6 菓子工房①
翌日ヒューイに呼ばれた。ヒューイは他の修道士たちと同じ黒のフード付きのローブを着ている。
てっきりまた相談役かと思ったら、
「さすがに毎日はないよ。だから今日は菓子工房の手伝いを頼むね」
「わかりました」
お菓子の工房かあ。楽しみだな。
ちょっと浮かれながら、ヒューイに案内されて、修道院の裏手にある菓子工房へ向かった。
修道院の建物を抜けると、右手が各種工房だ。チーズ工場や菓子工房、鍛冶屋の作業場などに、鶏舎や牛舎まである。
左手には菜園や果樹園が広がる。特に葡萄畑と小麦畑は広大だ。そこをさらに進むと墓地がある。
黒いローブ姿の修道士たちがあちらこちらで作業していた。
本当に広いわよね。
作業場の脇を歩きながらアリシアは感心した。
不意に冷たい風が吹きつけた。体の芯まで凍えそうだ。冬にはよくこういう風が吹く。
ぶるっと体を震わせたアリシアに、ヒューイが眉根を寄せた。
「寒い?」
「いえ、大丈夫です」
ヒューイが自分の着ているローブの胸元をつまんだ。
「外套を着てくればよかったな。これしか着てないし。でもよかったら着る?」
とんでもない。ローブの下はおそらく肌着だろう。冬物だろうけれど、そんなもので外を歩かせられないし、だいいちヒューイが寒いじゃないか。
アリシアは笑って言った。
「本当に大丈夫ですから」
「そう? 遠慮しないで言ってね。俺にとってアリシアは妹みたいなものだから」
何気なく言ったのだろう。けれど、瞬間兄のことを思い出した。胸が締めつけられるように苦しくなった。
兄さんは今どこにいるんだろう。あの恋人と幸せに暮らしているのかしら――。
唇を噛みしめていると、ヒューイの視線に気がついた。ハッとしてうろたえるアリシアに、
「大丈夫?」
とまた優しい口調で聞く。
「だ、大丈夫です」
不安な心にスッと入り込んでくる人だな。不思議だ。聖職者だからかしら。
考えていると、ヒューイがまじまじとアリシアを見つめた。
「やっぱり小さいから、より寒いんだろうね」
何を言われたのかわからず、しばらくして、ああ体型のことか、と思い至る。しかし確かにアリシアはヒューイに比べたら小さいが、成人女性の中では高くも低くもない。まさに中肉中背である。
「私、特に小さくはないですよ?」
「そう? あー、男ばっかり見てるからかも。なんか小さいというか華奢に感じるよ」
と恥ずかしそうに笑った。
菓子工房は緑色の屋根の建物である。
ドアを開けた瞬間、全身が甘い匂いに包まれて幸せな気分になった。工房へ近づくにつれて匂いはしていたけれど、やはり中は匂いの濃さが違う。
立派な石窯に広い作業台。鉄や銅製の鍋やフライパン、ヘラや伸ばし棒など、様々な調理器具が並んでいた。
「手伝いの子を連れてきたよ」
ヒューイが声をかけると、工房の中にいた七人の修道士が一斉に振り向いた。
なんだか可愛らしい。
聖職者相手に失礼だとは思う。けれど菓子職人と呼ばれる修道士たちは、黒のローブではなく、首からすっぽりとかぶる白いエプロンに白い帽子をかぶっているのだ。
帽子は丸くて頭に沿う形で、裾にはレースがついている。ちょうど夜寝る時にお金持ちがかぶるナイトキャップのような感じである。
ヒューイが笑ってアリシアに言った。
「あの帽子いいだろう? 菓子工房長が服飾長にチェスで負けて、全員かぶるはめになったんだよ」
小声で話しているつもりだろうが、狭い工房の中では丸聞こえである。
菓子職人の一人が顔をしかめた。
「ヒューイ司祭、聞こえてます」
「本当? ごめーん」
全く気にしていない。
「よろしくお願いします」
アリシアは丁寧に頭を下げた。けれど――。
あれ?
なんだか彼らのアリシアを見る視線が冷たく感じるのは気のせいか。
「おっ。これ新作?」
ヒューイは作業台に並んだシナモンクッキーを気軽に手に取った。そのまま口へ放り込む。
「美味いじゃん」
「……一声かけてからにしてくれますか」
「でもこれ美味いよ。たくさん売れるんじゃないか?」
驚いて思わず「売るんですか?」と聞いていた。
アリシアのいた町でも、教会の神父がたまにパンやお菓子を焼いていた。けれどそれは礼拝の際に信者に配るものであって、お金で売買するものではなかったからだ。
「もちろん礼拝の時に配ったりもするけど、貴族や商人の屋敷と契約していて定期的に持っていったりもする。うちは教区民からの税金や寄進で運営しているけど、それを少しでも安くするために、今の大司祭様が始めたことだ。
他にも葡萄酒やチーズ、パンなんかも頼まれているよ。裏の菜園で採れたものを使うから質がよくて、見た目も味もいいと好評だね」
へええ。
「じゃあ俺は洗礼式の司式をするから行くよ。アリシアをよろしくね」
そう言い置いて、ヒューイは工房を出て行った。
残されたアリシアを、修道士たちはやはり遠巻きに見つめている。
「おい、信用できるのか?」
「また前みたいに途中で放り出して、怒って帰ったりしないだろうな?」
「あんなの絶対に嫌だぞ」
彼らは小声で話しているのでアリシアには聞き取れない。
それでも不必要に警戒されていることだけはわかる。不安になってきた。
「あの、何をお手伝いすればいいですか?」
近くにいた修道士に聞くも、
「別に手伝ってもらうことはないよ」
と取りつく島もない。
「鶏舎から卵をもらってくるよ」
「おい、これ混ぜてくれ」
彼らはアリシアには目も向けず、内輪で作業を始めた。
なんだか寂しい……。
することがないので、壁際に立って彼らを見つめた。
あれ、お砂糖よね?
小さな壺にぎっしり詰まっている、薄い茶色の細かい粒。砂糖は自国で採れず、外国から買い付けるしかないので貴重品である。
だからアリシアたち平民は、お祭りやお祝いごとでお菓子を作る時には蜂蜜を使う。それでも十分甘くておいしいけれど、あれだけ砂糖がふんだんにあったら、とろけるような甘さだろう。工房内に充満する甘い匂いの正体も頷ける。
エショデを作っているんだわ。
修道士の一人が布で包んであった生地を取り出し、小さく切って平たくしている。
茹でてからさらに窯で焼くのだ。塩味の固い食感で、お酒を飲む男性にも人気のお菓子である。
あっちはゴーフルなのね。
小麦粉と卵、バターに蜂蜜を混ぜた生地を、蜂の巣のような形の四角い型に入れて焼く。さらに網でこんがりと焼き色をつけて、形を揃えたら出来上がりだ。
美味しそう。
精製された小麦粉も卵も蜂蜜も高価なものである。だからアリシアがたまに家で作ったのは、ちょっぴりの小麦粉と、さらにちょっぴりの蜂蜜に、どぼどぼと水を混ぜて焼いたガレットだ。
薄いクレープのようなお菓子で、果物をのせたり、チーズのかけらをのせたりして食べた。
それでも十分ごちそうだったけれど、ここのお菓子は材料からしてすでに違う。
さすが大聖堂だわ。
修道士の一人が小麦粉を木製のふるいにかけている。小麦も畑で採れたものだろう。卵も鶏舎から持ってくると言っていたし、チーズ工場があるくらいだからバターも手作りに違いない。養蜂もしているのだろう。砂糖は教区民から税金の代わりに納められる。
すごいなあ。ほぼ全部、ここで採れるものなんだ。
好評なのも頷ける。
「おい、これはなんだ?」
突如、不満げな声が飛んだ。ビクッとしてそちらを向くと、修道士の一人が銅製の鍋を高く掲げていた。
「こんなにしたのは誰だよ?」
見れば、その鍋の中は緑色に変色しているではないか。銅が空気に触れて酸化する、緑青と呼ばれる現象だ。
うわあ……。
アリシアは顔をしかめた。手入れを怠ると、ああなるのだ。そしてなかなか取れない。
「怒らないから正直に言えよ」
「もう怒ってんじゃん。俺じゃないぞ」
「俺も違う」
「僕もー」
口々に答える彼らの中で、一人の修道士が右手を挙げた。
「ごめん。俺だ」
「ジェス、お前なー。使った後はちゃんと手入れしろよ」
「悪かったよ。この前、時間がなくて急いでたんだ。後でちゃんとしようと思っていたら忘れてた」
「ちゃんと綺麗にしとけよ」
「わかってるって」
ジェスはうんざりした顔で、変色した鍋を手にしている。
アリシアは声をかけた。
「あの、それ私が洗いましょうか?」
「えっ?」
ぽかんとした顔でアリシアを見る。まさに唖然、だ。
ジェスだけではない。工房内の修道士たち全員が大きく目を見張って見つめてくる。
どうしたの……?
不審に思ったけれど、このままここに突っ立っていても居たたまれないだけだ。することがあるだけで嬉しい。
「綺麗にすればいいんですよね? じゃあ洗ってきますね」
工房のすぐ外に井戸があったのを思い出す。アリシアは鍋と、作業台に転がっていた半分のレモンを手に、工房を出た。