3 アリシアの過去②
「どうぞ座ってください」
椅子を勧めるも、彼らは頑なに座ろうとしない。
そして結婚相手のセオは、町中で会えば小さくだけれど頷いてよこした。それなのに今は、アリシアと視線を合わせようともしない。
ああ、駄目だわ。
胃の中のものが戻ってきそうな感覚に襲われた。
セオの父親が言いにくそうに口を開いた。
「すまないが、今回の結婚の話を白紙に戻してほしいんだよ」
驚きよりは、やはりという落胆の方が大きい。
「……理由はなんですか?」
気力を振り絞って聞いた。
「君の兄さん、アーロのことだ」
「えっ……」
「言いにくいんだが、実は昨日、うちの娘がさつま芋をたくさんもらってね。アリシアにもおすそ分けをすると言って出て行ったんだ。帰ってきた娘が言うには、アリシアの家にアーロと男がいた。ただならぬ雰囲気に声がかけられず、ふと見ると窓が少し開いていて――」
立ち聞きされていたのだ。
理由がわかって頭に浮かんだのは「絶望」である。
「アリシアに親がいないのは構わないんだよ。アーロがアリシアを必死で育てるのを見てきたし、アリシアもよく頑張った。だがその、同性愛で教会を追われたとなると……」
口ごもる。当たり前だ。
「幸いにも私たち家族しか、このことは知らない。アーロも誰にも知られないよう姿を消したんだろう。私たちも決して他の者に言うつもりはない。その代わり――」
この結婚話を白紙に戻してほしい、ということだ。
アリシアが選べる答えは一つしかない。わかっている。
それが誰にとっても都合がいいことなのだ。ちゃんとわかっている。
それでも一縷の希望を込めて、セオに視線を送った。ほんの一瞬でもいい。以前のようにこちらを向いてくれたら、それだけで救われる。
けれどセオは固い顔つきで床に視線を落としたまま、アリシアを見ることはなかった。
「……わかりました」
小さな声で答えると、セオの父がホッとしたように肩を下ろした。
「すまないね。これからも同じ町の仲間だから困った時は頼っておくれ」
そう言い残し、セオを促すようにして出て行った。
残されたアリシアは涙も出なかった。
たった二日だったな……。
たったの二日で、思い描いていた幸せが全て消えた。自分の許から消え去った。
ふらふらと隣の寝室に入ると、奥の壁にかけてある縫いかけの白いワンピースが目に入った。結婚式で着ようと思っていたものだ。
普通は花嫁の母親が作るのだけれど、アリシアに母は亡い。だから自分で少しずつ縫っていたのだ。
忙しい仕事と家事の合間に暇を見つけては少しずつ少しずつーー。
見るのが辛くて目を背けた。
途端に今度は、ベッドの横の棚に置いてあるスカーフが目に入った。兄が結婚祝いにとくれたスカーフだ。
せっかくアリシアのために選んでくれたのに、兄とその恋人の前ではとうとう手に取れなかった。誰に対して抱けばいいのかわからない、怒りのような罪悪感のようなものが込み上げる。
気がつくと、声もなく涙があふれていた。
両方、必要なくなっちゃったなあ。
心のままにアリシアは荷物をまとめた。
どこか知らない街へ行こう。
私のことを誰も知らない街で、一からやり直そう――。
――そうして、この都市シャルドへやってきたのだ。
「で?」
というヒューイの声に、ハッと我に返った。
「で、どうしてうちで働くのは嫌なの?」
「え、えっと……」
とても本当のことは答えられない。
街が違うといえど、彼らは兄と同じ聖職者だ。そしてシャルド大聖堂はこの街の中心でもある。
アリシアが戒律を犯した者の身内だとわかったら、大聖堂だけでなく、この街にもいられないかもしれないーー。
背筋がゾクッとした。故郷の町を出てきて、他に行くところなんてない。
先の見えない恐怖に強く唇を噛みしめると、不意に、
「大丈夫?」
と優しい声が降ってきた。
驚いて顔を上げる。ヒューイが柔らかい笑みを浮かべてアリシアを見守っていた。
まるで昔の兄のような、全てを包み込むような優しい笑み。
グッと心が動いた。涙が出そうになり、さらに唇を噛みしめる。
「うちで働いてくれる?」
温かい声音に、アリシアは言葉が出ず、代わりに大きく頷いた。
「これからよろしくお願いします。アリシアさん」
その声に振り返ると、ラウルもまた穏やかな笑みを浮かべていた。
✳ ✳ ✳
都市シャルドの中心部に、周囲にぐるりと石の柱が立ち並ぶ大きな円形の広場がある。その奥に市庁舎と並んでシャルド大聖堂はあった。
「すごい……」
アリシアは息を呑んだ。
この国を造ったとされる神々の姿が細かく彫られた、アーチ型の正面扉が三つ。その上にはあざやかな模様のガラスをはめこんだ円形のバラ窓がある。
左右にそびえる二本の塔はどこまでも高い。向かって左側は、市民に時間や祭日などを告げる鐘楼である。尖塔は空を突き刺しそうな勢いだ。
「アリシア、こっちだよ」
呆然としていると、ヒューイに笑顔で手招きされた。
塔から右側へ、石造りの建物に沿って歩く。角を曲がるも、その先にはまだまだ同じ石造りの建物が続いているではないか。
アリシアは驚いて聞いた。
「これ全部、大聖堂なんですか?」
「ん? いや、ここは修道院部分だね」
やっと裏門に着く。門番が一礼してアリシアたちを敷地内に入れた。
「大聖堂には修道院が併設しているんだ。だからここが修道士たちの生活の場だね」
「中は広いんですね」
「そうだね。修道院内には各種工房や施療院、学校、菜園、それに果樹園なんかもあるから広いよ」
「墓地もありますよ」
と、前を歩いていたラウルが振り返って言った。
はあ、すごいわ……。
感心するばかりだ。
ヒューイたちは四角い中庭をぐるりと囲む長い回廊を歩いていく。
数人の修道士たちに行き会った。彼らは皆、フードがついた黒い毛のローブを着ている。腰に革の細いベルトを巻き、木の珠のロザリオをぶら下げている。それに手縫いの皮靴。
彼らは一様に、ヒューイとラウルに丁寧に頭を下げる。
そして次にアリシアに目を留めて、またも一様に驚いた顔をするのだ。
なんだか居心地が悪い……。
両手で抱えた鞄に若干顔をうずめながら、アリシアはヒューイたちの後を隠れるようにして進んだ。
ヒューイが困った顔で振り向いた。
「ごめんね。若い女の子をこの修道院の中で見るのはめずらしいから」
「というかアリシアさんを入れて二人しかいません」
ラウルの言葉に面食らう。
「そうなんですか!?」
修道院は食事の支度から洗濯、畑仕事に糸紡ぎまで全て修道士たち自身で行う。だから女性の使用人は少ないと聞いていたけれど、まさか二人とは。驚愕である。
私、やっていけるかしら……。
不安が込み上げた。
ヒューイが笑顔でフォローするように言う。
「でも隣接する司教様や大司祭様の宮殿では、たくさんの女性が働いてるよ。彼女たちがこの修道院の診療所や学校、畑仕事などを手伝ってくれているから、実質二人ではないから」
「それにここの修道士たちは街へも出られます。だから今まで女性と接したことがない、なんて奴はいないので安心してください」
「は、はい」
頷くアリシアの前で、ラウルがヒューイに話しかけた。
「街の郊外にある修道院はすごいですよね。こことは違って、戒律が厳しくて徹底してますもん。守らなければならないのは、清貧、貞潔、服従でしたっけ?」
「三つの誓い、な。すごいよな。俺、そこじゃなくて本当によかったよ」
「僕もよかったです。特に『服従』なんて絶対に無理ですよ」
「それ、俺に対してだけだろう?」
顔を見合わせ、一瞬の間を置いてアハハと笑い合う。明るい司祭と助祭である。
「あの、それで私は何をすればいいんでしょうか?」
アリシアが問うと、ヒューイが振り向いて笑みを浮かべた。
「アリシアを雇ったのは、信者の悩みを聞いてもらいたいからだよ」