、彼らはちょっと驚いた顔をして、そして嬉しそうに笑った。
しばらくしてヒューイが姿を現した。
「やあ。アリシアはどんな感じ?」
心配して様子を見にきてくれたのだとアリシアは思ったが、修道士たちは呆れた顔で言った。
「ヒューイ司祭、そろそろ菓子が焼き上がる頃だと狙いをつけてきたんでしょう?」
「そんなことないよ。失礼なこと言わないでくれる?」
顔をしかめながらも、作業台の上に並んだタルトやゴーフルに目を輝かせた。
「一個もらっていいか?」
「駄目です」
「なんで? 今度はちゃんと事前に聞いただろう」
「これらは大事な頼まれもので、大聖堂の資金源です。わかってますよね?」
「当たり前だろ。俺、ここの司祭だよ?」
渋い顔で、作業台の横のテーブルを囲むアリシアやジェスたちを見回した。
「それにお前たちは食べてるじゃないか」
テーブルには先ほど作ったお菓子が並んでいる。ジェスがゴーフルをかじりながら、しれっと言った。
「これは味見ですから」
「俺も味見してやるよ」
「ヒューイ司祭は駄目ですよ。菓子作りを頑張った者たちだけです」
「えー」
不満げな顔をしながらも、ヒューイは修道士たちに混じって座るアリシアに視線をやった。そして苺ジャムがいっぱい詰まったタルトを美味しそうに頬張るアリシアを見て、目を細めた。